06 相手が被害者
「エリリアナ」
かけられた言葉に、エリリアナは情けない表情を隠すことなく振り向いた。
常に微笑を保つべき女官としては失格だ。
「カールハイツ様ぁ……」
六年間で築き上げてきた女官としての矜持はどこへやら、声まで情けない。
「――ひとまず、そこに座りなさい」
カールハイツはそう言うと、自分のカップを手に取る。
何をする気だろうかと、大人しく彼の言葉に従ってソファに腰かけたエリリアナは、カールハイツを目で追った。
彼が何事か呟くと、カップは彼の両手の間に浮き上がり、続いて大きな水の塊がカップを包んだ。
水球の中でぐるぐると回るカップは、やがて小さくなっていく水に取り残されて、カールハイツの手の中に落ちた。彼はトレーの上にあった布を掴むと、カップの水分をふき取っていく。
最後に、普段は触れること無い――何故なら、エリリアナが自分の仕事だといって聞かないから――ティーポットを手に取ると、魔術で洗われたカップに茶を注ぐ。
そのカップをエリリアナの目の前に置くと、カールハイツは執務机の引き出しを開け、何かを手にとって戻ってくる。
「秘密ですよ」
そう言って、湯気を立てるカップの横に置いたのは、王都でも有名な店のチョコレート。
高級ではあるが、貴族御用達ではないその中堅どころのチョコレートは、確か以前エリリアナがカールハイツに差し入れたことがあった。
「……カールハイツ様、執務机にチョコレート隠していらっしゃるんですか?」
「だから秘密だと言ったでしょう」
そんな事を言いながら、黒いチョコレートの箱から一粒摘み、口に放り込むカールハイツ。
その様子を見ていたら、先ほどまで動揺していたのが何故か馬鹿らしく思えてきて、エリリアナからいつの間にか入っていた肩の力が抜けた。
「……いただきます」
小さく礼を言って、宝石箱のようにチョコレートが美しく並んだ箱に手を伸ばす。どれもとても美味しそうだったが、最初に目についた一粒を手に取った。
刻みナッツがまぶされたトリュフ状のチョコレートは、苦味の中に程よい甘さが合わさった濃厚な味だった。
口の中でそれが蕩けていくにつれて、エリリアナは自分が落ち着いていくのを感じる。
カールハイツは、何も言わない。
ただ静かに、エーベルハルドが残していった紙を見ていた。
だからエリリアナは、それに甘えて目を閉じ、僅かに甘いチョコレートの滑らかな舌触りをゆっくりと味わった。
口の中から、芳醇な香りが消えるのを惜しみながら、エリリアナは目を開いて微笑んだ。
「美味しかったです、カールハイツ様」
「そうでしょう。私も気に入っています。最初に持ってきてくれたエリリアナには感謝しなくては」
エリリアナは目をぱちくりとさせた。
彼に差し入れたのは、大分昔のことだ。まさか覚えていてくれたとは。
(さすが隠れ甘味王)
一糸も乱れぬ佇まいに、武官としても文官としても並以上の実績を持つカールハイツ。窓からもたらされた光に、きらきらと輝く青銀色の髪には、五十近い歳のためか白いものが混じっていた。
それでも、いや、だからこそ漂う凛とした雰囲気とのギャップに、エリリアナは頬が緩む気がした。
行儀が悪いが、お茶を一気に飲み干すと、勢いよく立ち上がって、深く礼をする。
「カールハイツ様、お気遣い頂きまして、有難うございます」
崩れないように纏めた黒髪が、僅かに乱れるのを感じながら、頭を上げる。
「落ち着きましたか」
「はい」
低い、穏やかな声が彼女にかかる。
その声に背中を押されるように、エリリアナは背筋を伸ばし、拳を握った。
「よく考えたら、貴族に政略結婚は付き物ですもの。私に選択肢を与えてくださったエーベルハルド殿下には、逆に感謝しなくてはいけませんよね」
貴族の娘は、平均して十七程で結婚する。公表年齢が二十二のエリリアナは、立派な嫁き遅れだ。
トゥルクの姉妹はこの類いの話に縁がなかったから、今まで意識してなかったけれど。
アリナーデは伯爵の地位を磐石にすることに夢中のため、まだ結婚する気などないし、エリリアナもひたすらイシュワルトの為に勉強やら何やら常に奔走していて、いつの間にか適齢期を過ぎていた。
(日本でも、こっちでも、結局私は嫁き遅れる運命なのね)
日本ではアラサーだった彼女は、こちらでの滞在年数七年を加えると、もう中身は三十○歳だ。それが二十二として嫁に行くのだから、逆に相手が可哀想だとエリリアナは思った。
「相手だって被害者ですし」
「被害者?」
相当な年齢詐欺だなと思ったエリリアナは口に出していたのか、片眉を上げたカールハイツが、彼女を見ていた。
「あ、いえ、私も若くありませんし、訳アリ物件を掴まされるお相手も大変だなと思いまして」
「……貴女は充分若いと思いますが」
「え? でももう二十二です。『二十歳過ぎても独り身なのは訳アリばかり』と言うではございませんか」
「誰がそんなことを」
眉を顰めて言う宰相に、エリリアナは思わず「書記室の皆さんが」と答えてしまい、その後で慌てて口に手を当てた。
カールハイツが冷やりとした雰囲気を放っていたからである。
「女性に対しそのような発言をする輩など、気にしなくてよろしい」
目には剣呑な光を宿し、口角を僅かに上げてそう言われれば、彼女には頷く以外なかった。
「第一、貴女が年ならば私はどうなりますか。もう棺桶に足を入れる年ということになってしまう」
「そんな、カールハイツ様はいつも素敵です!」
この執事然(誉め言葉)とした雰囲気は、その年だから可能なのにと、エリリアナは力強く目で訴えた。カールハイツがふいに眼鏡を外し、目頭を押さえつつ物憂げな表情を見せる姿を、エリリアナが平然とした面持ちの影で「うひゃあああ……!!」と悶絶しているなど、彼は思ってもいないだろう。
バレたら確実に変態扱いだ。
「……」
「……」
変な沈黙が二人の間に落ちた。