消せない場所
「来たのは、いいが…どうしたものか…」
学校への復帰は、明日からとなっていたが、どうも落ち着かなくって、ゆうはつい最近までの定位置に来ていた。
カンカン照りの太陽の下、手摺りに肘を置きながら、どうしたらいいのか、悩んでいた。
「これじゃ…今までと変わらんぞ」
折角、どこでも動けるようになったのに…。
「具体的に、何をすれば…」
頭を抱えながら、太陽を見上げた何十年ぶりの昼間を、喜んでいる余裕もない。
ふと、誰かの気配を感じた。
何となしに、ゆうは右側にある南館への出入口の方を、向いた。
見上げたままの姿勢で、ゆうは、立ち止まっている女生徒に気付いた。
直感的に、ゆうはその女生徒が、明日香の関係者であることがわかった。
顔は似ていないし、雰囲気も違うけど…どこからか流れる香りが似ていた。
(風のにおいだ…)
放課後の夕暮れの中、少し走って、渡り廊下にやってくる明日香が、運んでくる風の香りがした。
(この子が…明日香の…)
絵里香から、話は聞いていた。明日香は結婚し、二人の子供がいると。
実際、娘と会うと…愕然としてしまう。
(こんな…大きい子が)
実際、明日香に似ていたら、さらにショックだったかもしれない。
(いや、逆に惚れるかな)
と考えて、思い切り頭を横に振った。
(なんてことを考えるか!俺は!)
1人で、あたふたしていると、
女生徒は呟いた。
「加藤さん…」
「え?」
どうやら、女生徒は美咲を知っているらしかった。
こちらを見て、とても驚いた顔を向けて、立ち止まっている。
「え…」
ゆうは、すぐに名前が出てこない。
(確か…は、速水だったっけ…)
憎い名字である為、覚えたくないが、忘れられない名字だった。
ゆうは、絞りだすように口を開いてみた。
「は、速水さん…?」
愛想笑いを浮かべながら、和恵の方に体を向けた。
その瞬間、和恵はゆうに背を向けて、来た道を戻っていった。全力で走り去っていく。
「え?」
1人愛想笑いを浮かべたまま、ゆうは…渡り廊下に取り残された。
激しく息を切らせて、渡り廊下から離れた和恵は、校舎を渡り、一番離れた北館まで来ていた。
胸を押さえ、鼓動を抑える。
和恵の脳裏に浮かぶ…美咲を囲む生徒の嘲笑。
その輪から離れ、その様子から、目を背ける自分。
関わってはいけない。
と思う気持ちと、助けなきゃという罪悪感。
その狭間で、何もできない自分を…どうしたらいいのかわからない。
美咲がいなくなり、沈静化したクラス。
葛藤から解き放たれ、和恵はやっと学校で、音楽をやる気になった。
しかし、肝心の軽音部はなく…美咲も戻ってきた。
和恵は再び…罪悪感で一杯になった。
(加藤さんが…ああなったのは、もとはと言えば…あたしのせいだ)
でも、和恵は美咲と話す勇気はなかった。
「あたしに連絡する時は、いつも急だよね」
オープンテラスのカフェでの昼下がり。
数多くのショッピング街が並ぶ、駅のセンター街。
そこを抜け、小高い山へと登る坂道は、カフェや雑貨屋が多かった。
坂道に沿ったテラスの一番奥に、ティーカップを傾ける女がいた。
藤木里緒菜。
「まあ…いいんだけどね」
里緒菜は静かに、カップを置いた。
「あんたは、忙しいんだから…。ちゃんとアポ取っても、いっしょだからよ」
里緒菜の前で、アイスコーヒーのグラスの中の氷を、ストローで掻き混ぜながら、頬杖をつく女。
そんな様子に、里緒菜は呆れながら、言葉を続けた。
「あたしは、いつでもこの町…この国にいるけど…あんたは、すぐにいなくなるから…。きいてるの?香里奈」
里緒菜の言葉を、上の空で氷をかき混ぜ続ける香里奈は、口を尖らせた。
「きいてるわよ」
「まったく…」
里緒菜はため息をつき、
「ずっと日本にいないし…連絡しょうにも、携帯も持っていないなんて」
香里奈は、かき混ぜるのをやめた。
「携帯なんてなくたって、風が教えてくれるわ。行き先をね」
本気とも冗談ともつかない香里奈の言葉に、里緒菜はさらに呆れた。
「そのわりには…あたしには、よく連絡してくるけど。あんたが世界中からかけてくるから、あたしはつねに知らない番号でも、取らないといけないんだかね」
「ごめん…」
香里奈は素直に、謝った。
「別に構わないんだけどね」
二人の間に、無言の空気が流れる。
香里奈はまた…ストローを回すと、里緒菜に目を向けた。
「ところで〜あんたの旦那は、元気なの?」
里緒菜の旦那…藤木和也は、香里奈の親戚にあたる。あまり、親戚間で交流はないが、香里奈と和也…里緒菜は、高校の時のクラスメートである。
「元気よ」
「そお…」
きいておいて、素っ気ない香里奈の返事に、里緒菜は持とうとしたカップを置いた。
「…」
言おうとした言葉を、一度飲み込み…里緒菜は言い直した。
「ナオくんも元気みたいよ」
「え…」
氷を回す香里奈の手が止まった。
手を止め、言葉に詰まる香里奈の姿に、里緒菜はただ口を開いた。
「和也とは、仲が良いから…たまに、会ってるみたいだけど、あたしはもう長いこと会ってないわ」
里緒菜は、言葉を続けながら、香里奈を観察していた。
(この子は…)
しばらく香里奈を見つめ、ため息とともに、口を開いた。
「…今度、同窓会があるみたいよ。祥子から、香里奈に会ったら、伝えといてと」
里緒菜は、椅子に置いてあったデニム生地の鞄から、一枚の紙を取出し、香里奈に差し出した。
「恵美に、子供が産まれてから、初めて…みんなで会うことになるわね」
香里奈は、受け取った紙を広げた。相変わらず、細かくスケジュールが組まれている。
(ショウちゃんらしい…)
自然と笑みが出る香里奈を見て、里緒菜は少し微笑んだ。
「あんたは、参加できるの?」
里緒菜の問いに、
「え」
香里奈は顔を上げた。
「みんな待ってるし…会いたがってる」
里緒菜は、カップを持ち、一口啜った。
香里奈は、里緒菜から視線を外し、黙り込む。
里緒菜はゆっくりと、カップを置いた。
「別に、無理強いはしない。あんたに参加する気があるなら…」
突然、里緒菜の携帯が鳴った。
「ごめん」
里緒菜は、携帯に出た。
少し話すと、携帯を切った。
「会社からだわ。戻らないと…」
里緒菜は席を立った。
「里緒菜…」
香里奈は、里緒菜を見上げた。
里緒菜は鞄と、伝票を引っ掴むと、
「参加するんだったら、電話して」
香里奈に目をやった。
香里奈はこたえない。
里緒菜は、もう香里奈を見ず、背を向けた。
「最後に…一言だけ…。迷ってても、答えなんてないからね」
そう言うと、つかつかとヒールの音を立てて、里緒菜はレジに向かう。
1人になった香里奈は、テラスから外の景色に、目を向けた。
人々の行き交う姿を見ていると、自分だけが立ち止まっているように感じてしまう。
だからまた…目を伏せた。
「なんなんだ…」
全速力で立ち去った和恵の後ろ姿を見送ったゆうは、ただ呆然として渡り廊下に突っ立っていた。
風が吹き、スカートの間を通り過ぎた。
「さ、さむっ!」
思わず、ゆうは身を縮ませた。
「何だよ!このスカートってやつは…寒いだけで、何のメリットがあるんだよ」
思わず毒づいたゆうの耳に、絵里香の声が飛び込んできた。
「お兄ちゃ…じゃない!加藤さん!どうして、ここにいるのよ」
血相を変えて、走ってくる絵里香に、ゆうは手を上げた。
「よう!絵里香!」
「絵里香じゃない!」
その時突然、突風が吹いた。
めくり上がるスカート。
平然としているゆう。
絵里香は、ダッシュし、
「隠さんか!」
慌てて、ゆうのスカートを押さえた。
「え?…でも、どうして、あまりめくれてないだろ」
絵里香は頭を抱えた。
「あのねえ〜」
ゆうは、キョトンとし、
「別に…パンツまで見えてないだろ」
「アホか!そこまでいかなくても、少しでもめくれたら、押さえるものなの!」
「別にいいだろ」
絵里香は、ゆうのネクタイを掴み、自分に近付けると、耳元で囁いた。
「あんたはよくても…加藤さんが困るだろがあ!」
低く怒りを込めて言ったが、ゆうは首を捻った。
絵里香は、仕方なく…
「あんた…明日香さんが、そうなったら、どうする?」
少しの間があって…顔を真っ赤にし、首を横に振ったゆうを、絵里香は突き放した。
「それと同じよ」
なるほどと…納得したゆうを見て、絵里香は興奮した自分を落ち着かせる為に、深呼吸した。
少し落ち着くと、
「まったく…男って、がさつなんだから」
納得して、わざとらしくスカートを押さえて見せるゆうに、絵里香はさらにキレた。
「風も吹いてないのに、やらんでいい!」
あまりの剣幕に、ゆうはしゅんとなった。
「…ったく」
絵里香は、もう呆れるしかなかった。
「久しぶりだな…」
感慨深気に歩くゆうは、渡り廊下から続く道をゆっくりと歩いていた。
百メートルほど歩くと、左手に中館とつながっている渡り廊下が見えた。
確認すると、何気なく…ゆうは、その廊下を渡ることにした。
懐かしさから、鼻歌混じりになるゆうを見て、通路の真ん中で、持っていたノートを落とす生徒がいた。
「美咲…。どうして…」
明らかに、ゆうを見て、動揺しているのだけど、ゆうは気付かなかった。
まだ美咲という名前に、反応できないのだ。実感もない。
気付かずに、生徒の隣をすれ違おうをした時、ゆうの腕を生徒が掴んだ。
「あんた!どうして、学校なんかに、戻ってきたのよ!」
「え?」
いきなり、物凄い力で引っ張られ、戸惑うゆうに、生徒は囁くように言った。
「本当…言ったわねよ…」
生徒は、顔をゆうに近付けた。
「死ねって」
「え」
絶句したゆうの腕を離し、突き飛ばすと、生徒はそのまま早足で消えていく。
あまりにも、唐突で残酷な台詞に、ゆうは生徒を追い掛けようとしたが突然、胸が痛くなり、その場で動けなくなった。
それは、ゆうの意識の底のさらに奥…。とても奥から痛んだ。
「そうか…この痛みか…」
蹲り、動けなくなる程の痛みに、ゆうは頷いた。
そして、そのまま意識を失った。
暗い闇の中で、泣く少女。
それが、誰かわかっているが、ゆうの手は届かない。
淋しさに震えてるのに、考える思考をやめ、痛みだけを抑えている。
(今を……生きるということを否定しているのか…)
ゆうは、近付けない自分に舌打ちした。
(このままじゃ…いけない)
(お兄ちゃん!お兄ちゃん!お兄ちゃん!お兄ちゃん!)
絵里香の声が、聞こえた。
無視して、手を伸ばそうとしたが…全身が激しく揺らされて、バランスを崩したゆうは、現実という世界に戻って行った。
「お兄ちゃん!」
目を開けると、血相をかけた絵里香が、目の前にいた。
ゆうは、廊下の壁にもたれるように、倒れていた。
「大丈夫なの!どうかしたの!」
心配そうな絵里香の表情に、ゆうは笑顔を見せると、
「大丈夫…」
ゆっくりと、壁に手を添えて、立ち上がった。
「やっぱりまだ…退院は、早かったんじゃないの?」
絵里香の言葉に、ゆうは静かに首を横に振った。
「体は、何ともないんだ。ただ…」
「ただ…?」
ゆうは、唇を噛み締め…先程の女生徒を顔を思い出していた。
「ただ、何よ!」
黙り込んだゆうに、絵里香が手を添えようとしたが、ゆうはやんわりと、手を動かして断った。
「ただ……あんな顔ができるものかね」
ゆうに…いや、美咲に言う時の表情。鬼のようだった。
「それに……あの言葉…」
(死ね)
そんな言葉を簡単に、口にできる人間なんて…壊れてる。
ゆうは、自分の胸に手を当てた。
「この子は、苦しんでる。多分、本当に死んだとしても、苦しみはなくならない」
立ち上がったゆうの顔が、廊下の窓に映った。
(こんなに綺麗な子が…。どうして?)
悲しげな表情をしている美咲の顔を、ゆうはきっと引き締めてみた。
凛々しい顔になる。
(そうだ……)
ゆうは、美咲の顔を見つめながら、思った。
(今…俺とこの子は、繋がっている…だったら…)
「絵里香!」
ゆうは、振り返った。
そして、満面の笑みを、絵里香に向けた。
「俺は、この子に生きることの楽しさを、教えてやりたい」
ゆうは笑顔のまま、もう一度美咲の顔を、窓に映した。
綺麗な顔。美人だ。
(まあ…明日香には、ちょっと負けてるかな…?)
そんなことを考えてしまう自分に、首を横に振った。




