音楽
「音楽にはね…勝ち負けなんてなのよ。ただみんなが喜んでくれるか…自分が嬉しいかだけなの」
そう言って、笑いかける…眩しい笑顔が、愛香は大好きだった。
「お姉ちゃん…」
愛は女を狂わすというが、愛香の姉は、自殺した。
類い稀なる才能を持ち、その歌声はのちに世間を震撼させるはずだった。
しかし、姉はこの学校で死んでしまった。
愛香は、姉が飛び降りた屋上のフェンス越しに、姉が最後に見ただろうと思われる風景を見下ろしていた。
本当なら来るのも嫌な場所のはずだが、愛香には来なければいけない場所のように思えていた。
(音楽が…悪いだよ!)
姉をレイプした男を、ここに呼び出した時、男は怯えながら、そう言い放った。
どういう意味だと、問い詰めたら…泣き出した男は、少しだけ本当のことを話した。
姉と付き合ったのは、軽音部だったからだと。そして、最終的な目的は…軽音部の廃部だと。
(どういう意味だ?)
それ以上は、その男は話すことはなかった。
学校から、厳重注意に終わった男は、春休みを終えた時には、転校していた。
それも、サッカー部の顧問から推薦状を出されて。
(どうして…軽音部を廃部させたかったんだ?)
愛香は知らない。
サッカー部の顧問である高橋の思惑を。
愛香の殴り込みは、結果的に廃部を早めてしまった。
(あたしに…軽音部を復活させることはできない)
当事者である愛香には、その資格がなかった。
姉とのユニットでプロを目指していたはずの丹波でさえ、姉の死のショックで、一気にやる気を無くしていた。
(あ、あたし!この学校で音楽をやりたいんです!だから…あたしと一緒に!)
ゆうの言葉を、思い出していた。
「あの子は…」
愛香は、フェンスに指をかけた。
「やっぱり…ここだったのね」
愛香は突然、後ろから声をかけられて、はっとして振り返った。
「友伽里さん」
愛香の後ろに、腕を組んだ丹波友伽里が立っていた。
「ここ…いつも来てるのね。綾乃の命日には」
友伽里は、空を見上げた。
「あたしは、ここから下は見れないわ。まだ…綾乃の悲しみが残っていそうで…」
悲しく微笑む友伽里から、愛香は目を逸らした。
何も言わない愛香に、視線を向けると、友伽里はまたすぐに視線を外した。
愛香の立っている場所は、正しく姉が飛び降りたところだからだ。
「一年の子が、来なかった?あんたを誘いに…」
友伽里の言葉に、愛香は目を見開き、顔を向けた。
友伽里は横を向いたまま、
「あたしのことに来たのよ。音楽をやりたいというから、あんたを紹介したの」
その言葉に、愛香はキレた。
「余計なことを!」
「余計なこと?」
友伽里は眉を寄せながら、愛香に顔を向けた。
「余計なことよ!あたしは、1人でもできる」
「あんたがやろうとしてること…。1人でできる?」
「できるんじゃない!あたしは、やるんだ!!」
愛香の叫びに、友伽里は冷ややかな視線を浴びせ、
「あんたがやろうとしてること…。それを、綾乃が喜ぶかしら?」
少し馬鹿にしたように言った。
「あたしは!」
「お姉ちゃんより、才能があると?」
友伽里は、愛香の言葉を遮った。
「…」
無言になる愛香。
友伽里は肩をすくめ、嘲るように言った。
「確かに、そうかもしれないけど…今のあんたは、綾乃には遠く及ばない」
「な!」
「あんたは、音楽というものをわかってない!あんなにそばで、綾乃の言葉を聞いてたはずなのに」
友伽里は哀しげな目を、愛香に向けた。
愛香はなぜか…友伽里の言葉に異様に反応した。怒りが込み上げたけど、なぜか反論できなかった。
言葉を待っていた友伽里は、震えるだけの愛香に背を向けた。
「別にだからと言って、否定はしないわ。あんた自身の問題だし」
友伽里は手を上げて、屋上から消えようとする。
「…一体、何の用だったんだ」
友伽里は屋上の入口に消える前に、一言だけ言った。
「あんたに言いに来た子…。あの子が、加藤美咲よ」
「加藤美咲…」
その名前に、凍り付く愛香の様子を見てから、友伽里は屋上から消えた。
「加藤…美咲…。あの子が!?」
愛香は、美咲に会ったことがなかったから、わからなかった。
早瀬綾乃と加藤美咲。
何の接点もないように思う2人。
綾乃の自殺は、美咲が入学する前だ。
確かに、美咲も自殺したから、そういう意味では接点があるのか。
だが、友伽里がわざわざ言いに来たのは、そういう意味ではない。
綾乃と美咲には、ちゃんとした接点があったのだ。
それこそが、音楽だった。
綾乃が自殺する数ヶ月前、愛香は、美咲の名を聞いていた。
綾乃の口から。
「あたしに、初めてのファンができたの」
そのファンこそが、美咲だった。
美咲は、綾乃がネットに立ち上げたサイトの常連でもあった。
そして、美咲がこの学校に入学を決めたのは、綾乃がいる為だった。
ファンとミュージシャンの壁を越えて仲が良かった2人。
その2人が、一年も開けずに共に自殺した。
愛香は、美咲の自殺ももしかしたら、綾乃の件に関係してるのではないかと疑っていた。
美咲が助かったと聞いて、愛香は直接、話がしたいと思っていた。
だけど、頭を打った為、記憶喪失になっていると噂も聞いていたし、彼女が自分のところに来るとは、思いもしなかったからだ。
なぜなら…。
まだ閉じていないサイトに残っている…美咲の最後の書き込み。
(あたしは、音楽が大嫌い)
そんな書き込みをした人物が、自分に音楽をやりたいと言うとは、思えなかった。
(それとも…記憶喪失になったから…やりたくなったとか?)
素人と聞いて、愛香はまともに美咲を相手にしなかった。
だけど、美咲の目の強さをなぜか覚えていた。
(素人でなくなれば、いいんですね!)
「あの子は…」
間違いなく、あたしの前に戻ってくる。
愛香は、確信した。
「丹波さん!」
屋上へ繋がっている階段を降りて、廊下を歩きだそうとした友伽里を呼び止める声が聞こえた。
友伽里が振り返ると、絵里香が走り寄ってきていた。
「前田先生?」
友伽里は訝しげに、絵里香を見た。
絵里香と話すのは、久しぶりだった。
去年は、絵里香の授業を受けていたからだ。
それに、軽音部の部長だった時、お世話になっていた。
あの事件で、軽音部の顧問だった教師が担当を辞退した時、絵里香は代わりに責任者になるからと、最後まで廃部を阻止しょうとしてくれた唯一の先生だった。
しかし、絵里香が顧問をしているテニス部の関係もあり、軽音部の廃部を止めることはできなかった。
「どうしたんですか、先生?」
息を切らして走ってきた絵里香の様子に、友伽里は首を傾げた。
「…はあはあ…」
息を整えてから、絵里香は友伽里に言った。
「まだ…実現するかわからないんだけど…」
絵里香は、友伽里の手を取った。
「軽音部が復活できるかもしれないの!」
「え?」
絵里香の言葉に喜びよりも、友伽里は眉を寄せた。
「もしかしたら、だけど…多分、大丈夫よ!」
絵里香が、友伽里の手を握り喜んでいる時、職員室は騒然となっていた。
1人の女が、職員室を通り、校長室に通されたからだ。
簡素な茶色のソファに腰を下ろした女に、校長は緊張しながら、お茶を出した。
「ま、まさか…あなたが、引き受けて頂けるとは…」
女の前に座った校長は、思わず感嘆のため息をついた。
優雅に美しい…その佇まいに、校長は見とれてしまった。
「一応…教師の免許は持っていますし」
女は出されたお茶に、そっと手を伸ばした。
「しかし!あ、あなたは、お忙しいはずでは…」
「いえ…今しばらくは、予定がありません。それに、産休の先生が戻ってくるまでですし」
女は、お茶を一口啜ると、微笑んだ。
「え!」
友伽里は、絵里香から告げられた事実に驚いた。
信じられない人物の名前を聞いたからだ。
「あの人が、特別講師として、しばらくこの学校にいるのよ」
少し興奮気味の絵里香と違い、友伽里は、ゆっくりと首を横に振った。
「すいません」
友伽里は頭を下げ、
「あたしはもう脱け殻なんです。誰が来たとしても、もう音楽をやる力は残ってません……だけど」
徐に、今さっき降りてきたばかりの階段を見上げた。
「あの子には、関係あるかもしれませんが」
絵里香も、階段を見上げた。
そこに立っていたのは、愛香だった。
「早瀬さん…」
絵里香は、目を見開いた。
愛香も絵里香を見て、動きが止まった。
2人の視線が絡まる。
「では…早速ですが…」
「ええ」
校長に促され、女はソファから立ち上がった。
校長室から、再び職員室に姿を見せた女を見て、高橋は唇を噛み締めた。
向こうは気付いていないようだが、高橋は忘れるはずがなかった。
(まさか…本人が!)
それは、予想外の出来事だった。
職員室にいる先生方に会釈して、廊下にでていく女の背中を苦々しく、高橋は睨んだ。
「音楽が、嫌いって…」
その割に、美咲は音楽を選んでいた。
いつもの教室を移動し、音楽室にいるゆうは、目だけで周囲をチェックしていた。
休み時間、ゆうと話す者はいない。
和恵はなぜか、習字を選んでいた。
音楽の教師であった岡村の突然のお産により、ここしばらく自習が続いていた。
さすがにこれ以上、自習はヤバいだろうと思っていたら…。
どうやら、学校側もそう感じていたらしく…今日、やっと代理の教員がくるらしい。
「はあ〜」
ゆうはため息をついた。
代理の先生が来るまで、教科書を捲っていたけど…。
「さっぱり、わからん」
音符が、何かの暗号に見えた。
次の授業を告げるチャイムが、校内に響いた。
ゆうは頬杖をつき、教科書を閉じた。
(こんなんで…音楽できるのか?)
ゆうは自分自身に問いかけた。
その答えは、ため息しかない。
自分のやろうとしていることに、少し絶望を覚え始めた時、そんな思いなんて、吹き飛ばす出来事が起こった。
(風?)
教室の一番前の扉が少し開いただけで、ゆうは廊下から吹き抜けてくる風を確かに感じた。
それは、体感できる本当の風じゃない。
その人が連れてくるオーラのようなものだった。
ゆうは、その風を知っていた。いや、覚えていた。
数年前、黄昏の時に廊下で待つゆうが感じた風。
息を切らして、自分に駆け寄ってくる少女。
ゆうが想い出に浸ってる間に、音楽室に入ってきた人物は、教壇の前に立った。
「!!!!?」
ゆうが現実に戻った時、一番前に座らなかったことを後悔した。
起立、礼、着席を行った後…その人物は微笑みながら、自己紹介を述べた。
「今日からしばらく、岡村先生が復帰されるまで、この授業を担当することになりました…」
黒板に、名前が書かれる。
「速水明日香です。よろしくお願いします」
照れたように、頭を下げる明日香。
それは、明日香とゆうの運命の再会だった。
「明日香!」
思わず名前を叫んで、立ち上がってしまったゆうに、明日香は微笑んだ。
「はい。明日香です」
返事をした後、
「でも、今日からはあなた達の先生になるのですから…最後に、先生をつけてほしいですね」
その言葉に、教室内に笑いが起こる。
だけど、そんな外野の声など、ゆうには関係なかった。
目の前に、明日香がいる。
その事実に震えた。
高校生の頃の面影はある。
だけど、あの頃のあどけなさはなくなり、その代わり凛とした雰囲気がある。
落ち着き、穏やかな佇まいが、あれから過ぎた時の流れを感じさせた。
(そりゃあ…そうだ。あの頃の音楽を始めたばかりの少女じゃない!今や、世界を代表する音楽家…そして)
ゆうは、思いを噛み締めた。
(結婚して…子供がいる)
成長に大人になった明日香と、未だに高校生である自分。
確かに、もう1人のゆう…優一は、結婚している。
だけど…。
(俺は…優一と違う)
笑いがおさまっても、自分を見つめ、立ち竦んでいるゆうの様子に気付き、明日香は声をかけた。
「あなたのお名前は?」
「名前?」
明日香の質問に、ゆうは我に返った。
「ゆ」
一瞬、ゆうと言いそうになった。だけど、言葉を殺した。
「美咲…加藤美咲です」
「加藤さんね」
ゆうは泣きたくなった。
自分のことがわからないのか。いや、わかるはずもない。
今の自分は女の子だ。
気を抜けば、涙が溢れそうになる。
それを、全身に力を込めて、耐えていると、
「さっさと座れよ!気持ち悪いんだよ」
後ろの席の女が、ゆうに向かっていた。
その言葉を聞いた瞬間、ゆうは振り返り、少し赤くなった目で、睨んだ。
まるで、血走っているかのように見えた目は、クラスの女子を射ぬいた。
(ぶっ殺す!)
明日香がいなくて、女でなければ、殴りかかっていた。
ゆうは我慢し、そのまま席に座った。
女子を睨みながら。
(いかん!いかん!)
しばらくしてから、ゆうは心の中で、頭を抱えた。
明日香を見つめたことより、後ろの女子を睨んだことにだ。
ゆうから見たら、このクラスの生徒なんてガキである。
姿は変わらないけど、もう明日香が高校生の頃から、高校生でいるのだ。
学校から動けなかったとしても、月日は流れている。
だけど、再び実体化したのは、最近である。
ゆうは、まだ知らない。
ゆうが絵里香の中から、実体化した時期が…綾乃の自殺後であることに。
少し反省した後は、ゆうはただただ…明日香の声に聞き惚れていた。
昔と声質は変わっていないけど、とても滑らかで、詩でも朗読しているのかと感じる程だった。
うっとりと明日香の声を聞いているだけだから、授業内容など耳に入ることはない。
(毎日…いや、毎時間…音楽でいいや)
そんなことを考えてる内に、授業は終わった。
「ちょっと!あんたね!」
授業が終わると同時に、先程睨んでしまった女生徒が、ゆうの肩を後ろから掴んだ。
「美咲の癖に…何睨んでんだよ!」
凄む女子に、ゆうは笑いかけた後、
「後にしてくれる」
強引に肩を回して、腕を振りほどくと、ゆうはそのまま走り出した。
「な!」
先程からの美咲の予想外の反抗に、女子は絶句し、簡単に手を離してしまった。
ゆうは、音楽室から出た明日香を追った。
別に話すことはないが、話したかった。
ほんの少しでも。
廊下を歩く明日香の背中に向かって、叫んだ。
「明日香…先生!」
速水先生とは言えなかった。まして、結婚前の香月とも言えない。
ゆうの声に、明日香の足が止まった。後ろ姿…肩が震えていた。
ゆっくりと振り返ると、明日香は笑っていた。
「確かに…先生をつけなさいと、言ったわね」
苦笑する明日香に、ゆうは走り寄った。
「あ、あのお〜」
話す内容なんて、決めていない。次の言葉が出ないゆうに、
明日香は微笑んだ。
「あなたが、加藤さんね。話は、里美と和恵から聞いているわ」
「あ、あ…」
突然しどろもどろになるゆうを優しく見つめ、明日香は微笑んだ。
「今日は、ダブルケイには来ないのかしら?」
「ダブルケイ…」
一瞬、すべての単語を忘れてしまった。再び思いだすのに、数秒かかった。
ゆうは慌てて、答えた。
「いくつもりです!いや、絶対行きます!」
ゆうの妙に力んだ口調に、明日香はまた微笑んだ。
そして…。
「今すぐは無理でしょうけど、この学校に音楽を取り戻す為に、戻って来ました。あなたのように、音楽をやりたいと思う生徒の為に…」
その明日香の言葉に驚き、ゆうは目を大きく見開いた。
「短期間しかいれないかもしれないけど…できる限りのことはしたいと思います」
(明日香…)
ゆうは心の中で、感動していた。
世界的な歌手になっても、一学校の生徒の為に、教師になるか…。
ゆうは猛烈に、感動していた。
だからこそ、少し意地悪なことを口にしてしまった。
「そ、それは…娘さんが、いらっしゃるからですか?」
顔を伏せ、視線を明日香から外したゆうに、明日香は答えた。
「それもあるかもしれないわ。だけどね。それだけじゃないの」
明日香はゆうを見つめながら、どこからか一枚の手紙を取り出した。
「あなたは…記憶喪失なのよね。だから、覚えていないでしょうけど…」
手紙をゆうに差し出した。
「和恵から、お名前を聞いた瞬間に、思い出したわ。あなたのことを…いえ、あなた達のことを」
「え」
ゆうは顔を上げ、明日香の顔を見た。
優しい表情に、ゆうは震えながら、手紙を受け取った。
「あなた達の願い…ちゃんと届いていたから」
ゆうは、手紙の裏にある名前に驚いた。
差出人は、美咲だった。
消印は、数ヶ月前の…3月の末。美咲がこの学園に、入学する前だ。
「あたしの所属するレコード会社に送ってくれたけど…その頃は、外国にいて…郵便とかは届かない状況にいたから」
ゆうは、加藤美咲の文字を見つめ、動けなくなった。
「じゃあ、加藤さん。夕方、ダブルケイで」
次の授業の準備がある為、明日香はゆうに手紙を渡したまま、廊下を後にした。
ゆうはしばらく手紙を見つめた後、自分の教室にまっすぐ戻らずに、人目のつかない場所…渡り廊下に移動した。
そして、おもむろに封筒から手紙を取り出すと、内容を確認した。
そこに書かれてあった内容は…。
「そうか…そうだったんだ」
まずわかったことは、自殺した生徒…早瀬綾乃は、明日香の大ファンであり、直接海外までファンレターを出していたこと。
そんな彼女が自殺したこと。
そして、その為に軽音部がなくなったこと。
美咲は、綾乃の為にも、入学したら、軽音部を復活させたいと。
この学校の卒業生である明日香に、出来れば綾乃の追悼ライブを一度開いてほしいと。
綾乃の為だけでなく、明日香の歌声で、音楽の素晴らしさを、この学校の関係者全員に伝えたいと。
すべての文を読んだ後、ゆうは手紙を丁寧に折り畳むと、封筒に戻した。
その後、ゆうは手摺りにもたれると、考え込んだ。
(たった数ヶ月後に…彼女も自殺した)
ゆうは顔をしかめ、
(それは…どうしてだ?)
考え込んだ。
軽音部の復活も諦めて、生きることも諦めた。
(その原因は、何だ?)
思いを巡らせていると、無常にも、次の授業を告げるチャイムが、校内に鳴り響いた。




