第一楽章 星明かりの綺想曲
「ごめんね、ステラ。わざわざ迎えに来てもらっちゃって…」
ロンドン空港の一角…そこにステラとアポロがいた。
何故こんな所にいるのかというと…
昨夜の電話が発端だった。
『明日、ステラの所に行くから。事情が変わって、一緒に行くことにしたの。今、何処にいるの?』
ステラの眼はこの瞬間に点になった。それは見事なまでのアホ面だった。
その時は、ロンドンに着いた当日と言うことで今にも街の散策に出掛けようとしていたところだった。
陽も落ちきって、さて行くか、と腰を上げた直後の電話…
それについては、全く気にしていない。
むしろ気にしたのは、ブリジットが腹を抱え涙を流しながら笑いを堪えていたこと。
そうとう腹が立ったのか、電話を終えた後しばらくステラはブリジットと口を利かなかった。
とにかくそんな訳で、ステラの意思に関係なく一方的に話が進み、アポロを迎えに来ることになった。
アポロ自身は自分でホテルまで来ると言っていたが、それも何だか悪いような気がしてステラ自らの意志で迎えに来たのだ。かいがいしいことで何よりだ。
因みにブリジットはホテルで寝ている。まだ陽は高い。
活動するには適していないのだ。
と不意にアポロが言った。
「ステラ、何か怒ってる?」
不安げに顔を覗き込んでくる。
「いや? そんな変な顔してる?」
コクと頷き、用意ぎ良いこと鏡などを取りだしステラに差し出すアポロ。
ステラは鏡に自らの顔を映した。
「…―――――」
うん…確にヒドい。怒っていると取られても仕方ない程の見事なまでのしかめっ面がそこにはあった。
昼夜逆転生活を送っているのだ。眠気のせいで目つきが物凄く悪い…
「…あー、これは単に眠いだけ。ブリジットに合わせてると昼夜逆転するからさ。アポロも覚悟しといた方が良いよ」
ステラは頭を掻きながら言った。何か無精ものみたいな発言だ…
アポロはステラの言葉にキョトンとした。
「何言ってるの。魔は夜の方が活動しやすいのは当然でしょ。それは仕え魔である私も例外じゃない。ステラが学校に行ってる間、仕事終わったら私寝てるもの」
(あぁ、それで帰宅したときたまにベッドで丸くなってたのか… もとが猫だからさして気にしてなかったが…ていうか、アポロって夜も寝てたような…)
まぁ、既に対応できるのなら言うことはない。
「そうか。じゃあ行こう。眠い…」
ステラらアポロの手をとって歩き出した。
アポロは、もう少し言うことあるでしょう、と内心思っていた。
しかしまぁ、手を握られた瞬間に不平不満は全て彼方へ吹き飛んだのだった。
♯
二人は空港からバスでロンドン市内まで行き、バス停からは徒歩でホテルまで。
その間、大した話もしなかった。眠かったせいもあるだろうが、慣れないのだ。
しばらく離れていたので、何を話しどう接すれば良いか、お互い分からないと言うのが大部分を占めている。
昨晩の電話から、今朝三人部屋に移させてもらっていた。
三階の一室に二人はノックなしに、かつ静かに入る。
ブリジットはベッドで大人しく寝ていてくれた。
まぁ、それは別にどうだっていい。今は一刻も早く睡眠を取りたい…
ステラはコートだけハンガーに掛けてベッドに入り、枕に顔を埋めてぼそりと一方的に言う。
「日没前には起きるから。おやすみ…」
アポロがわだかまりなく服を脱いでいる所だと言うのに、ステラは早速寝息を立て始めた。
アポロは一蔑して、カーテンを引いた。
暗くなった室内に銀髪少女の姿はなく、代わりに額に月を持った白猫が床にいた。
猫はステラのベッドに飛び乗り、ステラの腹のあたりで丸くなった。
「アポロ…自分のベッドで寝なよ…」
「あ、起きてたの」
「今ので寝そこなったの。それより早く自分のベッドに行きなって」
体を動かすことなく、ボソボソとステラが呟いた。
しかしアポロは動かず。
「良いじゃん、久しぶりなんだからさ… 優しくしてくれたって…」
すねた。アポロがすねた…
ぼーっとする頭ではそれしか認識出来なかったが、充分だ。
「…今日だけだからね…」
ぼーっとしながら承諾し、結局そのまま寝入るのだった。
「うん、わかってるよ。ありがと、ステラ…」
アポロはステラに密着しすると、無意識なのか彼女を包み込むように柔らかく抱き込んだ。
平和な一時
満ち足りた幸せ
それは…
せめてこの時だけでも
彼等に平穏を
♪
陽が落ちきったこの時、三人はホテルのレストランで、食後の紅茶を飲んでいた。
ブリジットはまたしてもコーヒー… ラテなら良いのだろうか…
「それで、この後どうするの?」
ステラは紅茶をすすりながら聞いた。良い温度で美味しい。
ブリジットもまた、コーヒーを飲みながら答える。
こっちはやはり不味いようだ…
「ん…ウェールズ行きは暫く延期だ。お前も感じているだろうが、この街は様々な力で飽和状態になっている。見過ごすわけにはいかんだろう? だが、ごちゃごちゃしすぎて何が何だか解らんのも事実。今はなにも出来んので情報待ちだ」
ブリジットは、面目ない、と力なく笑った。
現代数少ない、神秘に満ちた国イギリス。ブリテンは今やかつてないほどの異常で満たされていた。
一般人には何ら影響はないが、常識から外れた者達にとっては鋭敏に感じとれる。ステラもまた感じてはいたが、さまざまな何かが混ざり合い、かつ融和しないこのカオスをどうとも評価できていなかった。
それぞれの基点などわかろうはずもない。
すると自然とアポロに視線が動く。
「え? 私?」
アポロは突然ふられ焦る。話を聞いてなかった。
「アポロは何か分かる?」
今一度アポロに聞く。
「そう。ロンドン近くで五、六ヶ所って感じかな」
やはりアポロには把握出来ていた。ブリジットも僅ながら驚いていた。
アポロの最も得意とするスキル『解析』。昔から何かを分離したりかぎ分けたり聞き分けたりすることが得意だったように思う。
アポロは特に誇ることもなく紅茶のカップを両手で持って、中身を飲み干した。
大分冷めていて、不味かった…
「ふむ…しらみ潰しも考えたが、効率はわるいな。ギルバートからの追加情報もなし。打つ手なし、か」
溜め息をつくブリジット。
ギルバート…ブリジットは未だ気付いてないのか、ただ放置しているだけなのか。
ステラにはその判断がつかなかった。どっちにしろ放置するのだが、なんだか実験体にされてるみたいでいい気はしない。実際、実験体らしいから尚更性質が悪い。
ステラも溜め息を着いた。
「じゃあ、今日は自由行動?」
ステラは期待を込めて言った。部屋に缶詰なんてごめんだ。
幸いやることは見つけてある。
「ん? あぁ、明け方までに帰れば構わん。私も賭場に行くしな。旅費が多くて困る、と言うことはなかろう」
不敵に笑うブリジット…黒い…背後に不気味なオーラがっ。
アポロと顔を見合わせ苦笑いだった。
標的にされた店に同情する…ブリジットをハメるなんてまず無理だからな…
「ステラ… ブリジットさんって、こんな黒いオーラ出すんだ…」
「うん…」
「賭場で何かあった…?」
「ボロ勝ちして味を占めた…」
二人はブリジットのオーラに笑うも、ひきつっていた。
♯
三人はホテルの前で別れ、アポロは純粋に観光、ブリジットは賭場エリアへ、ステラは比較的賑やかな方へと流れていった。
今夜は劇場を貸し切りにして、オーケストラがコンサートを開くのだとか。
メインイベントが終わると、クラシック系なら登録だけで誰でも演奏する場が与えられる。
ステラの暇潰しはこれに参加する事だった。当然登録済み。
実際は暇潰しと言うより、純粋な楽しみだった。何せ舞台での演奏は久しぶりなのだから。
自然と笑みがこぼれ、人の流れに身を任せる。一大イベントなので人が集まるのだ。
道など分からなくても、人波に着いて行けば目的地にたどり着く。
昨日の観光も観光客に着いていっただけだ。これがなかなか面白い。
そんな楽しげな雑踏を歩いていると、この雰囲気から逸脱した異常を捕えてしまった。
異常といっても、気付くか気付かないか、の僅かなものだ。だが、幸か不幸か…鋭敏に察知してしまった。
当然ステラ以外は全く気が付いていない。
「…―――?」
それは路地裏の方からだった。僅かな悲鳴が上がったような…
悲鳴は女のモノだった。一瞬の事だったが間違いない。
しかし路地裏…
今日はオーケストラのために皆出ていて、路地裏など人はいないはずだ…
オーケストラ目当てじゃないにしろ、普段はない出店や露店まである。
ちょっとしたお祭り騒ぎだ。
そんな中で路地裏…
偏見かもしれないが、英国紳士が青姦はしないだろう…と言うかしてほしくない。幻想が崩壊する…
色々と想像が浮かび、頭を抱えつつも気になって、路地裏に入って行ってしまうステラだった。
本当はそれだけじゃなかった。
直感と言うべきか、警鐘が頭のどこかで鳴り響いていたのだ。
危ない、と。
(利益にならない面倒事は嫌いな筈なのに、何でまた人助け見たいな真似をしてるんだ、俺は…)
自分自身に文句を言いながら、音もなく声の方に近付いて行った。
何度も曲がりだいぶ奥まったところに来て、はたと足を止めた。
ターゲットが一つ角向こうで止まったのだ。少し様子みをすることにした。
状況は、男五人に対して女一人。どうも、お楽しみ、と言うわけではなさそうだ…
除き込めば気付かれる。ステラは立ち聞きに留めた。様子をみて方針を決めれば良い。
「私に手を出して… 兄さんが黙ってると思ってるの!?」
他力本願ながら強気な発言だ。だが、声は恐怖に震えていた。
男達はただ嘲笑うだけだ。
「そう言うな、仕事なんだ。ボスが是非連れてこい、とな…」
ボスとやらは随分と傲慢だな。来てくれ、ではなく、連れてこい。
相手の意思は関係ないと…
男が詰め寄ったのか、女はヒッと小さく悲鳴を上げる。
それでも尚気丈に振る舞う。
「ジュリアン何かに用はないわ。そう伝えなさい。いい加減にしないと仲間を喚ぶわよ」
なぜか途端に声に力がみなぎった。
しかしそれも束の間だ。
「それは叶わない」
チャラっと金属音が響く。
「うそ…」
女は愕然とした。自分に身に付けてあるはずのモノが、男の手にあったのだ。
その瞬間で、女から覇気が消えてしまった。気丈さのカケラもない。
ただ恐怖のみが心を蝕んでいく…
「それでいい」
男は満足げに言ったが、仲間の一人がとんでもない事を言い出した。
「なぁ、別に綺麗なまま連れてこいって言われてないよな?」
「ふむ。確にな… 此処まで逃げ回ってくれたお礼はして貰おうか…」
男達は静かに歓声を上げた。
雲のおかげで、光も届かないこの路地裏。誰からも何も見えはしない…
ビリッ、とステラ予想していた最低の事態になった音が聞こえてしまった。
「い…っやぁ…」
悲鳴を上げかけた女の口は塞がれ、直後、ジッと言うファスナーが下ろされる音が鳴る。
この瞬間、ステラの方針は決まった。
ステラは無表情のまま殺意が高まっていく。
嫌悪を一気に通り越す。面白半分で、自分の陳腐な欲望のためだけに、他者から奪う者がどうして世の中から消えてなくならないのか。奪うモノが取り返せないモノ、取り返しのつかないモノもあるというのに、それを分からず、ただ獣のように蹂躙する人の形をした肉の塊ども…
死んだ方がいい…いや、むしろ殺してやろう。奪い合いや、相手に守る機会を与えるなら文句は無いし大賛成だが、一方的に抵抗の機会を潰して奪うなら、容赦はしない…
――ステラ…何やら物騒な思考になっているようですが、私を出さないでください。下種の血など浴びたくありません――
紅胡蝶はキッパリと言った。
「わかってるよ。殺しゃしないし」
ステラはぼやきながら男達の前にその身を晒した。
死ぬより酷いことをするために…
「何だお前…」
緊迫する空気。男達は、まさか此処に誰か来るとは思ってなかてたので、焦りが生まれた。
始末しなければ不味いかもしれない。
しかしステラは緊張感のない柔かな笑顔を向けていた。
「輪姦は感心しないなぁ。死んだ方がいいって言うか。むしろ死んでよ」
あからさまな挑発。
女の方はまだ胸をはだけさせられただけのようだった。
まだ、凌辱は受けてないことが、せめてもの救いだ。
「ほう、舐めた口を利くからには… 覚悟が出来てるんだろうなぁ!?」
男達は殴りかかってきた。また集団で…
どうしてこう頭が悪いんだろうか。勝てない勝負に首突っ込む馬鹿が。
それに…
「それはいらないでしょ。むしろそっちがするべきだよね」
ステラは狭い路地裏を軽く駆け巡る。
瞬間男達は所々にぱっくり傷が開き、血が舞う。
「うぁ…ぅ…」
叫ばないだけまだ男だな。
走り抜けたステラの手にはナイフが握られていた。完全に殺傷用コンバットナイフ。
「うん。ナイフファイティングって初めてだけど、悪くないね」
刀より切味は悪いものの、小回りの利くところや、斬撃の速さが割と気持ちいい。
「卑怯…だぞ…」
男の一人が呟いた。そんな悶絶するほど深く切ってないのに。
ステラは振り替えってニヤリと笑った。
「卑怯? ばっかじゃないの。自分のこと棚上げ? 女の子一人を集団で襲うのは卑怯じゃないのかなぁ」
その眼に慈悲はない。冷酷な喜びが光っていた。
ヤバい…殺られる…
そう思ったときには既に遅かった。
「バイバイ…」
タンと地を蹴る音と、ズバンという斬撃音の二音だけで、男達のソレを全員落とした。
全員白眼を剥き、ピクピク痙攣していた。いずれも下半身の一部、正確には股間の辺りが鮮血に濡れていた。
側には人数分の肉片が…
――ステラ!! なんて事しているのですか!――
言ってる事は批判だが、声が滅茶苦茶楽しそうだ。というか笑っている。
「良いじゃん。これでレイプをしたくても出来ないでしょ? まぁ、自慰行為も無理だけどさ。あはははは!」
ステラは気分がスッキリして、路地裏を出ようとすると、
「ま、待ちなさいよ!!」
と女からお呼びがかかった。突然声を取り戻したらしい。
ステラはあからさまに面倒臭そうな顔をした。この件に関わった事は、面倒ではなかったのだろうか。自らの矛盾に気付くはずもなく、振り返って眼だけで、何の用、と語りかける。
それを読み取ったのか、女は己が惨状を隠さずアピールした。
「か、帰れないじゃないの!! こんなんじゃ!!」
ステラにとってはぶっちゃけ知ったことではない。それはそっちの都合であってコッチには関係ない。
しかし…
女は自分が服を破かれているのを考慮した上で、オープンなのだろうか…
胸の片方は全開、ブラなし。感情的になっているせいか、体を揺らす度に乳房も上下運動をする。
ステラは真っ赤になりながら視線を反らした。ブリジットである程度免疫を付けたとは言え、生乳に対するモノは持ち併せてない…
「あ、の…えと…」
「なによ!」
ステラの挙動不審に女は苛立った声を上げる。
バサっ
「あ…っっ!?」
投げられたステラの上着により、自分の状況を認識した。
見る見る内に紅潮していく女は、逆恨みの如くステラを睨んだ。
もちろん、コートをしっかり着込んで…
ステラは無視して女の隣ヘ腰を下ろした。
平行になれば、見なくて済む。その身体はあまりにも艶めかしくて…直視などしてられない。
にしても自らのお人好しさには呆れ返る。放っておけば良いものを…
しかしながらステラには放置など出来ない。
それは彼女が懇願し、涙をにじませていたから。不安感で押し潰されそうで、誰でも良いから側にいて欲しいと言うのが解ったから…
可哀想と思ってしまったから…
所々に血溜りがあり、気絶人が数人…こんななかでは落ち着いて話も出来ない。
ステラは無言で女の手を取り、別の静な路地へと移動した。女のも文句も言わずに着いてくる。
いつの間にか雲は切れ、蒼白い月が覗いた。
白き光に照らされた路地は、うっすらと浮かび上がっていた。車の音も雑踏も遠く、心地よい静寂が辺りを包み込む。
二人は再び壁にもたれ、座り込んだ。
暫くの間、何とも言えない沈黙が流れる…嫌と言う訳でなく、ただ自然体で静寂を受け入れていた。
不意にこの沈黙は破かれた。
「あの…」
女が遠慮がちに口を開いたのだった。
「なに?」
ステラはこの時初めて女の顔をまともに見た。いや、女というよりお嬢様だった。
破かれた服もよく見れば、かなり良い絹を使った煌びやかなモノだったし、何より顔立ちがなかなかの美人だった。歳は、ステラと同じか少し上くらいだろう。正に良家のお嬢様風だ。
「助けてくれて…ありがと…」
彼女はおずおずと礼をいった。
「あぁ、気にしなくて良いよ。別に助けた訳じゃないから。結果として助けになっただけだよ」
「…え、そう、なの…」
何故か彼女は落胆ぎみだった。
大分落ち着いてきたようだ。もう側にいなくても良いだろう。そう判断したステラは立ち上がった。
「じゃ、そういうことで。此処でさよなら。あんたもボロボロなんだから帰りな。コートは返さなくて良いから」
ステラが彼女に背を向けて歩き出そうとすると、クンッと左足がひっ張られた。
どうやらまだ用があるらしい…一体なんだと言うのか。
ステラが肩越しに振り返ると、ズボンの裾を抓んでいただけだった。普通に歩いていれば、気付かずにいられる程度の力しかかけられていない。
ステラは軽く溜め息を吐いたあと、彼女と自分に観念して、再度彼女の隣に腰を下ろした。
「コンサートが始まるまでだからね」
念を押しておく。流石に今夜を潰す気はない。しかし、少女の方は意外な返答をしてきた。
「コンサートって…貴方も行くの?」
「も?」
「私もいくの。良かったら一緒に観てくれない?」
これにステラは唖然としてしまった。ボロボロなのにコンサートに行く気なのか。馬鹿にも程があると言うものだ。
そんなステラの表情を読み取ったのか、彼女は先手を取った。
「わかってるわ。馬鹿なこと言ってるって…でも、どうしても観る必要があるの」
瞳の奥には、強い意志と決意を宿し、まっすぐにステラを見つめていた。
何か訳あり…か…
恐らく、ステラが断ったところで彼女は劇場に行ってしまうだろう。コートは別に良いのだが…この人はかなりあぶなっかしい… 狙われてる身でまだ出歩こうとするし…
結果的に一度助けたのだし、今夜くらいは面倒みようという気になってしまった。劇場に行く、と言う目的は達成されるのだから、そう問題はないのだ。
しかし…
「良いけど、指定席だよね?」
そうなのだ。コンサートは指定席。その他は立ち見になる。
だが、少女はニッコリ笑って答えた。
「大丈夫よ、チケット二枚持ってるから。一緒に行く筈だった人にドタキャンされたのよ」
彼女の顔に安堵が広がっていた。もしや、今までのは演技で単に独り観が寂しかっただけじゃ…
そんなことは言うわけにもいかないが。
「そう。にしても初対面を誘うなんて、よくできるね」
「そうね、何でかしら…人見知り激しい筈なのに…私」
少女は考え込み初めてしまった。沈黙されるのは何かと大変なので、無理矢理話をそらす。
「別に良いけど、君あぶなっかしすぎ。帰りも送ってくから」
言ってしまってから後悔した。わざわざ送らなくても、人呼べるんじゃん…
「ありがとう。貴方良い人ね」
時既に遅し…
こう、輝かんばかりの満面の笑みを向けられると今更前言撤回もできない。
それに、良家のお嬢様っぽいわりには、そこまで美しいと言うわけでもなく、ある程度整った顔立ちだなぁ、と思える程度だったのだが…
笑うとランクが2段階程跳ね上がった。
笑顔がここまで似合う人はそう居まい。そう思えるほど、彼女は綺麗だった。
「あ、そうそう。自己紹介がまだだったわね。クレアよ」
彼女は右手を差し出してきた。
ステラは諦めたようにあからさまに溜め息を吐いてからその手を取った。
「ステラベステート。ステラで良いよ」
「素敵な名前ね。星空の煌めく花嫁か…」
「…―――!?」
今まで気だるそうにしていたステラが、顔を真っ赤にしてクレアの方を向いた。
クレアは相変わらずニコニコしている。
名前の意味が色々と恥ずかしいのと、今まで意味を言い当てられたことがなかったので、完全に思考が停止した。
「赤くなって、なんか可愛い…」
その言葉でステラは我に帰り、顔を反らした。心臓が早鐘を打つち、どうしようもなく頬の紅潮が増す。
「あ、怒った…?」
「…んで」
「え?」
「何で、名前の意味を知ってるの…」
蚊の鳴くような声で呟くステラ…
かっ、可愛い…反則よこれ…
クレアは拳を握り、心の中で歓喜していた。
中性的な整った顔立ちに、見た感じ華奢な体躯。そんなコが真っ赤になって小刻に震えていたら誰だってグッとくる。
背中から思い切り抱き締めたい衝動にかけられながら、クレアは悪戯っぽく言った。
「企業秘密よ」
ステラは疑心までは行かなくとも、僅かに警戒心を持った。
ステラの名は、今や失なわれた古代語のものだ。いや、古代どころではない…遥か太古の言葉だ。その音だけをアルファベットで再現したもので、意味由来に関しては誰もわからないのが普通だ。
それを知ってる人間なんて、先ずいない。彼女は一体…
「何?」
いつの間にかクレアを凝視していた。
「あ、ううん。何でもない。そろそろ行こうよ。指定席と言っても始まっちゃう」
ステラは立ち上がった。誤魔化しも含むが本当のことでもある。途中入場はお断りだ、急いだ方がいい。
クレアはステラのコートをしっかり着込んで、二人は劇場へと向かった。
夜はまだまだ始まったばかり
漆黒の空に浮かぶ月は
銀の冷たい輝きで
優しく彼等を照らしだす…
雑踏の賑やかさは増し
人々は浮かれている
楽しく
騒がしく
嬉しそうに
♪
アポロの場合…
ロンドンのシンボルの一つ、ビックベンに鍾楼に登り、時計の針に腰掛けていた。
街を一望できるこの場所は、非常人にしか開放されていない(そもそも誰にも開放されていない)夜景スポットなのだ。
しかし、アポロは単に夜景を楽しんでいるだけではなかった。
観光がてら、『力』の強く感じられる所を一通りまわってきたのだ。そして、此処は最後の仕上げ。
夜風が彼女の輝く銀髪を揺らす。頬をなで、熱気を奪っていく。
春の星空の下、時計塔に降り立った妖精。それは星の使いか、はたまた惑わしの妖魔か…
今の彼女はまさにそんな感じだった。可愛らしいその面立ちは、人を誘い突き落とす妖魔さながらだ。
しかし、その顔に微笑みはない。ただひたすらに無表情。
起点は六ヶ所…うち四ヶ所はただの溜り場、ビックベンとロンドン塔が楔の役割をしてる…か。
完璧に封印式ね…綺麗に六角形してるし。
解析。アポロはその能力が異常なまでに高い。
楔の二ヶ所ならいざ知らず、僅かにしか漏れださない力の溜り場、それを神秘が充満している此処で見つけ出す。ブリジットにすら、そんな芸当はできない。
僅かな、儚い異常も見落とさない観察力と洞察力。鋭敏な感覚。それらを即座に処理する思考。
ステラが『真実』を見るなら、アポロは『現実』を見抜くと言ったところだろう。
彼女はさらに分析を加える。
封印式なら対象があるのが普通…といっても街だから特定できないし…
「そうだっ!」
パチンと指をならし、アポロは塔の頂上に跳び目を瞑った。
アポロの魔力がビックベンを下っていく。通すべき所、通せる道、そこを正確に見極め魔力を流し込んでいく。
流れる魔力はクモの巣のように、だが、法則をもって張り巡らされた封印式を通っていく。
封印式に魔力が回りきったとき、アポロの脳裏には封印式の全貌が見えていた。
術式とのリンク。
へたなところに魔力を流せば、その魔法を暴発させ運が悪ければ精神崩壊を起こしかねない高度な接続魔法。
白兵戦においては、アポロは足手まといでしかないが、魔法の遣い手としては最高峰だ。
その彼女が把握したものは…
「へぇ…対象は劇場か」
正確には劇場の下にある何か。
アポロはリンクを切り、ゆっくりと目を開けた。視線の先には例の劇場。
「なにも無きゃいいけど…」
ぽつりとした呟きは、誰に聞かれるでもなく風に呑まれた…筈だった。
誰が予期できようか。まさか返事が有るなどと。
「無いよ。今夜はね」
アポロはゆっくりと振り返った。かなり親しい仲であるはずのその人に会ったこの瞬間も、アポロは無表情を崩さない。
「それは、あなた達が起こさないだけでしょ? それじゃ絶対にはならない。起こさせないように動くなら、話は別だけど」
淡々と言葉を紡ぐアポロ。
「今回はアポロが正しいかな? そう、この街では、私達は動かない。無意味だもの」
声の主は癖がかったブロンドの髪をなびかせる。暗がりに居るので正確な顔は判断できないが、アポロの知人であることは明白だった。
「そう。なら私達もこの街に用はない。明日にでも発つでしょうね」
アポロは視線をロンドンの街に戻した。
「ステラ達はまだ気付いてない?」
「今のところはね。気付かれても、私は私の目的を果たすだけ」
「そうね。くれぐれもブリジット嬢には気を付けて。彼女、勘がいいからきっかけさえあれば直ぐに気付く。そうならったら、こっちの計画は泡沫と消えるから」
声の主は悪戯っぽく笑い声を上げた。冗談でも言うように。だが、その言葉は本気だとアポロは理解している。
「前向きに善処させてもらうよ」
「ありがとう」
声の主の気配は、煙のように消え去った。
静寂の時計塔にただひとりで佇むという、ある意味正しい状態となった。
と、次の瞬間
「――――…ぁぁ」
「え?」
遠く微かに聞え来る悲鳴…
出処は、いましがた気にしていた劇場の方からだった。
♭
ブリジットの場合…
「お、客様…」
「何だ?」
驚愕しどもるボーイに対し、ブリジットは不敵な笑みを返した。
「これ以上は、無事ですまなくなります…」
ボーイはブリジットにだけ聞こえる声で忠告した。店のためというより、純粋に心配してのことだ。正直、ゲームをコントロールしているはずなのに、どうしても彼女を負かす事が出来ない驚愕はある。
だが、それこそが彼に畏敬の念を抱かせ忠告させるに至ったのだ。
ステラと別れてから、はや一時間半。賭場の中は異様な空気になっていた。
ゲームをしているところは一ヶ所のみ。その周りには人だかり。ゲームの進行役は真っ青、といった感じだ。
ゲーム台は例の如くルーレット。運がほとんどを占めるゲームにブリジットはこれまで不敗で来ていた。
元手の資産から、既に8倍に膨れ上がっているチップ。
次のゲームで勝てば、チップは最低16倍に膨れ上がる。これは見物だ、と客は集まっているのだった。
店側にしてみれば戦々恐々だ。このままでは破産する。しかし、今まで何度もイカサマをしたものの、その時に限って絶対にチップを賭けないのだった。
そんなこんなで、いつの間にか明らかに堅気ではない雰囲気の連中が出入り口を固め、取り囲むように配置される始末だ・
だが、そんなものはブリジットにはなんの効果もないのだった。
「忠告は有り難いが続けさせてもらう。これで最後にするがな。些か飽きた」
ブリジットは進行役の方に向き直った。
「さぁ、始めようか。今まで黙っていたが、イカサマは通用せん」
この言葉で、進行役はさらに青くなった。ぜんぶバレてた…と。
進行役は泣きそうになりながらルーレットを回転させた。
そして、玉を勢い良く投げ入れる。
暫く、ブリジットは何もせずにルーレットを見つめる。周りの客もそれに習った。
その時間は一瞬にも、永遠にも感じられた。
全てはスローに…
そして…
金髪美女はニヤリと笑った…
「0に全部だ」
店中がざわめいた。
先程までは、赤か黒かの二択しかやらなかったのに、ここにきて、よりによって一つしかない0に全部賭けた。
最低確率故に倍率は10倍だ。当たってしまったら本当に店は破産するだろう。
数秒後…
カタン…
0の隣の黒のケースに落ちる。客は頭を抱え振る。進行役や従業員は安堵を浮かべる…
コンっ…
「私の勝ちだ」
全員がその言葉を疑った。今まさに黒に落ちたはず。皆、ルーレットを覗き込んだ。
玉は…
「み、緑…」
「0…」
取り巻きの者が呟いた。その瞬間…
爆発するかの如く、歓声が上がった。ブリジットの勝利を祝って。
しかし、ブリジットは一喝した。
「静かにせんか!」
正に鶴の一声。異様な静寂が訪れた。
「オーナーはいるか」
「は、はいっ!」
ブリジットに呼ばれ、小柄な男が泣きそうな顔で来た。
ブリジットはニヤリと笑った。
「今日は楽しませてもらった。この回の賭けはなかったことにしてやろう。店が破産しては皆の憩いの場がなくなるからな」
「へ?」
店長は何が何だか呑み込めてない。
「聞こえなかったのか? 支払いは此処に乗ってるだけのチップで良いと言ってるのだ。何か不満が?」
ブリジットは少しドスを利かせる。
店長はやっと呑み込めた。そして、泣いて礼を言った。
「め、滅相もない! ありがとうございます!!」
「ならば早く金を用意しろ。私の気が変わらないうちにな。バッグも頼むぞ」
と言うわけで、ブリジットは大金を手にし、かつ感謝されながら賭場を後にしたのだった。
煙たく暑苦しい賭場から出ると、冷たく澄んだ空気が迎えてくれた。
暫しその感覚を楽しむ。
「やはりこれが後腐れなくて良い」
全ては計算の内だった、と言うわけだ。
「さて、さっきの悲鳴は何処かな?」
ブリジットは呟き、ある方に歩き出した。そのさきには、劇場がある…
♪
ステラ達が劇場に着いた時には、かなり人がいっぱいだった。
クレアが受付で事情を話し、ステラ本来の指定席ではなくクレアが予め取っていた席に座ることになった。
受付の男は何か言いたげにニヤけていたが、取り敢えずスルー。
指定席は中段の中央と、最高の席だった。これだけでもクレアに出会った甲斐はあった。
「良い席でしょう?」
腰を下ろしながら、クレアは微笑みかけてきた。
「素直に驚いたよ。自分の行動に感謝してる」
「そこ、私に感謝するとこでしょ…」
クレアは苦笑いを浮かべながらも、気分を害さなかった。ステラの子供の様な嬉しそうな表情で。
「流石は良家のお嬢様というか…いやうん。ありがとう」
何だが要領を得ない喋りだが、礼を言えたのでよしとしよう。
しかし、話はここで終らなかった。
「え? 私、お嬢様じゃないよ? むしろ正反対だし」
きょとんとするクレアに、ステラは更にきょとんだった。
そもそも、勝手な勘違いなのだが…正反対と言う言葉が引っ掛かったのだ。
『お金持ち⇔貧しい』の意味ではないのは明白だ。しかし…こんなにもわだかまり無く話せるモノだろうか…
「え~と…それはつまり…」
「お金持ちではあるのは間違いないけどね。私、マフィアのボスの妹よ」
あっさりと、しかも笑顔で、且つ小声で楽しそうに告げた。
「マフィアって、あのドンパチする感じの?」
「あー、抗争はめったにやらないけど、まぁそうね」
ステラの問掛けにあっさりと頷いたのに叫びうになるのをグっと堪えた。
意外なサプライズ企画だ。まさか、ドッキリ? とまで疑いたくなるわだかまりのなさ。
呆然としたステラを見て、クレアは笑顔のまま顔を背けた。照明が落ち、良くわからなったが一瞬寂しそうに見えたのは気のせいではないだろう。
「嫌いになった?」
クレアが唐突に聞いてきた。
ステラは呆然から覚醒し、ゆっくりと頭を振った。
それで、暗がりで見えないことに気付き言葉を紡ぐ。
「別に気にしないよ。俺も、何て言うか…闇に生きるヒト、だからね。それに、結局はその人の背景とか経歴よりも結局は人柄だよ。少なくとも俺はそう思ってる」
周りがざわつく中、クレアだけに聞こえる声で静かに言った。そこに嘘が無いのはクレアにも分かる。哀れみと同情もない。ただ、変わらぬ姿で、変わらぬ態度で、そこに在った。
「ありがとう…」
クレアは相手には見えないと解っていながらも優しく微笑んだ。この上なく綺麗に笑った。
間もなく、舞台に交響楽団が入場してきた。若手などいない、完璧に熟練者の集まりだ。
これは期待できる、とステラは思った。
曲はベートーヴェンのエロイカ交響曲たった。
英雄に捧げられた交響曲…それは力強く、真に栄光を讃え響いていた。
心に響き渡り、目を瞑れば情景が瞼の裏に浮かぶほど壮大に、繊細に、煌びやかに表現されていた。
しかし、これが彼のフランスの大英雄を讃えた曲だというのは有名な話だ。彼が皇帝になったことに憤りを感じ、題目をやぶり捨てられた交響曲。
いつしか英雄を讃える曲という意味をはく奪され、ベートーヴェンの意思も本人が願った以上に薄められて消えていくのだろう。
ステラはそれに感情が持っていかれていた。
曲の素晴らしさに素直に感動することなく、作者が書いている時の想いに馳ていた。
彼がフランスを救った時の喜び、自由を掲げ、民に良き政をなしていると聞いた時の感動。
そして、彼もまた己が欲望に従い、権力の頂点を極めてしまったときの怒りと悲しみ、失望に。
ステラの頬は知らぬ間に濡れていた。
彼の悲しみが流れ込んできてしまい、涙を止められなくなったのだ。
音楽には、言葉にはできない想いが乗っている。
そう実感したのは、久しぶりのことだった。
30分以上に及んだ演奏は、爆発の様な拍手によって幕を下ろした。
歓声が沸き上がり、感動に涙を流す者もいた。
それは、クレアとステラも例外ではない。
「只今より、20分の休憩に入ります。後、登録された方はホールの担当者のもとにお集まり下さい」
抑揚のないアナウンスが流れた。
「ステラ、飲み物取りに行かない? のど渇いちゃった」
と問掛けておきながら返答も聞かずに、強制的にステラの手を引いて休憩所まで行った。
ここまで Going my way だとむしろ清々しいなー…
などと心中でこぼしつつ、ステラは無抵抗で室内広場に引っ張られて行った。
室内なのにテラステーブルがあり、そこの一つに半ば押し付けられるように座らせられたステラ。
そしてクレアは忽然と消える…
まぁ、悪くないかもね…こういうのも。
ブリジットとはこうはならないよなぁ。引っ張ってくるより、からかわれるし。
リードしてくれる姉御肌は、嫌いじゃない。
ブリジットとデートしたことないから何ともいえないけどなぁ。
独りで苦笑いするステラ。
「気持ち悪い…」
「はぅえっ!?」
いつの間にか目の前の椅子にクレアがいて、怪訝そうにステラを見ていた。
「何か、ほけーっとしてると思ったら、いきなり苦笑するし…」
「いや、えと…」
「冗談よ。ほら、飲み物」
本当に姉さんみたいだ。
クレアはペットボトルを滑らせてきた。
ステラは受け取ったモノを眺めて、ポカンとしている。
「それ、嫌い…だった?」
不安げに見てくるクレア。
ステラは慌てて首を振った。
「ううんっ、違う。ただ、意外だなぁって」
クレアはきょとんと首を傾げた。それがなんとも可愛らしいというか…
「ほら、何かクレアって優雅に紅茶とか飲んで、高飛車笑いとかしそうな印象あったから」
「素直なのは良いことだけど… 何事も限度が大切よ?」
背筋の凍る様な笑顔…笑っているのにとんでもなく恐ろしかった。
「私は高飛車笑いなんてしません」
「はい…」
下手なことを言えない。
ステラはをそらし、カタカタと震える
「普通にペットボトルも飲みます」
淡々た言って、クレアはペットボトルの中身を一気に半分ほど飲み干した。
余程のどか渇いていたのか…
そんなわけはないのだが、認識してしまうのは怖いので、そういう事にしておこう、と心に決めたステラだった。
チラっとクレアの方を見ると、もう怒ってないようなので、ホッとした。
さばけた性格は貴重だ。
ステラもペットボトルに手を伸ばし、プシュッという軽快な音とともにフタを開けた。
黄色っぽい液体に突如出現する銀色の粒…
げっ…炭酸…
実のところステラは炭酸が苦手なのだ。
喉にくるあの耐えがたき刺激…責め苦だ…そして、お腹にサァッと広がる気持ち悪さ…
ステラは表情に出さないようにしながら、炭酸と睨み合った。
飲み物の味は好きなので、炭酸を抜いて飲んだりするのだが…クレアの前だ。出来る筈がない。
ステラは意を決して口をつけた。
「何必死な顔してるの?」
「っ!!!??」
思わぬクレアの参入により、予定よりも大量に喉に流れ込んでくる。
喉を刺すような痛み、まるで撫で回すように食道を下っていく感覚…
胃に落ち込み、冷気と刺激によって機能を低下させ何とも言えない気持ち悪さだけが残る…
変なところに入らなかったのは、不幸中の幸い。しかし、口を離したステラの顔色は真っ青だった。
「ど、どうしたの…?」
心配そうに聞くクレアをステラは無視した。
いや、今は答える余裕がないのだ。
どうしたもこうしたもない。気持ち悪い、吐きそう。むしろ死にそう…
しかし、それも一時的なもので、蒼白だったステラの顔色は徐々に回復していった。
吐気も引いていき、肺にたまった淀みを吐き出すようにステラは深呼吸した。
それでクレアも悟ったのか、いきなり剣幕を変えて怒鳴り出した。
「アンタねぇ!! 炭酸ダメなら先に言いなさいよ!! てゆうか飲む前に言いなさいよ! 無理して飲んで死んだらどうするのよ!!!」
おー… とか思いながらステラはクレアを眺めていた。まさか怒鳴られるとは…
しかしまあ、本気で心配してくれているのは、素直に嬉しかった。
なので、取り敢えず謝っておく。
「ごめん。ありがと」
「まぁ、良いけど…聞かなかった私も悪かったし…」
先程の激昂は何処へやら…途端にうつ向きかげんでおとなしくなる。
感情の起伏が激しい人だ…と苦笑いすら浮かんでくるものだ。
と、そんなのほほんとしていられなかった。
時計を見ると、あれから10分経っている。そろそろフロントに行かないと他人に迷惑がかかってしまう。
ステラはスッと席をを立った。
「ステラ?」
「悪いけど、暫く一人で観てて」
「あぁ、エントリーしているのね。わかった、いってらっしゃい」
「終わったらすぐに戻るから」
クレアの笑顔に見送られ、ステラはフロントへと階段を下っていった。
一人残されたクレアはステラが見えなくなったとたん、別人のように目つきが変わった。鋭く、深く、無感情に。
観察者…審判者…
それの類の者が見せる雰囲気だ。全てを客観で時に冷酷に判断する者の眼だった。




