始まりの日常
「まったく…びっくりしたわ。いきなり、帰ってくるんだから」
カウンター内で、お湯を沸かし、コーヒーを、カップに注ぐ。
里美は、カップをカウンターに座る女の前に、置いた。
「ありがとう」
女は、一口カップに口をつけた。
少し苦かったのか、顔をしかめた。
「苦さは、ここの伝統ね」
里美は苦笑し、自分のカップにもコーヒーを注ぐと、手に取った。
「娘が、高校に進学したんだから…お祝いをしに、帰ってくるのは、当たり前よ」
女は再び、コーヒーを飲む。
もう苦さに、慣れたみたいだ。
「入学式には、間に合わなかったけどね」
里美の嫌味に、女は口を尖らせた。
「仕方ないでしょ!遠征してた国が、内戦で、飛行機飛ばなかったんだから!」
「相変わらず…危ないところに、行ってるわね。ちょっとは、気を付けた方がいいわよ。明日香」
里美の言葉に、明日香はカップを置くと、中身を見つめた。
「音楽を、求める人がいるなら…あたしは、どこでも行くわ」
明日香の言葉に、里美は溜め息をついた。
「あんたに、もしものことがあったら…悲しむ人は、いっぱいいるんだからね。慈しみと優しさの歌手…速水明日香さん」
「そのネーミング大袈裟よ。あたしは、ただの歌手」
明日香はそう言うと、カップを指で弾いた。
すると、カップが綺麗な音を、小さく奏でた。
「入学式…出てくれたの?」
明日香は、上目遣いで里美を見た。
煙草をつける途中だった里美は動作を止め、首を横に振った。
「その日…昼から、予約があったから…。あたしの代わりに、香里奈がいったわ」
「香里奈ちゃんが!あの子、日本にいるの?」
目を丸くする明日香に、里美は、一度煙草を吹かすと、天井を見上げた。
「あんたと一緒。突然、帰ってきて…唐突にいなくなる」
「まあ…元気ならいいわ…」
明日香は、安堵の息をついた。
「連絡取ってないの!?」
今度は、里美が目を丸くした。
明日香は、深い溜め息をつき、視線を落とした。
「携帯も持ってないし…住所も、不安定。たまに、噂を聞くだけよ」
里美は煙草を吹かした。
「パーフェクト・ボイス…速水香里奈。各レコード会社が、契約したい…ナンバー1 ボーカリスト。まるで、ジプシーのように、世界中を旅し、気が向いた時に、アルバムを録音する」
里美の言葉の後を、明日香が続ける。
「それも、半日。ワンテイクで。それが、素晴らしいんだから…。あたしが、嫉妬するくらい」
「香里奈も、そう言ってたわよ。あんたの歌に」
「え?」
驚く明日香に、里美は深く深く溜め息を漏らし、
「まったく、あんた達…親子は」
呆れたように、肩をすくめた。
「ところで、啓介さんはどうしたの?」
里美は、話を変えた。
明日香は、カップを持つ手を一瞬止めた。
「仕事よ。日本に戻ると、知られたら…依頼が殺到」
「相変わらず…凄いね」
「呼ばれてるうちが、花だから…」
明日香はちらっと、時計を見た。
もう2時だ。
「いかなくちゃ」
明日香はカウンターから、立ち上がった。
「どこにいくの?」
里美がきいた。
「病院…」
少し俯いて、言う明日香に、里美は思い出した。
「牧村先生とこ…」
明日香は頷いた。
「ずっと意識が戻らないんでしょ」
「らしいわね……。まさか…あんな事故に合うなんて…」
明日香は、睫を落とした。
優一は、学校への通勤途中…信号無視をした車に、跳ねられ、意識不明の重体に、なっていた。
「今回、日本に帰ってきたのは…先生のお見舞いにも、行きたかったからなの」
「危ないんでしょ…」
里美の心配気な言葉に、明日香は、悲しげに頷くと…店を後にした。
ダブルケイ。
再び、物語は始まります。
絵里香は、学校内を闊歩していた。
場所は南館。
凛とした表情に、背筋を伸ばして歩く姿に、男子生徒は振り返る。
性格は結構…男ぽいから、担当している一年には、振り返えられることは少ないけど…実情を知らない二年や、三年には、密かに憧れの存在となっていた。
男子の視線の中を、歩く絵里香の目の前を、誰かが立ち塞いだ。
絵里香は、その人物に目もくれず、横を通り過ぎていく。
無視された人物は、肩をすくめ、振り返った。
「冷たいな…前田先生」
絵里香は足を止めない。
去っていく絵里香を、追いかけた。
「待って下さい。絵里香先輩」
絵里香は、本当は廊下の途中、右に曲がらなくてはいけなかったのに、隣を歩く男がうっとおしいのか…そのまま、廊下を真っ直ぐ疾走し、渡り廊下に出た。
絵里香は、そこで足を止めた。
「嫌なところにきたなあ」
男も渡り廊下に、出た。
そして、グランド側の手摺りを見つめた。
絵里香は体を反転させ、腕を組んで、男を睨んだ。
「何か用なの?」
男はまた肩をすくめ、絵里香に微笑みかけた。
「同じ教師を、無視は駄目でしょ。先輩」
「あんたに…先輩と、言われる筋合いはないわ」
雲一つない青空に、絵里香のきっぱりとした口調が、似合う。
「先輩は、変わらないなあ〜」
男は、手摺りに近寄り…ぎゅっと、絵里香にわからないように握り締めた。
顔は笑っているけど、握る手は、手摺りを折ろうとする程、力を込めていた。
「あんたも、変わらないわね。相変わらず、女たらしの最低」
絵里香の言葉に、男は苦笑した。
「別に、俺から、手を出した訳じゃないですから」
「けっ」
顔をしかめた絵里香の舌打ちに、男は笑った。
「最近は、もう年だから昔程じゃないですけどね。先輩は、相変わらず…おモテになられて」
「あたしは、あんたみたいに、生徒に手を出さない」
絵里香は、手摺りにもたれ、グランドを見る男の後ろを通り、校舎に戻ろうとした。
「皮肉じゃないですか…」
男は、絵里香を見ずに話し出す。
「俺と先輩は、この学校で有名な選手だった…。だけど」
絵里香は、南館への入り口前で、足を止めた。
「…2人とも、プロにはなれなかった。2人して、教師になんか…なってる。教師なんかね」
絵里香は鼻で笑うと振り返り、男を睨んだ。
「あたしは、あんたとちがうわ!高橋」
高橋は、クククッと押し殺したように笑い、絵里香に振り向いた。
「先輩は、怪我でしたっけ?御愁傷様でした」
絵里香は、高橋の言葉にも、キレない。
「あたしは、教師になりたかった。怪我はしたけど、それであきらめて…仕方なく、教師になった訳ではないわ」
「これはこれは…失礼しました」
慇懃無礼に、頭を下げた高橋を、無視して歩きだそうとする絵里香の背中に、高橋は声をかけた。
「そうそう。覚えてますか?俺が、高校時代に起こしたことを。俺は、あれで道を誤ることになった」
絵里香ははっとして、振り返った。
「あんた…」
高橋は手摺りから離れ、にやっと笑うと、
「今年、あの女の娘が、入学してきた…」
手摺りを握り、やがて…我慢できないように、手摺りを揺らし、大声で笑い出した。
絵里香は、高橋に近づく。
「あんた…まさか…」
「この学校に、赴任してきたのは、悪夢を断ち切る為」
絵里香は、高橋の襟元を掴んだ。
「先輩…暴力はいけませんよ。学校内で、教師が教師に…ククク…」
「あんた。まだ昔のことを!」
「悪夢を消すには…復讐しかない」
高橋は、絵里香の腕を取ると、力ずくで襟元から離した。
「俺は教師だ!生徒を評価できる」
「あんたの私怨の為に、評価は、あるんじゃないわ」
絵里香は、高橋の手を振り解くと、高橋と対峙した。
「俺とあんたは、担当する教科が違う。止めれるものか」
高橋は、不敵に笑う。
「例え、担任でもね」
その時、学校内に、授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。
「じゃあね。先輩」
手を振って、渡り廊下を去ろうとする高橋に、絵里香は叫んだ。
「どうして、あたしに!そんなこと言うんだ!」
「どうして?…どうしてだろうね」
高橋は振り返り、絵里香の顔をじっと見つめた。
やがて、フッと笑い、
「あんたは似てるんだよ…。あの男に…俺の邪魔をしたあいつに…」
絵里香は、無言になる。
「俺の邪魔を、できるんだったら…やってみて下さいよ。先輩」
高橋は、絵里香にウィンクすると、立ち尽くす彼女の横をすり抜けて、先に、南館に入っていった。
1人立ち尽くす絵里香は、先程まで、高橋がいた手摺りの方に、顔を向けた。
「お兄ちゃん…」
まだ光り輝く太陽は、闇でも夕暮れでもない。
彼は存在できない。
なぜなら、彼は今を生きる人ではないからだ。




