第一楽章 追悼の演奏会
陽が落ち、誰も居なくなった校舎。
後片付けも大分前に済んでいたが、ステラはまだ残っていた。
打ち上げやらなんなやらが有るはずだが、ステラはそんな気分ではないので、全て断っていた。
基本的に人付き合いが悪いが、こういった『大勢で』となるとなおさら気が進まなくなり、結果としてここに残ってしまうのだ。
月明かりが注ぐ、第一演習室。
ステラは母の形見のハープを出し…
たった独りの演奏会を始めた…―――――――
悲痛の叫びを音楽に乗せて奏でる。自責の念に押しつぶされそうだ…
それでも奏でる。姉が好きだった曲を。母が祖母が、微笑みながら聴いていたそれを…
演奏は広がり、防音されているはずの演習室を飛び出し、棟全体に響きわたっていた。
不思議な調べ…それを微かに聴いていた人がいた。
「ステラ…?」
その人は音源に向かっていた歩き出す。どうやら同じ階で、この音は、ハープ…
近づくにつれて、その曲が何であるのかがわかってくる。
フランツ・リスト 『孤独の中の神の祝福』
ピアノ曲をハープ用に編曲するなど、彼は何という才能を持っているのだろうか。
ピアノとはまた違った調べは、ハープの弦が激しく掻かれるように、心の表面をひっかいていく。
心に自分のモノではない感情が流れ込む。締め付けられるような痛み…悲しみ…
『孤独の中の神の祝福』はある種の人間賛歌だ。
何もかもを無くした旅人が、その最果てでやっと見つけた光…
この生こそが、人生そのものが神による祝福なのだと。
だが、聞こえてくる調べには、そんな喜びは微塵もない。
自分が、何故ステラのもとへ行くのかはわからなかった。
いや、解っているが、表現が出来ないだけかもしれない。
その歩みはついに、音源の講堂の前に着いてしまった…
開けるべきなのか…
躊躇いが取っ手にかけたその人の手を止めてしまう。
扉を開けることができない…
立ち尽くしていると、突然曲が止まった。
「入ってくればいいのに」
その人は、おずおずと扉を開けた。
「何だ、レティか。こんな遅くまで何してるのさ」
その人、レティシアは、それはこっちのセリフだ、と心中で突っ込んだが、あいまいな笑みを浮かべるに留めた。
時刻はまもなく21時を回る。
校舎に残っているのは、研究目的の泊まり込みや、クラブでのお遊びくらいなものだ。個人的に残っている学生など、相当に変わり者だ。
「涙…でてる」
変わり者に対して、レティは容赦なく、あるいは慈しみから指摘した。
レティに言われて、慌てて眼をこするステラ。恐らく表情も沈んでいるのだろうが、レティの前で作り笑いしても意味がない。
レティは備え付けられているピアノの椅子に腰かけ、少し離れたところ座っているステラを横目で見る。
「曲の割には、随時と悲しそうに弾くんだね」
「ちょっと…感傷に浸っていただけだ。何でもないよ」
恥ずかしいのか、踏み込まれたのに怒っているのか、素っ気なく言った。
実際に感傷に浸っていたわけだが、演奏中も感情を殺していた事にレティが気が付かない訳がない。
「お姉さんが好きな曲だったよね…」
ステラは、ハッと顔を上げた。
知っていることに驚いたわけではない。何もかもを分かっていて、尚もいうレティシアに驚いたのだ。
いや、当然か。長いつき合いだ。
ステラの家族の女性陣は、皆逝去していた。
母は転落死。姉は交通事故死。祖母もまた病死だったが、大往生だった。
しかしその死は皆、ステラの知らないところで起きた。決まって、何らかの行事の最中に連絡が来るのだった。
そして今日は、いつか必ず重なってしまう行事の日。楽しいはずの行事は、苦痛の時間にすり替わる…
今日は姉の命日だった。
ステラは無表情だった。
感情を殺して、誰にも気付かせないように。
でも、レティには気付かれた。いや、気づいてもらえた。
「ステラがこの街に残っているのは…亡くなった家族のためなの? お父様は引っ越したのに」
レティがチクリとつつく。
嫌みか、陰湿なイジメのようだ。だが、そうじゃないことくらい、ステラにも理解できる。
「俺はこの街が好きなんだよ… 家族との思い出がいっぱいのこの街が…」
ステラは言葉と表情が矛盾していた。
好きなら、何故そんなに哀愁を漂わせ、憂いに満ちた表情をしているのだろうか。
理由はその父親にあった。
他の女と一緒になり、全てを忘れる為に引っ越したからだ。
もちろんステラは猛反発した。
だが、父親は理解を得ようとするでもなく、ステラを置いて、黙って消えた。逃げるように…
裏切り者…
それがステラが父親に対する評価であり、感情だった。
レティもそんな様子に気づいてはいた。
ステラは好きだからこの街に居るのではない、反発心もあるのだ、と。
皆が忘れていくものならば、自分だけは忘れないで、想い続けよう。
面影がちらつく街で、縛られ生きようと。
ステラは以前、零したことがある。
つまらない日常から逃げたい、と。
だが、思い出と反発心の鎖が求める事を邪魔していた。
ステラの才能なら、どんな遠くまででも飛んでいけるとレティは思っている。
こんな、思い出に囚われて、いや自らを縛ってゆっくり、緩慢に殺されていくのは…
耐えられているのが不思議なくらいだ。
ならば、鎖を断ち切るきっかけを与えようと、レティは思った。
思ったらすぐ実行だ。
「ブリジットさん、今夜行っちゃうよ?」
ステラはゆっくりと目を見開いた。
思った通りの反応だ。
「何で…ブリジットのこと…」
「ブリジットさんの仕事相手は、あたしだから。ステラがホールで話してるの見たの。仕事が済んだら、すぐに発つって」
ステラから表情が落ちて、消える。
動揺すると、不思議に表情が消えるのだ。
そして、眉間にわずかだがしわが寄った。
時刻は22時前。レティにも時間があまりない。
ステラの返答を待たず、最後のきっかけを与えに、ステラに迫る。
「ステラ、よく聞いて。思い出は心にあるんだよ。街じゃない。それにね、ずっと悲しそうな、苦しそうなステラを見て、お姉さんたちが喜ぶと思う?」
「…―――――――」
吐息のような音にしか聞こえない声が漏れた。
レティは身体をステラから離した。あとは、決めるのはステラ自身でしかない。
「じゃあ…あたし行くね」
力なく笑い、扉へと向かった。
「レティ…」
ステラからいきなり声がかかった。少し意外そうに振り向く。
「ありがとう」
ステラは未だに窓の外を見ていたが、気恥ずかしいのだ、とよく解る。
耳がほんのり赤い。
レティは優しく笑い、うん、とだけ応えて出ていった。
レティがいなくなってしばらく、いや、ほんの数分は、いろいろな感情がステラの中を駆け巡っていた。しかし、おもむろにスマートフォンをとりだし、彼女をアドレス帳から引っ張り出して電話をかける。
追悼の演奏会は終わりを告げた。
まだ何がしたいのかはわからない。
でも、ブリジットに逢えばわかる気がする。
4回目のコールで相手は出た。
『はい?』
「あぁ、アポロ。今から帰るから、紅胡蝶を起こしておいてほしい」
電話の向こうで息を呑むのがわかった。
『行くの…?』
「どこにさ。ブリジットが今夜発つみたいだから、見送りにいく。場合によっては、手荒くなるかもしれないから」
『わかったわ。それじゃ』
「うん」
プツリと終話した。
アポロはやっぱり家族だ。本当に何もかもを分かっている。レティと自分の会話も知らないのに、核心にたどり着けるのだから。
…行くとして、アポロの処遇はどうしよう…
帰りの道中、そんな事を考えてるステラ。
どう転んでも、今までとは違う明日がくるはずだ。
暗い道のりのなか、ステラは不敵に微笑んでいた。
今日はいつになく、黄金色の月が輝いていた。
サァ…と風が吹き抜ける。
それを全身で感じ取り、全てを委ねたい気持ちになる。
空を仰ぐと、月は天宮に入っていた。
紅眼が細い月を映し出す。
この時…既に心は決まっていたのかも…しれない…