第三楽章 旅立ちの日に
ステラが目覚めたのは、昼過ぎ…
アポロが気を遣って起に来なかったらしい。
まぁ、それはありがたかったのだが…
目覚めた直後に、悲鳴を上げることになったのは、一体誰のせいだろう。
アポロが起こしに来てくれれば、少なくともこういう事態にはならなかったろうに…
目を開けた目の前に、ブリジットの顔があったのだ。美人は寝顔も美しい。
ドキドキするほど近かったが、それはまだ良い。
そのあとだった…
体を起こして、伸びをする。
変な時間に起きたせいか、頭が疼いていた。
そして、ふと横を見ると…
「わぁぁあああああ!!!」
直後、悲鳴を聞きつけて駆けつけたアポロが見た光景。
「ステラっ!!どうした…の…」
ステラはパジャマを着ていたが…ブリジットはあられもない格好になっていた…
うつ伏せであり、下半身はまだ掛布団のなかだったため、ある程度セーフ…
しかし、何故そんな格好に…
「ステラ…早くでなさい…」
アポロが声をかけてくれたおかげで、ショートした思考が戻った。
ステラは慌てて、部屋を飛び出し自室へ走った。
「あれはヤバいって。いくら何でもやりすぎ…アポロじゃなきゃ弁明つかないし…
レティだったら…」
アポロは生まれた時からの付き合いだ。ステラの性格から人間性から把握しているので、誤解は招かない。
しかし…
「私が何だって?」
いきなりレティが部屋に顔を出した。
「いつも言ってるけど、ノックくらいしてよ。べつに。何でもないよ」
冷静になったステラは、対処も適切。
真顔で言われたら、問い詰めようもない。
ステラはベッドに座り、トントンと横を叩いた。
レティはそこに腰を下ろす。
「で、何か用があるんでしょ?」
お互い視線は平行のまま、会話を始める。
「うん…あの、私もブリジットさんに着いて行っちゃダメかな?」
ステラは、ポカンとレティを見つめた。
自分に聞く意味が分からない。
それを決めるのはブリジットだ。
それでも、取り敢えず意見はする。
「俺は親が放置してるから、自分で決められるけど。レティの場合、まず両親に話しを通さなきゃダメだろうよ」
ステラは、もっともな事を言った。
レティもそれは分かっている。
「それは、もう言ったの…好きにしなさいって。世界を見るのは悪い事じゃないから、休学にして行ってくればいいって…」
なんとも放任というか、物分かりが良いというか…
結果は悪くないのに、何故レティが憂いの表情をしているのかが、分からない。
「だったら、ブリジットに直接言いなよ。俺が何か言える立場じゃないし…」
いちいち正論だ。
「そう…だよね…ごめん」
レティは泣きそうな顔をしていた。
いつも明朗快活なレティがこうも歯切れが悪い。こんなレティをステラは見たことがなかった。
いつもの軽口ではいけないのはわかるが、何を言えばいいかもわからない。
「なんか…あったの?」
これを搾り出すまでに、数分かかった。やっと言えたのがこれとは、なんとも情けない。
心配そうに見ているステラを見て、レティは慌てて笑顔を作った。
痛々しいほど、あからさまな笑顔…
「だ、大丈夫、大した事じゃないから! 心配しないで!」
「ぁ…あぁ…」
そこまで力強く言われたら、何も聞けなくなってしまう。
根ほり葉ほり聞くのは良くない…
そこにタイミングよくブリジットが来た。沈黙せずに済んで、ステラは内心ホッとしていた。
「ステラ、すまなかったな。あれはからかうとかではなく、単に私の寝相の問題だ。悪かった…」
入ってきていきなりこれだ。そうとうアポロに言われたのだろう…
後ろに居るアポロが、物凄い存在感を発していた…
「あ…はは…まぁ、いいよ…」
穏便に済ますために、曖昧に返事をしておく。
「いや…本当に…」
ブリジットは、柄にもなく申し訳なさそうにしていた。
しかし、レティが居るところでこれ以上喋られても困る…
「いいから…それより着替えるから出ていってくれないか?」
いつまでもパジャマではいられない。
「ん…あぁ」
ブリジットとアポロは扉を閉めた。
「私もいくね」
レティも腰を上げた。
ステラは、出ていこうとするレティの服を掴んだ。
不思議そうに振り返るレティ。
そんなレティに、ステラは少し微笑んでいった。
「頑張れよ」
少し驚いたような表情をしたが、すぐに綺麗な笑顔に変わった。
「うんっ!」
レティが出ていくと、とたんに切り替えたのかパパっと着替えて、何故か黒いコートを羽織る。
「紅胡蝶…」
―――はい?―――
声はベッドの下からだった。
ステラは、四つん這いになって紅胡蝶を取り出し、ベッドに寄りかかった。
「ちょっとつき合ってもらうよ」
―――私に行動の自由がありますか?―――
おかしそうに、呆れたように声を立てて笑う。
ステラも気恥ずかしげに頭をかいた。
「まぁ、よろしく」
ステラが紅胡蝶の鞘を軽くトントン、とつつく。するとパッと弾けるように光の粒子となり、ステラの胸の中に吸い込まれていった。
魔力収納とは別の、ある種の同化だ。精神を同居させるこの技術は魔力収納と違って心中でのやり取りが可能になる。
「さて、いきますか…」
ステラは、窓から飛び降りた。なんとなく玄関は使いたくなかったのだ。
リビングを通らなければならないし、それは、皆と顔を合わせることを意味する。
多分、うまく笑えないだろう。
アポロに、ついていくと言われても困るしな…
庭に降りたが、別に急ぐでもないので、のんびりと歩いて敷地をでた。
♪
そのころ、レティとブリジットはリビングのソファーに座って話していた。
アポロは気を利かしてか、いない。
「悪いが…お前は連れては行けん… ステラとは事情が違う」
「そう、ですか…」
ブリジットは、レティの頼みをあっさり断った。
レティは、覚悟はしていたがやはり納得はできなかった。
ステラと、何が違うのか…
そんなレティを見て、ブリジットは深くため息をついた。
それから、仕方ない、と肩をすくめ話した。
「納得がいかないようだな…良いだろう。訳を話そう」
「―――――…」
レティは何も答えない。
俯いたまま、動かない…空気が重くなる…
「第一に、お前は戦闘経験がないだろう。音系統の魔法の遣い手は、得てして戦闘に弱いものだ。ステラは、まぁなんだ。卓越した戦闘技術をもっている。私には余人を守って戦う余裕などないんだ」
だから、足手まといだ…と。
レティも頭のどこかでは分かっていた。だが、今一度言われると堪える…
音系統の魔法の遣い手は、訓練なしに音楽に魔力を載せて、魔法を発現出来る故、大抵の者が呪文を必要とする魔法の勉強をしないのだ。
このご時世、魔法の訓練など必要もない。純粋な魔術師の家柄か、興味があるものしか勉強しない。
そして、レティは勉強しなかった。歌姫の才能だけで満足していたのだ。
『歌う』という行為に限らず音系統の魔法は聴覚を介し、精神に作用する魔法が殆どだ。
その家や、名作家が残した楽譜のイメージを相手に叩きつける。
だが、走り回りながら『歌う』ことができるはずもない。
イメージとはつまりは精神の力。その行使には並々ならぬ集中力を要する。
遥か昔には、音系統の遣い手も戦場に出たことはあったらしいが、その力の行使には護衛が何人もついて、前線とは距離をとったところで行われるのが常だった。
レティは、ただ俯くしかできなかった。ブリジットがまだ、理由を説明していたが、耳に入ってこない…
「そもそも、なんで私に着いて来たいんだ。ステラを追いたいのか?」
ブリジットの言葉で我に返った。
ニヤニヤとこちらを見ている…
「ち、違います!! 私はっ…」
真っ赤になりながら、ブンブン手を振るレティは、なんとも可愛かった。
ステラが見たらどんな顔するだろうか…
「わかったわかった、落ち着け。取り敢えず理由をいってみろ」
ブリジットは呆れ笑いを浮かべて、レティを止めた。
レティは、自分の慌て振りにさらに赤くなり、落ち着くまで少し時間がかかった。
「すいません…理由は…」
♯
雑踏がうざったい…
空は蒼く晴れ渡り、時折雲が流れていく陽気な天気のなか、ステラの気分は落ち込み気味だった。
昨夜の光の柱に人が群がるかと思えば、それは既に終わったようだった…
そんなに小さい街ではないのだが、まぁ、ある程度細工はしておいたからだろう。
石畳のメインストリートは、人で溢れ、みんな機嫌が良くて気にくわない…
他人に当たっても仕方ないのだが、そういう時もある。
横路に行けば行ったで、ステラはそれなりの有名人なので、おば様方がうざったい。
話しかけられるより、雑踏を選んだが、どちらにせよ機嫌は悪くなる一方だった。
早く抜けようと早足になるステラ。
何人かにぶつかったような気もしたが、謝るまで気が回らない。
ステラが向かったのは、花屋だった。色とりどりの花が、鉢植えされたり、生けてあったり。
温室育ちの季節外れの花もあった。
甘い香りで満ちていて、少し心が和む。
少し奥にはいると、顔馴染みがいた。
「いらっしゃいませ。…ってステラ君!! 昨日こなかったから心配したのよ!?」
気の良いお店の店員さん。看板娘でもあるお姉さんだ。
「ちょっといろいろと立て込んでいまして… 夜遅くなってしまったもので…」
苦笑いを浮かべてステラは答える。
お姉さんは、しょうがないわね、と呆れ笑った。
「はい、いつものヤツ」
お姉さんはステラに花束を渡した。ステラは受け取り代金を払う。
「ありがとうございます、アルエさん。いつも取り置きしてもらって…」
「気にしない気にしない、いつもご利用ありがとうございますってね。さぁ、はやく行ってあげなきゃ」
カウンターに肘を突き、ニコッと笑うアルエ。
看板娘だけあって美人だ。ブリジットと比べるべくもないが、とてもすっきりさっぱりとしていた、気持ちのいい人だ。
「ええ。あの…次はしばらく来れませんから、取り置きはしなくて大丈夫です」
少し遠慮がちにステラはいった。
「ありゃ。そりゃどうして?」
豪快な人だ。そういうところがステラは好感を抱いていた。気を遣われないから、気を遣わなくて済む。
「旅行に…行こうと思ってるんです、ちょっと長期になるんです」
取り敢えず、嘘は言ってない。アルエも不思議な人で、若いのに嘘を見抜く。
感が優れているのか…
因みにアルエは一般人だ。
「ふーん…そっか。わかったわ、帰ったら連絡してね」
一瞬、探るような視線で射られたが、アルエは気を回してくれた。
本当に、助かる。
「えぇ。ありがとうございます。お土産たくさん買ってきますよ」
「本当? お姉さん期待しちゃうよ?」
「期待にできる限り応えますよ。じゃあ、行ってきます」
客が来たので長話もできない。それに早く行かなくては。
「はいよぉ~。気を付けてね~」
きれいに笑って手を振るアルエ。
花屋は、ストリートの外れにあるので雑踏に戻らなくて済んだ。
ステラの行った場所。そこは…
教会だった。
正確には教会の墓地。フロストハート家の墓の前だ。
昨日が礼拝日だったので、人はいない。ステラはホッとした。
静かな方がいい…
風が木立を吹き抜け、木の葉をざわめかせる。良く晴れていて気持ちよい。
頬を撫でる風を感じながら、ステラは墓石の前に屈んだ。
イリス・フロストハート 享年86歳
エリノア・フロストハート 享年50歳
ディアナ・フロストハート 享年18歳
此処に眠る
白い大理石に刻まれた名前…
悲しい刻印…
ステラは花束を置いた。
「俺…、」
言葉が続かない…単に報告なのに、言葉を紡げない…
また、風が頬を撫でる。
髪がたなびき、乱れる…
髪を直しながら考えるステラの眼は、憂いと悲しみに満ちていた。
今にも泣き出しそうな…
此処にくるといつもだ…まだ、時間が経ってないかも知れないけど、悲しみが感情を支配する…
いつも想っているのに…普段は楽しかった事も思い出せるのに…
此処は悲しい事しか…思い出せない。
涙が…溢れてしまう…
「ハハ…どうしよう…止まんないや…」
拭っても拭っても、涙は止まらない…
遂には拭うの止めて、流れるままにした。
涙のせいか、考える事をやめそのままを伝えようと思った。
「俺…しばらく旅行してくる。この間、ヴァンパイアに知り合って、そいつに着いて行くんだ。何か楽しそうでさ…世界を見てくるよ。成長して帰ってくる。絶対帰ってくる。あいつみたいには…ならないから。帰ったら、お土産話聞いてね…」
返答のない会話…わかっていても虚しくなる…
いつの間にか、涙は枯れていた。いったいどれほど流しただろう…
ステラは少し考えて、また言葉を紡いだ。
「姉さん…これ借りていくね…」
ステラは墓石に手を伸ばした。正確にはその上に掛かっているものに。
それは、純プラチナ製十字架のネックレスだった。
ステラの姉ディアナが生前に使っていたものだ。
そのほかの物は、父親が出ていく際に全て捨てられてしまった。
姉のだけではなく、母や祖母のまで…
唯一守ったのが、このクロス。
劣化しないように魔法をかけ、盗られないよいに結界を張って、墓石にかけたのだ。
それがいま、ステラの手の中にあった。
「しばらくこれないから…これを通して祈るよ」
ステラは立ち上がり、クロスを首に掛けた。胸の辺りで煌めく。
「また、くるね」
それだけ言って、ステラは墓地を後にした。
やることは済んだ。これで、気になることは…帰る事だけだ。
必ず帰ると、墓前で誓った。
だから、心配しないで…
いつも一番に想ってるから…そうすれば、思い出も何も、色褪せないと信じてるから。
いま、とてもピアノが弾きたい。今更すぎかもしればいが、ベートーヴェンの『告別』など似合いではないか。
帰ったら弾こうかな…
♭
「そうか…ステラにな…わかった。気をつけよう」
ブリジットは優雅に言った。
ステラが出ていって一時間あまり、レティの理由とやらは、意外に長かった。
それでも、連れていくわけにはいかず、ある事をブリジットに託すことで引き下がったレティだった。
「二人とも何話してんの?」
ドキッとして、勢いよく振り返る二人…
ソファの後ろには、ステラがいつの間にか立っていた。
これだけ至近距離にいても、気がつかない…気配がないのも、ここまで来ると異常だ。
常人に気づかれないだけならまだしも、あらゆる感覚が優れているヴァンパイアにも、まったく気づかれないとは…
「ステラ、心臓に悪いよ…」
まだ、動悸が収まらないレティが言った。
それに対して、全く意に介さず淡々と話すので、少しむかつくレティである。
「で、何の話ししてたの?」
「ん…レティの同行についてだ。断らせてもらったがな」
ブリジットも全く遠慮がない…まぁ、ステラに嘘をついても、真実の眼が本物な限り、ばれる。
「私、帰るね」
レティは立ち上がり玄関へ向かう。
「お、おいレティ…」
呼び止めたものの、掛ける言葉が見つからない…
ステラの表情は、みるみるうちに重くなっていった。
「ステラ、スマートフォンが有るんだから、たまには連絡しなさいよね」
レティは快活に、晴れやかに言った。
気にされたくないし、ステラには笑っていてほしい…
もっとも、あまり表情の出ない人だが…
「あ、うん…メールか電話…するよ」
レティの作り笑顔をみると、胸が痛くなる…真実を見抜いてしまうだけあって、嫌でもわかる…
苦悩が表情に出たかもしれない。
それでも、レティは笑顔で
「うん、まってる」
と言った。
ステラは、帰るレティの後ろ姿を眺めるしかできなかった。
ステラは、ブリジットの隣に腰を下ろした。
もう、何を考えて良いのかわからないのだろう…
こう…悩ましい表情を横から見ていると、本当にに悩める少女に見えなくもない。
長髪がさらに拍車をかけている。
中性的にも…程があると言いたいが、可愛くてグッときているので、敢えて黙認するブリジットだった。
しかし…いつまでもこうされていても困る…
さて、少し解してやるか…
「別に同行をやめてもいいんだぞ。そもそもの理由が、楽しそうだから、だしな。」
ブリジットは脚を組み、肘をついて手のひらに顎を乗せ、ステラを見た。
リラックスした体勢には、おのずと相手の心もほぐす効果がある。
これで、ステラの思考の優先順位がハッキリすれば、ぐだぐだしなくてすむだろう。
ステラは、驚いたような顔をしてブリジットをみた。
「まさか。着いては行くよ。ていうか、楽しそうだから、だけで長期二人旅にでるかよ…」
「違うのか?」
ブリジットはバカにしたように聞き返した。
「ハァ…別に理由はあるよ、ちゃんと」
溜め息混じりに言うステラ。
「じゃあ、なんだってそんなに暗い表情をしているんだ」
「レティだよ…ちょっと心配なだけだよ」
「あの娘は、なかなか強い心をもっている。男どもよりよっぽどな」
「その分、何でも背負い込むんだよ、レティは。そのうち、潰れてしまうんじゃないかって…」
ブリジットは、呆れて物も言えなかった。それだけ分かっているのに、どうして行動しないのか…
人間は面倒だ…
「…ってこい…」
「へ?」
ステラの間抜けな返事が腹立たしい。
「レティシアのところに…行ってこい!!! 言葉は何のためにあると思ってるんだ。伝えなければ、形にならんだろうが!!」
何故かお冠のブリジット…
「いふぁい、いふぁいっへ!!」
痛いの意。
思い切りほっぺた抓られれば痛いさ…
しかし、ブリジットはこれでも我慢しているのだ。
本来なら殴り飛ばしたい気分だ。
しばらく睨んでいたブリジットだが、ステラが涙目になってきたので、離してやった。
「ほっぺがぁ…」
お前は女か!! と突っ込みたくなるほど、女々しく頬をさするステラ。
「今夜の午前零時に発つ。それまでに行ってこい。私は寝るっ!」
ブリジットは、唖然とするステラをほったらかして、怒りながら寝室に行った…
ステラの見えない所までくると、途端に表情を和らげ、クスっと笑うのだった。
行動させるには、諭すより怒ったほうがやりやすい。
最後まで、策を回しステラの事を考えていたのだ。
「しっかりしてくれよ、相棒」
♪
ステラは、まだソファにいた。
まぁ、行くことには決めたが、今すぐは不自然すぎる。
夜に行こうということにした。
しかし、時間を持て余す…腹もすいた…
「取り敢えず、なんか食べよう…」
厨房に行くと、アポロが作ってくれたのか、サンドイッチが皿に乗っていた。
ありがたくいただき、空腹も紛れたところで、いつもの暇つぶしを思いつく。
ステラは、屋敷の奥へと向かう。
ここには音楽室なるものが存在して、防音ばっちしで、扉を開けなければ全く音が漏れない凄い部屋だ。
ピアノのその部屋にある。
―ステラ、曲をリクエストしてよろしいですか?―
いきなり紅胡蝶が話しかけてきた。
少し驚く。
「良いけど…何?」
―ドビュッシーのアラベスク、を。ああ、それとカヴァティーナ―
「二曲もかよ」
―良いじゃないですか、たまには―
クスクス笑う紅胡蝶につられて、ステラも少し笑顔になった。
音楽室の厚い扉を開くと、音が洩れてきた…ピアノの音…
ゆっくりと扉を開く。
ピアノには先客、アポロが座っていて、滑らかに、優雅に弾いていた。
落ち着いた旋律。楽しさや嬉しさ、思い出が曲によくでている。
怒りや激しさも織り込まれた、調べ。
奏でられる音楽は、感情を表にもっている。
ショパンの…別れの曲、か…
何を意味するのか…解りすぎるほどだ。
中に入り、静かに扉を閉めた。
扉の横の柱を背もたれに、寄りかかり静聴した。
曲が終わるとステラは無言で、軽く拍手をした。
反響作用で響き渡る…
アポロはゆっくりと立ち上がり、静かに言った。
「弾いて」
真っ直ぐな瞳がステラを見つめる。抑揚のない…感情の読み取れない、眼。
深みがあるとか…そんなんじゃない。
遮断…
「何を?」
ステラは、何でもない様に振る舞った。
振る舞うしかなかった…
言葉にしてしまったら、何かが終わる気がしたのだった。
「何でも良いよ」
メッセージは渡したのだから、自ら返せ、と。
ステラは、ピアノ前に立った。アポロは後ろの椅子に座っている。
タ―――――ン…
おもむろに鍵盤を叩き、呟くステラ。
「悪い…紅胡蝶。リクエストはまた今度になる」
心の中で、理解した紅胡蝶が静かに頷いた。
ステラは座り、瞳を閉じた。
何を弾こう…
ブリジットやレティの事で頭の整理が付いていない。
(悩みを増やしてくれるなよ…)
文句が浮かびつつ、口元が笑っていた。
曲は、おそらく最初から決まっていたのだ。
スゥと眼を開け、鍵盤に手を添えた。
ステラの魔力が高まる。静かに揺れる炎のように…
――少女の為の交響曲 第百々番 イ長調作品5 「譚詩曲」 第一楽章 「夢の花」――
第百々番は全く無意味だ。
誰も追いつけない、番号にしたかっただけの浅はかさ…
子供だ…
これは、ステラが子供の時にアポロに贈った曲。当時は形にもなっていなかったモノが、今、完成型として奏でられる。
『夢の花』は、何とも言えない曲だった。
『別れの曲』のように、はっきりとした方向性もない…
悲しみや楽しさもない…
ピアノのソロは広がり、いつの間にかオーケストラとなっていた。
音楽室いっぱいに響く交響曲。
アポロは、懐かしむように眼を閉じ、聞きほれていた。
(やっぱり…ステラらしいな…)
曲の中で見つけたものがある。
それは、感情だった…
羨望という…醜くも美しい感情…
当時…この曲ができたばかりの頃は、解らなかったメッセージ…
もう、二百年以上を現世で生きているアポロは姿形が変わらない。ずっと、十代の少女のままだ。
ステラの出産に立ち会い、成長を見守った。
自分より小さかったのに、いつの間にか同じになり、遂には追い越された…
アポロより小さかった僅かな期間、ステラはアポロに慕いと羨望を向けていた。
一番に慕っていたのは姉だったが、家事をこなし、音楽ができ、信頼を寄せられているアポロは、とても眩しくて…
羨ましかった…
決して愛されない子供だったわけではない。でも、何故だが強く羨望してしまったのだ。
当時の気持ちを曲にして、届ける。
アポロは、複雑な気持ちになってしまった。
魔力で、ダイレクトに伝わってきてしまって、どうしたらいいのか解らなくなる。
慕いと羨望…
子供心の好きと、羨ましい。
相反もせず、混ざり合うこともない感情をステラは一つの曲にしてしまったのだ。
綺麗に折り重なり、音譜を綴り曲を織りなす。
二つの感情は、美しいまとまりを見せていた。
曲は華僑を過ぎ、終盤に入る。
そして、アポロが知らないメロディーが流れ出した…
え…?
スゥっと、閉じていた瞳を開く。
頭の中にステラの想いが、作曲時の想いが流れ込んできた…
暖かく、泣きそうなくらいふんわりした曲調。
それは…ありがとうの気持ち…
曲が終わっても、余韻が心を離さない。
一筋の涙が、アポロの頬を伝って落ちた。
嬉しさなのか…懐かしさなのか…
よく解らない感情が、心を占めていた。
ステラは、アポロに背を向けたまま言った。
「今生の別れじゃ、ないんだから」
小刻みに震える背中…声が少しかすれていた…
音楽が途切れた今、ステラの感情を正確に感じることはできない…
でも、きっと…
アポロはゆっくりとステラに近づき、後ろから優しく抱きすくめた。
「ありがとう…」
そう呟いて、首に手を回した。
ステラがそれに、愛しむように手を添える…
「俺は…アポロの事、最高の家族だと思ってるから…」
「うん…」
「必ず帰ってくるから…」
「うん…」
アポロは、優しく頷いた。とても幸せな笑顔で、頷いた。
「私は着いては行けないけど、ステラを最高のパートナーと想うわ… 今までで、最高の…」
この言葉にステラは勢いよく振り向いてしまった。
アポロが動きを読んで、離れてくれたから良かったものの、顔面衝突するところだった…
「それってどういう…」
意味?とまでは聞けない…
でも、アポロはちゃんと答えてくれた。
「私は契約に乗っ取り、ステラベステート・フロストハートを主と認め、あなたの生涯が幕を閉じるまで、貴女にわが人生を捧げます。でも、ステラの主義は主従ではなくパートナー。だから、私の意志も言っていいでしょ?」
「う、うん…」
唐突すぎる宣言にステラは少なからず困惑する。うれしい、確かに嬉しいのだが、実感を得るには何もかもが足りない。心がついて行っていないのだ。
「この邸の手入れは、誰がするの? 私しか居ないでしょ。それに、帰る場所と待ってる人が居た方が、必死に帰ってくるってものよ。だから、私は残る」
まるで、講義をするかのように言う。
「アポロ…」
困惑のなか、やっと絞り出した言葉だ。
もっと気の利いた言葉は言えればよかったが、それもまた詮無き事だ。
しばらく沈黙が続いた。
突然アポロがステラの腕を掴み、扉の所まで引っ張った。
訳の分からぬまま、転びそうになりながら引っ張られる…
扉を開け、アポロがつぶやいた。
「ちょっと、出てって…」
「お、おい、なにを…―――――」
と言ってる間に、押されて閉め出された…
顔を伏せていたので、表情も解らない…理由不明の理解不能…
「アポロ…よく解んないけど、俺は、いつもアポロの事好きだし、尊敬してる。大切に想ってるから…」
其れだけ言って、その場を離れたステラだった。
いくら防音と言えど、猫の聴力は人の20倍以上。ちゃんと聞こえていたアポロ。
扉にもたれ、ズルズルとへたり込んだ。涙が次から次へと溢れ、止まらない。
ステラに、これを見せたくなかったのだ。この気持ちは、自分だけのものだから。
嗚咽がもれるなか、独り言葉を紡いだ。
「エルク、あなたの子孫はとても素敵に育ったよ。私も歩き出すよ…」
エルク…私が愛した人、私を愛してくれた人。
娘のように愛してくれてありがとう…
「これで、良いんだよね…」
別れの曲は、今までの想いへの別れになった。
捨てるのではない。
今も、これからも愛はかわらない…
でも、それでも前へ…
アポロは泣きはらしたあと、清々しい表情になっていた。
涙は心の浄化作用がある…
窓辺に立ち、傾き始めた太陽の照る空を仰ぐ。
ほんのりオレンジが混ざってきていた。
「さて…何をするも、忙しくなるな」
一人呟くとき、晴れ晴れとした笑顔が広がっていた。
それぞれの想い、思惑、考えが少しずつ動き出し始めた…
まだ、何もわからない
でも、確実に交響曲は進んでいく…
♪
ステラはもう一つ用事を済まそうと大学へと向かった。帰ってくる頃にはいい時間になっているだろう。
バスに乗って20分の音大。
受付に書類を提出した。
「休学届ですね。少々おまちください」
若い男が受付だった。いつもは女なんだけど…
受理している最中、ステラは校舎を見上げていた。
見納めにするつもりはないけど、何が起こるかわからない。
良くも悪くも思い出があるこの校舎を今一度目に焼き付けようと。
昼間の春風をゆっくりと感じることは、今までしたことはなかった。
夜に生き、散歩と称されたものをする。それがステラだった。
夜の表情、空気、眺め、感覚。それらならよくわかる。
しかし、昼間は?
限られた場所で、限られたことしかしない機械のような生活だったとおもう。
いや、少し言い過ぎかもしれないな…
今まで昼に生きてきて、当たり前になって感動がなくなった。
いつも通り…
それが思考に常にあった。
平和で、変化もない日常…何か求めることもなく、熱中できるものと言えば音楽だけだった。
それも、日常の一部…つまらない…刺激が欲しい…
それでいて、悲しみは絶えない…
忘れたい訳じゃなかった。楽しい事もあったのだ。そんなことは思わない。
ただ、背負い想っていても、楽しみたいと…そう思った。
それを夜に求めた…
月が輝く別世界のような感覚を子供の頃から抱いていて…
初めて夜に生きたのは、父親が逃げた夜だった。
(その時はアポロと一緒で…二人で大学に忍び込んだっけ…)
いつも来ているところなのに、誰もおらず、暗く、静かなだけで何だか楽しかった。
そのうち一人になり…殺しをやった。
スリルを求めていたんだ…
この街にふらっと着た、ヒトではない何か、を殺戮した。
今まで剣術としてあったものが、この瞬間に殺戮技術に変わった。
教養は実用と化し、自然と体裁きや魔力の扱いが身についていった。
技能は伸び、弄ぶ余裕や殺し方にこだわるようにもなった。
吹き上がる鮮血を紅き蝶に見立て、舞い踊らせる。
それはある種の狂気だったのかもしれない。家族を失い、壊れかけた心をなんとか保たせる代償行為…
でも、それも日常になりつつあった。
楽しさが薄れていくと反比例して、血を見るときに家族の死が思い出され、悲しみは増す…
慣れていってしまうもの、時が過ぎても慣れないもの。それらがあることを知った。
そして、また気が付いた。
慣れていたものでも、離れていると新鮮に感じられると。
例えば、太陽の下で輝く木の葉や、春風。雨上がりの虹や水たまり。
小さな事でも、気にも留めなかったことでも美しく見えるのだな、と。
ステラは徐々に赤味が射してくる校舎から目を離し、今感じられる世界に体を、心を預けた。
緑を、空気を、光を一身に…
昼も…綺麗だったんだ…
「フロストハートさん。よろしいですか?」
受付の人に呼ばれたので、我に戻りカウンターに歩み寄る。
「手続きは終わりました。復学するときには、こちらの控えをお持ちください」
「わかりました」
紙切れを受け取り、受付を後にする。
少し校舎内も見ておくか…
校舎内の散歩は思いのほか感慨深く見回るのに結構時間を要し、帰ろうと思ったのは日が沈んでからだった。
いつも来ているところでも、感じが変わるものである。
「ただいまぁ」
「「おかえり」」
アポロとブリジットの声が見事にハモっていた。
食事の準備は既に出来ていて、あとはステラが席につくだけだった。
アポロの態度はもういつも通りのもので、ステラはこっそりと息を吐いた。
ステラはテーブルに近づいて、感心したような声を上げた。
「何か…凄いな今日は…」
Italyな料理がズラリと並んでいた。
パスタはジェノベーゼにボンゴレビアンコ、カルボナーラにミートソースと選り取りだ。
ステラがそのまま席に着こうとすると、アポロがわざわざ席から立って、ステラの首根っこを引っ張った。
まさにグガッと首が締まる…
「きゅっ」
という可愛いような、間抜けなような声を上げてしまった。
「手を洗ってからっ。それと着替えなさいよ、埃っぽい」
まさしく母親のセリフである…
「…しい…」
「ん?」
ステラの極限の表情と、アポロのすっとぼけた返答で、ブリジットはかなりツボにはまっていた。
笑いが漏れてしまう。
それが正面にあるのだから腹立たしい。
しかし、ステラの最優先事項は…
「は…なし…て…」
「あ、ごめーん」
アポロが手を離したので、前のめりで空気を肺に一気に送り込む。
これ以上何かされたらたまったものではないので、足早々と自室に向かった。
それにしても、何に着替えよう…
ステラは服選びに相当時間をかけていた。今夜出発だが、何を着ていけばいいのか…
戦闘特化のものでもかなりあるし、食事の時に着るのは考え物とか、また着替えるのが面倒だとか、まとまらない考えに悩まされていたのだった。
結局選んだのはフツーの私服。特に特徴もなく、ブラウスとチノパンのシンプルな感じ、いわば地味…
鏡の前で、まあいいか、ですませた結果である。
ちゃんと手を洗ってリビングに戻った時には、二人が既に食べ始めていて何ともやるせないような悲しいような気持ちになったのは、仕方がない。
まぁ、文句も言わずに席につき食べるのだがね…
しかしステラはあまり食が進まなかった。見かねたアポロは言葉にする。
「食欲ないの? 今日出発なのに大丈夫?」
心配してくれるのはありがたいのだが…
「ん…大丈夫。体調に問題はないよ。ちょっと難題を抱えててさ。今から解決しに行くんだけど、それが予想不可なんで…」
だから、考え込みすぎて食事にまで意識が回らない。
そろそろ時間がなので、残っているが食器を片付ける。
アポロは少し驚いていた。
この世で最も油断ならない男(アポロ認識)が悩み事なんて…
一度手合わせしたとき、手ひどくやられたのは忘れもしない。
罠や心理戦が張り巡らされ、思考を読み、策略が構築されたの中で完封された。
まともに斬り結んだら絶対勝てたのに、アポロを完全に上回った思考能力で敗北した…
そいつが…悩み…
そりゃ、今まで多少は悩みを聞いた事もあった。
でも、食事にまで支障をきたすなど初めてだったのだ。
心配になって、アポロは自室にもどるステラの後を追いかけた。
そして、当然のごとく部屋に入る。
ステラはまるで何者も居ないかのように反応せずに、クローゼットから例の漆黒のコートを出して羽織った。
電気も点けていなかったので、その瞬間にステラの存在が曖昧になる…
闇に溶け、二つの紅い月だけが浮かぶ…
じっとアポロを見つめる…
「なに?」
「それはこっちのセリフ。用があるの?」
ステラは窓枠に座った。月明かりで僅かに存在を定着させられていた。
アポロはネコの姿になり、ステラの横の僅かな隙間を座った。
「用じゃなくて…なんか、心配で…」
「大丈夫だって言ったよね?」
ステラは静かに、優しく言った。
だが、アポロの心配はそこではない。
「違う…心だよ。ステラは何をそんなに悩んでるのかなって…」
「そうか…ん~。何というか、気になることとか、心配事が一気に増えて納得した形で収集がつかなくなってるんだ。一つ一つ片付けたけど、どうしようもなく未解決のもあるし、これから出掛けるところが最後なんだけど、一番難解というかね…」
ステラは無表情に淡々と語った。
何を難しい事をいってるのだろう…
理解出来なくないが。
「私は…何かできない?」
アポロは当たり前の事を聞いたつもりだったが、ステラに驚いたような呆れたような顔をされた。
そしてため息まで吐かれ、顔を背けられてしまった…
「私…何か変なこと言った?」
おずおずと聞くアポロ。
前足をステラの膝に掛ける。肉球がぷにっ…
ステラは横流しにアポロを見て、またため息…
「別に…」
こうまでされるとムカつく…
心配してるのにこの対応はない…
「いっ―――」
ステラが小さく悲鳴を上げた。アポロが爪をたてたのだ。
「なにすんのさ!」
サクッと入った…絶対入った…
「知らない!!」
アポロはツイと横を向いてしまった。
ステラは少しオロオロしたが、すぐに平常心を取り戻して、呆れた微笑みとため息をついた。
「ありがとう…」
「え?」
アポロが振り返ったときには、もうステラはいなかった…
あんなに近くにいたのに、気付かせることなく消えた…
風にカーテンがなびく…
アポロは呆然とステラのいた空間を見つめていた…
隣にいて…爪をたてていたはずなのに…
本当に…闇に溶けるように消えた…
いや、闇に溶けるのはいつものことだが、近距離で気付かせないなんて…
技術が向上したと喜ぶべきか…
最近は、気配を常に消して行動するにまでなっている。
出すのが面倒などど言うようになり、人間性が薄れていくようで、少し怖かった。
少し移動して、窓の外を眺めた。当然のごとくステラの姿はない。
部屋が暗いせいで、街のイルミネーションが一層綺麗に見えた。
空には半分の月が浮かんでいて、どこか寂しさが芽生えた。
自分で着いていかないと決めたのに、ステラの在りようが心配にさせる…
他をあまり頼らず、相手の心情に敏感なだけに醜い所がみえやすく他を拒絶し、深く関わろうとしない。
友達が余りいないのはそのせいだ。
それに、気配消去と殺戮嗜好と、そして…
人としての存在を失いつつある…
なら、何故ブリジットに惹かれたのだろう…
いや、これは考えることではない。むしろ喜ぶべきだ。人としての心は失ってはいないのだから…
(ブリジットさんがいれば、大丈夫かな…)
アポロは猫用の戸口から部屋を後にした。服や下着…とにかく身に着けていた物をほっぽって…
気付くのは自室に着いてからだった。
♯
ステラは夜の雑踏を歩いていた。
街外れにある屋敷から随分と来た。静けさはなくなり、人々は活気に満ちている。
目指すはレティ宅。ステラの屋敷とは反対の街外れにあり距離がある…
普段なら屋根伝いに走って行くのだが、まだ考えがまとまらないので、歩いて時間を稼いでいるのだった。
しかし、あまりモタモタもできない…
時間は限られているのだ。
―バスはまだありますよ。走るよりは時間も稼げますし、考える時間もあります―
流石は紅胡蝶。
ステラは心中で礼を言い、ちょうどあったバス停に立ち止まった。
時刻表を見ると、5分ほど来ない。
親切にも椅子があったので座って一息ついた。
何に悩んでいるか。それはどうやってレティを諭すかだった。
気持ちをただ口にするだけでは、意味がないのだ。
それは自身がスッキリするだけであってそれで終わりだ。
強いが故に抱え込んでしまうレティ。
いつか潰れてしまうんじゃないか。この杞憂を現実にしないために考える…
どうしたら良い…どうすれば上手く行く…
実は既に一つの方法が浮かんではいた。ただ、少し卑怯のような気がして別の方法を模索しているのだ。
プシュ―――――っ
バスが来てしまった。
乗り込み、最後部の座席に座る。流石に客は少なかった。
緩やかに走るバス。ユラユラくる振動は思考をしていなければ、確実に眠りを誘う。
簡単に思いつくような考えは、上手くいくはずがない…
さっきから、案が浮かんでは消え、の繰り返しだった。
浮かんだ先から、上手くいかないと思えてしまい、何が上手くいくのかも分からなくなってきている。
無駄に時間が経過する…
刻一刻と目的地へ近づいているにも関わらず、名案は浮かばない…
客は一人、また一人と降りていく。
何かに置いて行かれてる気分だ。
浮かばない…いや、考えるんだ…
ステラ以外の最後の客が降りていった…
ステラの目的地まで、残すところあとふた駅。
結局何も浮かばない。卑怯と思いつつも、予めあった案を行動に移すしかないのか…
他人の事なのに、よくここまで悩めるものだ…
関心するよ…
ついに、目的のバス停に着いてしまった。
降りたら、殆ど目の前にレティ宅はある。
軽くため息一つ。
ステラは意を決して、チャイムを鳴らした…
反応が帰ってこない…
もう一度…
ピンポーン…
やはり返ってこない…
ヴェルシェット邸に灯りは付いていない…こともなかった。
ちょうど、レティの部屋だけ明かりが灯っていた。
何故、チャイムに反応しないのだろう…
「何か…あったのかな…」
どうしてこう出発当日に…
ステラは軽く頭を掻いた。
仕方がない。覗いてみよう。
門を越え、三階にあるレティの部屋に飛ぶ。と言うか浮く。
誰かに見られたら、完全に怪しい人であるが、そのときは何も考えていなかった。
窓から覗くが…誰もいない…
電気を付けっぱなしで出掛けたのだろうか…
しっかり者のレティに限ってそれはない。
鍵がかかっていなかったので、不法侵入した。
絨毯にフワリと降り立つ。
いつ見ても…女の子女の子した部屋だよなぁ…
ベッドには数体のぬいぐるみ。カーテンやらシーツは淡い色が多い。
いまどき此処までするヤツは珍しいに違いない。
レティ以外の女の子の部屋には入ったことがないので、何ともいえないが…
一通り部屋を見渡して、ステラは大きくため息をついた。
ツカツカとクローゼットに向かう。
「気配が消せてないぞ…」
「あ…」
小さな、思わず出してしまったような声がした。
遠慮なくステラはクローゼットを開けた。
「こんばんは」
「ステラ…」
レティは衣類にまみれて、隅っこに小さくなっていた。
力ない笑みを浮かべ、目を逸らす。
「何してんの…」
ステラは完全に呆れていた。
レティはゴソゴソと這いだしてきた。
「俺と顔を合わせたくなかった?」
ステラがいきなり確信を付いたので、レティは立って一歩踏み出した体勢で固まった。
「何で?」
わかるようで分からないので聞いてみた。
レティはまた動き出し、ベッドに座って横をポンポンと叩いた。
ステラは素直に合図に従った。
「何で…隠れてたんだ?」
もう一度聞いた。
レティは一呼吸置いて口を開いた。
「言われることが、目に見えてたから…今は、優しさとか同情とか、欲しくないんだ…」
ブリジットに拒否された事。
優しさも同情も、何の救いにもならない。施す行為は褒められたものだろうが、施された方にとっては偽善も甚だしい。
ステラがそうだとは言わないが、やはり同情なら欲しくはなかった。
しかし、ステラの話はこれではない。
「幸いなことに、俺は慰めに来たわけじゃないよ。純粋に話をしに来たんだ」
ステラは静かに言った。
卑怯かも知れないが、策略は既に起動していた。
レティは驚いたふうに大きく目を見開いた。
そして直ぐに俯いてしまった。
「ごめんなさい…あたしてっきり…」
「いや…良いんだけどね。同じ立場なら俺もそう思ってる」
しばらく沈黙が続いた…
ステラはまたゆっくりと口を開いた。
「レティはさ…俺のこと、信頼してくれてるかな…」
「え?」
いきなり唐突に…
レティは言葉を紡げない。しかしステラは話を続ける。
「俺はレティを信頼してるんだけど、どうもレティは違う感じがするんだよね…」
レティも冷静さを取り戻して、答える。
「そんなこと…ないよ…。ステラ以上に信頼してる人は…いないよ」
それはレティの本心だった。親も含めて、ステラ以上に信頼してる人はいない。
「そうかな…レティは最近無理やりの笑顔が多くて、何か悩んでるのわかるのに、話してくれない。全部自分で抱えて、受け止めて…」
ここで言葉を切った。哀愁感を漂わせ、心を揺さぶる。事実、それはずっと感じていたことだし、哀しかったのだ。
案の定、レティは慌てふためいて言った。
「そ、そんな…それは、あまり迷惑かけたくなかったから… ステラを信頼してないとかじゃなくて、自分の事だから、自分で解決…」
「――――ぱいなんだ…」
ステラはレティの言葉を遮った。
蚊の鳴くような呟き…
「…え?」
聞き取れるはずもない。レティは聞き返した。
「心配なんだ……レティは強いから、そうやって今は大丈夫でも… いつか、心が…重さに負けて折れて潰れちゃうんじゃないかって…」
前かがみになっているステラの表情は、長髪で隠れて見えなかった。
声はかすれ、小刻みに震えていた。
レティはどうしたらいいのか解らないのと、ステラの予期せぬ言葉に完全に混乱していた。
「怖いんだ―――… レティが…居なくなったりしたら…帰ったとき、俺の知ってるレティが、居なかったりしたら…」
絨毯に…一粒の雫が落ちた…
大粒のそれは、すぐに染み込み跡を作る。ココロの痕を生々しく残され、レティは胸を締め付けられた気分だった。
ステラの優しさは、ときに相手を更に悩ませる。
自分でも思ったことのないことを言われたりするからだ。
レティもその例にもれなかった。
殆ど自分で解決する。
褒められこそすれ、こんなふうに心配されたり、泣かれたりしたことはなかった。
戸惑いを隠せない…
何と声をかけて良いのか解らなかった。
「ステラ…」
縮こまったその背中に触れようとしたとき、突然ステラは顔を上げた。
「ごめん、取り乱して。やっぱり帰るよ」
突如動き出す状況にまったくついていけない。
抑揚のない声で言葉を紡ぐステラに、僅かな怒りが湧いた。
立ち上がり、歩き出したステラの腕をガシッと掴む。
「レティ?」
「ステラだって…ステラだって打ち明けてくれたと思ったら、心を閉ざして、自己完結して…っ あたしに何も話してくれないっ」
半ば叫ぶように言うレティ。
ステラは無表情で答える。
「だってこれ以上言ったら、それは俺のエゴでしかないから」
「そうやって、自分の意志を押し込めて…他人の事ばかり考えて… たまには我が儘でも言ってよ!! 頼み事してよ。あたしばっかり…ステラを頼って。だから、あまり頼らないようにしようって思ってたのに…」
自分ばかり頼り、他に頼られない…
それはどんなに寂しいことだろう…
自分は必要なのだろうか、存在に意味はあるのだろうか。
そんな風にすら考えてしまう…
これにはステラも驚いた。いまのは確かに狙ってやったが、そんなふうに、我が儘を言ってくれなんて言われるとは考えていなかった。
結局、お互いにお互いを思いやった結果の行動が、少しだけお互いをずれさせていたのだ。
泣き出したレティをステラは優しく包み込んだ。
「ごめん…そうだね。これからはちゃんと話すよ、俺のこと。だからレティも話してな」
「でも…ステラは街を離れちゃう…」
「別に打ち明ける相手は俺じゃなくてもいいんだ。レティの心が軽くなるならね。それにレティが言ったようにスマホあるんだ」
「うん…」
「じゃあね。帰ってくるときには連絡いれるよ」
家の中と外での会話。
「帰るときだけじゃなくて、普段もたまには連絡しなさいよ」
夜の空に二人の笑い声が響いた。
「いってらっしゃい、あなたの旅路が幸運の恵まれるように祈ってあげるわ」
「あぁ、頼むよ。じゃあ、またね」
ステラは闇夜に溶け消えた…
レティはしばらく虚空を眺め、そして窓を閉めた。
二人の再会は、決して望んだものにはならない
望んだ形で逢うのは…
本当に全てが終わった後だった
ステラは屋根の上を走り、帰路についていた。
目的は成就したし、心配事は一応片付いたが、兎に角憂鬱だった。
さっきから悶々として、溜息ばかり…
やっぱ…泣き落としはねぇ…卑怯だよな…
邸に着いたのは23:32
まだ、時間はあるな…
取り敢えず玄関から入って、リビングに行く。
そこには、アポロが待っていた。
「なんか…スッキリしない顔だね…解決しなかったの?」
「いや…解決はしたんだけどね…」
ステラはソファにドサッと座った。
また一つ溜息…
アポロは紅茶を淹れ、ステラに差し出した。そして自分もステラの隣に座る。
ステラはゆっくりと口を付けた。
程よい甘さ、温かさ…美味しい…
何だかホッとする。
ステラの表情が和らいだところで、アポロは言う。
「何か気に入らなかったの?」
本当に…母親みたいな安心感がアポロにはあった。
やはり成長を見守ってきていると、母性は生まれるらしい…
ステラはレティ宅での事を事細かに話した。
「で?」
ステラが話し終わった後のアポロの開口一番…
一文字はないでしょぅ…
「で? ってねぇ…それだけなんだけど」
「だーかーらっ! 何に落ち込んでんのって聞いてるの!」
アポロがまっすぐ見つめてくる…
いや、全く色気があるものではなく、射るような眼光と言った方がジックリくる。
ステラは困惑する。取り敢えず答えるのだが…
「何というか…泣き落としは卑怯かなって…。感情に訴えてさ。卑怯じゃないかな…」
何かと思えば…
アポロはアホらしくて溜息をついた。
「別に卑怯じゃないよ…一つの方法でしょう。それにレティだって泣いたんでしょう。それに気づいてないかもしれないけど、彼女はあなたに転がされるほど単純じゃないよ。過剰な演技があったかもしれないけど、嘘はついてないってわかったんだよきっと」
呆れながらもちゃんと答えてくれるのはアポロらしい。
「そうかなぁ…アポロがそう言うなら、それでいいかな…」
なんだか少し心が軽くなった気がした。
「全く…あまり心配かけないでよね。出発当日だっていうのに…」
「あ…うん。ごめん…」
自分がさっき思っていたこと…
自ら実行してしまうとは…ステラは俯いてしまった…
アポロはまた溜息をつく。
「別に良いんだけど…心配はいつもしてるからね。ほら、そろそろ時間だよ。ブリジットさんは少し前に出たよ。荷物は用意しておいたから」
アポロはステラに小さなリュックを渡した。
戦闘用の黒服が入っているだけ…
まぁ、資金はカードでいいし、現金はいく先々で降ろせばいいのだ
「私服は?」
「その場その場が買えば良いと思って」
「なるほど」
金持ちの考え方だ。
「じゃあ…行くね…」
「うん…連絡たまには入れなさいよ」
「わかってるよ」
にこやかに笑い…ステラは玄関を出た。
すぐさま敷地を抜け夜の闇に消えたのだが、アポロはステラが消えてもなお、その方向を暫く眺めていた。
「頑張って…必ず帰ってきてね…」
風にさらわれるような呟き…
けれども強い願いだった…
そうして何となしにステラの部屋に足が向き、流れでステラの部屋に入ってしまった。
「何しに来たんだろう…本当に…」
実際何の目的もなかったし、入ったからといって何をしようとも思わない。
フラフラとサイドテーブルに歩み寄ると、一枚の紙が置いてあった。
丁寧に畳まれていて、わざと目に付くように淡色の便箋を使っていた。
なんの躊躇もなく手にとり、中を読んだ。いや、読むと言うほどのものではない。見るだった。
Wir sind Familie(僕らは家族だ).
ただこれだけ…
ステラとアポロの関係。
それは、親子関係でもなく友達でも、恋人でも、姉弟でもない。
ならば何か…
家族…これが一番しっくりして、真実だった。
何のために綴り、目に付くように置いていったかはわからない…
ただ、アポロの中には大きな安堵と幸福感が生まれた。
家族は裏切らない…
エルクの口癖だったと思う。なにぶんかなり昔の事なので、口癖までは覚えていない。
でも、口癖だったのなら…ステラは無意識にでもエルクの意志を継いでいることになる。
アポロは文字を見つめ、そして、こぼすような微笑みを浮かべた。
「信じてるよ…ステラ…」
窓の外には、青白い半分の月が輝いていた。
ステラは闇夜を駆けていた。
楽しくてしかたがない。さっきまでの憂鬱感は心の隅においやられ、弾むような喜びが全面にでていた。
狂喜していたのかもしれない。
街をでることが…?
帰るつもりなのに何故こんなに心踊るのか…
不気味なまでに歪んだ笑みが顔に張り付いていた。
そして、どこかで客観的に自らを観察してもいた。
流れ込んでくる感情…自分の物ではないように冷静に吟味できる。
何にこんなに喜んでいるのかわからない。
それでも、不気味な笑い声が漏れ出す。
―ステラ…―
紅胡蝶が突然話しかけてきた。
「フフ…何? ククク…」
自分から声をかけておいて、紅胡蝶は何も言わなかった。
それも別段気にならない。
楽しくてしかたがない…
本当に、高笑いしてしまいそうなほど。
待ち合わせ場所に到着したとき、ブリジットの表情は異様なものだった。
こちら顔を見て愕然とし、あまつ厳しい表情で睨んできたのだ。
「何故…笑っているんだ?」
油断ない声…それに対して真面目に答えた…つもりだ…
「フフフ…分かんないよ。クスッ…何か楽しくてね。自分でも理解できないんだ」
そう言ってクスクス笑う光景は、猟奇的であろう。
警戒心が高まる。
これが…
「ステラ…感情を殺し、思考を全て停止しろ。十秒でいい…」
感情を殺す…容易いことだったので、言われた通りにした。
一言で例えるならば、人形になる、だった。感情の渦を消化するかのように腹の下に徐々におろしていき消していく。
思考の停止は白く塗りつぶしていくイメージだ。それは眠りに近いかもしれない。生きるための機能以外はすべて止めてしまう。
瞳は光を失い虚ろになり、表情はみるみるうちに消えていく。
瞬間に一つの人形ができ、十秒後にひとりの人間になった。
するとどう言う訳か、今まで蠢いていた異常なまでの狂喜や快楽は、潮が引くかの如く消えていった。
何だったんだろう…
突然、感情がいつも自分の把握している範囲に戻され、困惑しつつまた前面に憂鬱が戻ってくるのがわかった。
それでも、アポロのおかげで大分和らいだと思う。
「何だ…薄気味悪く笑っていたと思ったら今度はしおれて…」
また表情にでていたらしい。
「いや…それより何で感情を殺せなんて言ったの?」
「特に深い意味はない。なかなか見事だった」
ごまかしだ…何を隠しているのかは解らないが、何かを隠している。
真実の眼は騙せない。だが、ステラは敢えて突っ込まなかった。
聞いた所で教えてくれるとは思えなかったからだ。教えてくれるくらいなら、わざわざ隠しはしない。
プライバシーや踏み込んでほしくない絶対領域は誰にでもあるのだ。
実際、聞かれても言う気はなかった。
言えるわけがない…
昼間のレティとの会話が思い出される。
『質の悪い事に、本人は意識がないんです。出てきそうな時は感情が剥き出しになるので、今は何とかなってますけど…』
こう言う事か…まさかこんなに早く目の当たりにするとはな…
運が良いのか悪いのか…
「そろそろ行こうか。時間だ」
時計をみると確かに零時を指していた。
ブリジットに習って、街の境界を跨いだ。今一度振り返り、その眼に街の姿を焼き付ける。
帰る意志。誓いと決意を確認し、生まれ故郷を後にした…
日常に飽きて、逃げ出したかったわりには離れがたいというか…
妙に寂しい気持ちになるものだ。
それでも、自分の選んだ道を進む。振り返ることもあるかもしれない。
でも、立ち止まることなく前に進もう。
やりたくてやる。
後悔はしないように…
さぁ、この日に旅立とう…
オーケストラはやっと動きをみせる
本当の始まりは
ここだったのかもしれない