07 宰相閣下の御散歩先
「……まあ、年齢のことは横に置いておきましょう」
不意にカールハイツが困ったような、苦笑に近い表情を浮かべて、沈黙は破かれた。
「そうですね。エーベルハルド様のお越しで予想外に時間を使ってしまいましたから、急いで片付けます」
「エリリアナ……」
政略結婚の件は頭では理解した。だが一度、この程度の嫌味を言うくらいは許されてもいいだろうとばかりに、カールハイツに笑顔を向ける。
その足で壁に掛かった魔術陣をくるくると丸めて部屋の隅に置き、茶器を下げる。カートの一段目に置かれた、少量の水が入った手桶に布を浸し、テーブルを拭く。
これらの手順をテキパキとこなしたエリリアナは、執務中のお茶はいつもの物でよいかカールハイツに確認しようと顔を上げ、ようやく彼が呆れたような表情で顎に手を当てているのを発見した。
「カールハイツ様?」
「いつもはその手際の良さに目を楽しませるところですが……」
「?」
ため息のような音を漏らして、カールハイツがソファから立ち上がる。
「エリリアナ、散歩に出ます。着いてきなさい」
「散歩……で、ございますか?」
多忙を極めるカールハイツが食後の散歩とは珍しい。
早々と部屋を出ていくカールハイツに、エリリアナは慌ててついて行くと、廊下を歩いていたメイドを呼び止め、食器類を乗せたカートを頼む。快く引き受けてくれた相手に丁寧に礼を述べると、彼女は既に歩き出している大きな背中を追った。
(一体どこに向かってらっしゃるのかしら。カールハイツ様がわざわざ私を連れて行かれるってことは、何か目的がおありだと思うんだけど……)
王城で見かけるような位の高い人間は、基本的に護衛や侍女、侍従を引き連れて動くことが多い。
しかしカールハイツはその身分に反し、誰かを連れ歩くことは好きではないらしい。宰相という職の重要性を考えれば、不用心極まりないのだが、なまじ護衛など必要もない程に力がある為、誰も何も言えなかった。
やや歩いた先で、カールハイツは立ち止まり、見慣れた両開きの扉を開ける。
かなりの広さがある室内では、扉近くに席のある何名かが、音に反応して机から顔を上げた。
「ドナウアー宰相!?」
誰かがそう言うと、それを聞いた人間が瞬時に顔を上げ、慌てて立ち上がる。次々とその流れが伝播していく様子は、まるで波のようだと、エリリアナは暢気に思っていた。
ドナウアー宰相と呼ばれたカールハイツはそれを気に止めることなく部屋の中へと歩いて行き、それと同時に片手を小さく振り下げる。そこでようやく、立っていた人々――高等書記官達は、席に着いた。
(何かをご相談?)
やって来たのは、高等書記官達の集まる、中央書記室だ。
文官は各大臣の下、細かく部署分けされ統括されているが、最終的に全ての書類や手続きが回ってくるのはこの中央書記室である。
広々とした執務室には、日本企業の一フロアを連想させるように、整然と机が並び、書記官達が各々の作業に集中していた。
部屋の両端には大きな個室があり、そこに書記官の長である書記官長と、この部屋をまとめる中央書記室長の執務室が設けられている。
カールハイツは迷うことなく、最右翼にある島へと足を進めた。
大人しくエリリアナもついて行くのだが、やけに視線を感じる。
ここに来るのは初めてではないから、顔見知りも割りといるのに、今日はやけに視線が痛い。
(カールハイツ様と一緒だから?)
そんな視線に居心地悪い気分になりつつも壁際まで来ると、カールハイツは「ミレニカ」と誰かに声をかけた。
その呼びかけに反応して、一人の男性がエリリアナ達の方へやって来る。
「ドナウアー宰相、御呼びでございますか?」
男性はカールハイツの目の前まで来ると、一瞬彼女の方をちらりと見たが、そのまま頭を下げる。
年の頃二十七、八の、しっかりと手入れされた短い鳶色の髪に淡褐色の瞳を持つ男性は、やはり貴族だけあって、凛々しい整った顔立ちをしていた。引き締められた口元と少し太めの眉からは、強い責任感のようなものが感じられる。
(何というか、この城で中レベルの顔の人って、誰かいるのかしら)
自分を除けば、見る人見る人が上の下から特上級の美人ばかりで、エリリアナはたまに擦れた気分になる。美の基準が此処ではおかしなことになっているに違いない。
「城壁の魔術陣強化の案件、担当は君でしたね、ミレニカ?」
そんなやさぐれた気分に入りつつあったエリリアナの耳に、カールハイツの、穏やかな聞き取りやすい声が入り込み、彼女を我に返らせた。
「はい。魔術研究院との共同企画で、現在案の推敲を重ねている段階です」
エリリアナの感覚からすれば180近くある男性にしては、やや高い感のあるアルトの声で、彼は淀みなく答えた。
「そうですか。その計画の確認業務は、こちらのエリリアナに担当してもらいます。必要な作業があれば、彼女に頼んでください」
「!? カ――ドナウアー宰相!?」
思わずカールハイツ様と呼びそうになり、エリリアナは口ごもった。身分の低い者や地位の低い者が、相手のファーストネームを呼ぶのは、非常に私的だと言われている。王族の場合は仕方がないが、通常は家名に役職名を付けて呼ぶのが習いだ。
カールハイツの名を呼ぶことが許されているのは、彼がエリリアナに許可したからに他ならず、それも限られた人間の前だけでだ。
さらに、突然振られた仕事の話に、エリリアナは虚を突かれた。
こんな唐突に仕事が振られるのは、滅多に無い。しかも、現在宰相であるカールハイツの要求に応じて似たような作業をしているが、他の仕事を入れるということは、そちらが詰まるということだ。
自分の首を絞めるようなことを何故。
「エリリアナ嬢……」
案の定、言われたミレニカの方も驚いたのだろう。目を軽く見開いて、彼女の顔を見ている。
(私のこと、メイドの延長みたいなものと思ってるんだろうなあ。そんなのが担当って言われたら驚くよね)
この中央書記室で幾度となくデータ処理の手伝いはしているけれど、この区画に来たことはない。中央書記室は広く人員もかなり多い為、彼女を知らない人間の方が遥かに多数派だろう。
しかし、ミレニカは一瞬思案するように視線を逸らした後、すぐに「ああ」と声を漏らした。
「エリリアナ・トゥルク伯爵令嬢ですね。お噂はかねがね聞き及んでおります」
そう言って、彼は笑顔を浮かべた。王太子のように蠱惑的でも、カールハイツのように余裕のある艶やかさでもないが、しっかりとした自信に裏付けられた、自然な笑み。
(うわ、眩しっ)
屈託の無い笑顔に、エリリアナは思わず引きつった笑いを浮かべた。どう反応していいのか分からない。
「は、初めてお目にかかります、ミレニカ様。エリリアナ・デオ・トゥルクと申します」
少し挙動不審になりつつも、官吏としての礼を取る。
相手は、それを受けて同じく礼を取りつつ、それでも笑顔のまま視線は彼女から外さない。
「ご丁寧にありがとうございます。私はエリック・デオ・ミレニカと申します。この中央書記室では、主に魔術学校に関する業務を受け持っております」
ハキハキと答えるミレニカに、エリリアナは『仕事の出来る爽やか系』と頭の中でメモを取った。
(とりあえず、良い人みたい)
エリリアナは安堵の息を漏らした。どうせ一緒に仕事をするのなら、人柄も大切だと彼女は思う。経験則から言わせると、仕事のストレスは主に人間関係である。
「彼女に用事がある際は、私の執務室までお願いします」
「宰相の……でございますか?」
ミレニカが、不思議そうな表情で、宰相に問い返した。
「彼女は私の秘書ですから」
カールハイツの応えに、ミレニカが彼女の方を見る。エリリアナはとりあえず、頷くことにした。
すると、多少思うところはあるのだろうが、彼はは素直に「かしこまりました」と頭を下げる。
それにカールハイツは小さく頷くと、「邪魔しましたね」と言って、踵を返した。
置いて行かれてなるものかと、エリリアナは続いて足を踏み出した。が、すぐに足を止めてミレニカを振り返る。
「ミレニカ様、あの……お仕事ご一緒出来るの、楽しみにさせて頂きます」
彼女は社交辞令としてそう言うと、きょとんとした表情のエリックに「お疲れ様です」と重ねて、先を行くカールハイツの後を追った。