09 敵を知る・2
何を考えているのか分からない、至って平常どおりに見えるカールハイツに続いて、エリリアナは城を移動していた。
現在いるのは三階で、階段を下りて二階へと進む。
広大な建築面積を誇る王城では、まともに端から端へと移動していては、無駄に時間がかかる。その為、数箇所に移動用魔術陣が敷かれており、各魔術陣の間を行き来することが出来た。
なお、襲撃などの緊急時にはこの機能が止まり、重要な場所への侵入を阻む仕組みになっている。
勿論、いくら便利なものとはいえ、当然使用できる人間は限られている。
今回は宰相であるカールハイツと一緒の為、全ての移動陣が使用可能だ。
行政区画の二階にある移動拠点――宮廷魔術師の執務室を開けると、中に入た五人の魔術師が顔を上げる。
「これはこれは……。ドナウアー様、本日はいかがな御用で御座いますか?」
中央の机に座っていた白のローブを着た老人が立ち上がり、長く伸ばした髭をもふもふと動かしながら、カールハイツに声をかけた。
「リンドバーグ殿、移動陣を使わせて頂きたい」
カールハイツは、老人に向かって端的に用件を述べる。
エリリアナも何度か会ったことがあるこの老人は、宮廷魔術師を纏め上げる長、宮廷魔術師長のリンドバーグだ。
長い白髭と白いローブが特徴の好々爺である。
魔術師は立身出世に興味が薄い人間が多いため、同じ魔術師同士では役職名を使わない。カールハイツは宰相であるが、同時に優れた魔術師であり騎士である為、身内扱いとなる。
「ふむ、勿論構いませんぞ。場所はどちらで?」
「第三魔術室です」
二人はそう話しながら、奥の小部屋へと向かう。
エリリアナはその後に続きながら、執務室を通り抜けざまに、魔術師たちに頭を下げる。
相手はそれを受けると、柔和な笑顔を浮かべて、会釈を返した。
(うん、やっぱり魔術師の方々はいいなぁ)
魔術師と言うと偉そうだが、基本的に殆どの――少なくともエリリアナが知る範囲は全て――魔術師は研究者肌で、権力志向とは程遠い。
貴族には強い魔力の持ち主が多い為、魔術師の多くはやはり貴族であるが、魔術学校には第三者の連れ込みが禁止されているので、自分のことは自分でする習慣が身についている。
だから魔術師は平均的な貴族より大分気さくな人間が多く、エリリアナにとってはよっぽど付き合いやすい人々であった。
「魔術陣の方は最近どう?」
だから、魔術師の一人も、こうやって気軽に声もかけてくれる。
「中々難しいです。早く上達して、カ――ドナウアー様のお役に立ちたいのですけれど」
エリリアナの答えに、副長である魔術師は「はは」と笑った。
「ドナウアー様は何でも御一人でなさるから、私達でもなかなか役に立たせてもらえないよ」
口ぶりから、そして何度か今まで交わしてきた会話から、カールハイツへの尊敬が見て取れる四十代くらいの副長は、そう言って頭をかいた。
「エリリアナ」
笑い返していれば、カールハイツから声がかかる。
エリリアナは「お仕事頑張ってください」と最後に副長に告げてから、移動陣のある小部屋へと駆けて行った。
中に入れば、そこには鈍い光を放つ三メートルほどの魔術陣が一つ、石畳の床に直接赤のインクで描かれている。蝋燭の燭台が四隅に置かれているだけで、部屋は暗かった。
「エリリアナ、こちらへ」
「はい」
カールハイツが手招きする通りに、エリリアナは陣の中央へと足を踏み入れた。彼女の歩みに合わせて、魔術陣から立ち上る光が、埃が舞うように明滅する。
「それでは参りますぞ。光が消えるまで目を閉じておくのをお忘れなく」
リンドバーグに言われるや否や、エリリアナはぎゅっと目を瞑った。リンドバーグが、陣を起動させる呪文を唱える声が聞こえる。それに合わせてどんどん魔術陣から零れる光が大きくなり、瞼で黒塗りされた視界が明るくなっていく。
その光はリンドバーグの声が遠ざかると同時に弱くなっていき、やがて完全に力を失った。
(いや、毎回思うけど分かりづらいよ!)
しかし、一度強い光に晒された目は、閉じられた瞼越しでは、完全に光が消えたかどうか分からない。
『魔術陣での移動中は、高まった絡み合う魔力が視覚に影響を与えます。中には視覚情報を処理できずに発狂した人間もいますから、移動中は目を閉じることをお勧めしますよ』
というのが、エリリアナが最初に移動陣を使う直前、カールハイツが彼女に告げた言葉である。
善意で言ってくれたのだろうが、彼女には逆に恐怖しか与えなかった。
この世界の人間は魔力の揺れのようなものが感知出来るため、移動が完了すれば自然と分かるらしいが、エリリアナには当然出来ない。
(発狂とか、恐ろしすぎる……!)
万が一にもそんな目に遭いたくないため、自然とエリリアナは目をなかなか開けられなかった。
「エリリアナ、着きましたよ」
カールハイツから、慣れたように声が掛かる。
彼女に魔力がないのを知っているから、エリリアナの心境も類推出来るのだろう。
それでも恐る恐る目を開ければ、光を失った赤の魔術陣が目に入った。
薄暗い部屋の四隅には、先ほどまでの金色の燭台ではなく、銀色の燭台が置かれていた。
無事、移動は完了したらしい。思わずふぅっと、息が漏れる。
「カールハイツ様、いつも有難うございます」
「どういたしまして」
顔を上げて礼を言えば、カールハイツはそれをさらりと受け取る。
魔法が効かないエリリアナにとって、魔術陣の描かれた床ごと移動するこの術は、彼女が『不可思議』を体験できる数少ない場面だった。
そのせいで、毎回この移動後は足がふらふらする。
それを予期してか、カールハイツは無言で彼女の腕を取った。強くはないが、大きな手で二の腕を下から支えられるように持たれ、エリリアナは少しだけびくりとする。
ちらりと真横にいるカールハイツを仰ぎ見たが、彼はそれに気付かず進行方向だけを見ていた。
そして二人は小部屋を後にする。
扉の先には、リンドバーグや副長はおらず、部屋も三人が待機するやや小さめのものに変わっている。
中にいた三名の魔術師は立ち上がってカールハイツに会釈すると、そのうちの一人は移動陣の後処理をするため、小部屋の中に入っていった。
カールハイツは平然と、そしてエリリアナは会釈をしながら、その第三魔術室から出て行った。
廊下に出れば、そこはもう王城の最右翼部に位置する騎士団棟の近くだった。
王城の東には宮廷騎士団が駐屯する騎士団棟、西には宮廷魔術師が住まう魔術棟がある。騎士団は人数が多い為、そして魔術棟には実験施設や図書館などがある為、別棟扱いとなって端に置かれていた。
二人は今いる二階からさらに一階に下り、最奥にある扉に向かう。
外へと繋がる扉の横には、騎士団の鎧を着た、二十歳になる少し前くらいの青年が立っていた。
「お疲れ様であります、ドナウアー宰相!」
彼は元気よくそう挨拶すると、人懐っこい笑顔を二人に向ける。
「ご苦労様」
「お疲れ様です」
二人はそれぞれそう言って扉をくぐると、騎士団棟へと続く渡り廊下に出た。
屋根と、それを支える白い柱しかない屋外通路は、騎士団の修練場となっている草のない広場の端を横切るように続いている。
右手を見れば、開けた広場には弓の的や、人の形をした藁人形のようなもの――恐らく剣術の練習台、サンドバッグのようなものが並べて設置されていた。ちらほらと、非番であろう騎士の姿も見える。
(おお、眼福……!)
汗を流す、良い筋肉の付いた標準以上の顔の持ち主達。これを眼福と言わずして何と言う。あまり面食いではないエリリアナだったが、興奮隠せないままきょろきょろと辺りを見回しつつ、渡り廊下を進んでいた。
自然と、カールハイツについて行く足取りが遅くなり、カルガモのように彼の少し後ろを遅れて続く形になる。
「エリリアナは、此処に来るのは初めてですか?」
前方にいるカールハイツから尋ねられる。顔だけを彼女に向けて、何やら愉快そうな響きを含んだ声は、常よりやや高めだ。
「はい!」
エリリアナは騎士団棟に行くのはこれが初めてだ。
街中や王城、騎士を見る機会は多い。
だが、その本拠地に向かう用事などないから、近寄るのも初めてだ。
「業務の上で、護衛騎士以外の騎士の方と関わることは殆どございませんから」
イシュワルト第三王子の侍女をしていた時には、常に二人の護衛騎士が付き従っていた。
防犯上の理由で三人のローテーションを組んでいた彼らは、頼りになる兄のような存在で、彼らもエリリアナの事を妹のように優しく接してくれた。
そういう訳で、エリリアナの騎士に対する印象は概ね高い。
「此処で皆様訓練されていらっしゃるのですね」
日本からやって来た彼女にとって、実際に真剣を持って武芸に励む人々を見る姿はとても珍しい。
勿論帯刀した騎士は数多く見ているが、実際に抜刀したところを見るのは緊急時だけであり、そんな時に「眼福じゃ~」とか呆けている余裕はない。
だから現在、多少興奮している自覚はあるが、中々それを抑えることが出来なかった。
「中には訓練で遠出する者もいますが、大体は此処ですね」
「カールハイツ様は、時々訪ねていらっしゃるのですよね?」
カールハイツは、元々は武官として騎士団に所属していた。今でも機会を見て度々訪れているらしいと、メイドネットワークで耳にした。
「ええ、たまには身体を動かさねば、鈍るばかりですから。空いている者に手合わせを頼んでいます」
「それは……是非とも応援させて頂きたかったです……!」
力を込めてそう声に出すと、カールハイツが、小さな子供を見るような視線を彼女に送っているのに気がついてハッとした。
(いい歳して、何をはしゃいでるの、私は)
しかも勤務中。
二重の意味で恥ずかしくなり、顔に熱が集まるのを自覚しながら、エリリアナは顔を笑顔のまま引きつらせた。
目を細めながら、カールハイツが口角を僅かに上げて言う。
「見ていて愉快なものではないと思いますよ」
「そんなことございません。少なくとも私はカールハイツ様のご勇姿を見逃して、今悔しく思っておりますもの」
エリリアナの返事に、さらにカールハイツがふっと息を漏らす声が聞こえる。
今度こそ彼女は顔を真っ赤にして、女官服のスカートを握り締めた。
「――では、次回はエリリアナを招待することにしましょう。見せるならば、少しでも老いる前の方が良いですから」
「カ、カールハイツ様」
からかうのはお止め下さいと、懇願するような目を彼に向けたときだった。
何か、棒状のものが、物凄い勢いで左手方向より飛んできていた――それも、エリリアナに直撃コースで。