28 場違い者への宣告
一人残されたエリリアナは、カールハイツの後姿をしばらく見送っていたが、何人かがちらちらとこちらを見ているのに気づき、顔を正面に向けた。
テーブルの上に置かれたケーキを見つめながら、言われた言葉を思い返す。
(魔物って、魔物よね? 何故? 結界があるから、魔物は中に入れないんじゃないの?)
エリリアナが知っている魔物などたかが知れているが、エランディアが戦った魔物たちは、正しく魔の物と呼ぶに相応しい姿と獰猛さだった。エランディアはあっさりと倒してしまったが、彼女は自分の両手に抱えられる程度の大きさの魔物鼠にすら、大怪我を覚悟したのだ。あんなものが人の多い王都に出れば、どうなるのか。
エリリアナはぞっと怖気が走り、両手で自分を抱きしめた。
(何か、私に出来る事は)
ケーキを穴が開くぐらい見つめた後、エリリアナは立ち上がった。ナプキンを置き、バッグを持って給仕に礼を告げるとその場を後にする。
時刻は既に夜を告げており、勤め人の大多数は帰宅している。下働きの者達も夜勤体制に入っているため、王城は日中よりも遥かに人が少なかった。
そんな中エリリアナは、あからさまに文句を言われない程度の競歩速度で自室へと向かっている。何をするにしろ、こんなゴテゴテとしたドレスでは身動きの取りようがない。侍女服に着替えて、それから考えようと、今はひたすらに足を動かした。
広大な城の右翼部から左翼部に移動するのはかなり時間がかかり、自室に飛び込んだ頃には、彼女の呼吸は大分荒くなっていた。
部屋に入るなり、高いヒールのついた靴を放り投げ、柄の入った絹の靴下を脱ぐ。その他の装備品も次々と外し、彼女は着なれた戦闘服に袖を通した。若干胴回りがきついような気もするが、間違いだろうと思考の海から滅却する。
「……やっぱり落ち着くわ」
ヘッドドレスを最後に身に付け、鏡でおかしなところがないか簡単に確認する。服に一部の乱れすらなく、そこにいるのは宰相秘書官のエリリアナだった。
彼女は気が引き締まるのを感じながら、女官服の長いスカートを翻して自室を後にした。
廊下を足早に進み、中央にある行政区に入ると、何処か普段よりも空気がざわついていることに気が付いた。
夜間は人数の少なさと見回りの多さから、厳粛なものが漂う城内行政区だが、今は普段以上に何とも言えない緊張感があるように思えた。
その違和感にエリリアナは顔を険しくしながら足を速め、宰相執務室前までやって来た。
分厚い扉の向こうに上司がいるかは不明だが、エリリアナは怒られること覚悟でノックをしようと手を振り上げる。
「エルルゥ」
聞く者を強制的に振り向かせるような力ある声が、エリリアナの愛称を読んだ。
主であるイシュワルトが国を発った今、彼女を愛称で呼び捨てる人物は城内に一人しかいない。エリリアナはノックのために握った手を下ろし、声の主を振り返った。
「エーベルハルド様」
この国の王太子エーベルハルドが、秀麗な顔を僅かに顰めながらエリリアナの方へと足早にやって来るところだった。
彼の到着に合わせ、軽く腰を折って臣下の礼を取る。顔を上げると、エーベルハルド本人に加え、休暇中のクラエスに代わって別の護衛騎士二名が彼の背後に控えていた。不思議なことに、巨躯の騎士に囲まれていても、王太子が小さく見えることは決してなかった。
「カールハイツは中か?」
「私も只今到着したばかりですので――殿下?」
カールハイツが在席かは分からない、と告げる前に、エーベルハルドはドアノブに手をかけて躊躇なく回した。ガチャリと硬質な音が響き、鍵のかかった扉に許可なき入室を阻まれる。施錠されていることから、中にカールハイツはいないのだと分かる。
エーベルハルドは扉に向かって息を吐くと、エリリアナに向きなおった。彼の後ろで、扉を先じて開けるべき護衛騎士が困ったような表情を消そうと努めているが、主である王太子は一切気にしていない。
「カールハイツは既にいないようだな。エルルゥがあれの動向を知らぬとは珍しい」
「いえ、私は」
カールハイツは王都に現れたという魔物の対処中なのだろうが、それを彼に告げるべきか、一瞬エリリアナは躊躇した。しかし、王太子である彼に隠す必要も資格もないのだと思い直し、彼女は口を開いた。
「本日は休暇を頂いておりました。……ドナウアー宰相でしたら、会議中かと思います」
エーベルハルドは彼女の返答を聞いて、僅かに目を細めた。
「休暇中だったのなら、何故会議だと分かる」
決して責めているわけではないが、誤魔化しを許さぬ問いだった。
どう説明すべきか。エリリアナは注がれる黄金色の瞳を見上げながら、エリリアナは顔を引き攣らせた。
だがすぐに、彼に隠し事をしようとするだけ無駄だと悟る。要職に就くには読心術が必須条件なのではと疑いたくなるほど、権力者の多くは隠し事に敏感だ。部下としては有難いが、個人としてはたまに勘弁してほしくなる。エーベルハルドも、その例にもれず他者の心の機微に聡い。
「……晩餐の最中に報告がございましたから」
「ほう?」
エリリアナは『誰と誰の』晩餐とはあえて言わなかったのだが、エーベルハルドはしっかり状況を把握したらしい。彼は一瞬にしてどこか剣呑さを秘めた顔を悪魔めいた微笑に変え、器用に片眉を上げた。
すべきでないと分かっていたが、エリリアナは思わず王太子から視線を逸らしてしまった。それを受けて、エーベルハルドが声なく笑う音が聞こえてくる。
「――まあよい。此処で呆けている場合でもない。ついて来い、エルルゥ」
「え――はい、畏まりました」
一瞬何処にという疑問が頭に浮かんだが、即座に了承の返事をして、既に横をすり抜けて行ったエーベルハルドを追いかける。王族に逆らう意味は、彼女にはない。
しかし長い足で進んでいく彼に粛々とついて行くのは中々重労働で、エリリアナは必死に表情を崩さないように気を付けながら付き従った。
廊下をしばらく歩き、エーベルハルドは一つの重厚な扉の前で立ち止まった。
(此処は……会議室?)
位置的に、この部屋は十人程度が収容可能な会議室のはずだとエリリアナは推理する。城に数多く存在する会議室のうち、防音や機密管理の最も徹底された部屋の一つで、物理的にも魔法的にも様々な対策が成されているのだという。
護衛騎士の一人がさっと主の前に出ると、片手を剣にかけつつドアノブを捻った。扉が開いた瞬間、中から漏れた人々のざわめきが廊下まで響いてくる。騎士は扉を大きく開け、自分が先に身体を室内に滑り込ませると左右を確認し、ようやく主の為に道を譲った。
エーベルハルド、護衛騎士、エリリアナと続いて室内に入り、最初に入った護衛騎士が扉を閉める。王太子は既に上座に向けて足を進めており、それに合わせて室内にいた人々が立ち上がる音が聞こえてくる。
そこで初めて、エリリアナは中の様子を窺うことが出来た。
室内にいたのは、魔術師が三名、騎士が三名、そしてカールハイツの七名だ。
扉を背にして、右手に騎士席、左手に魔術師席、正面にカールハイツとなる。
王太子に最敬礼を終えた彼らのうち数名が、王太子に続いて入ってきたエリリアナの姿を見て反応した。
カールハイツは一瞬のみ眉を顰め、魔術師のノルディはあからさまに『何でお前が此処にいるんだよ』と表情で語っている。
宮廷魔術師長は普段の朗らかな表情を崩さなかったが、副長は目を瞬かせた。
そして騎士席の端にいたエランディアは、ただ視線を彼女に注いでいる。
揃った顔ぶれを確認し、エリリアナはどうやらここが魔物に関する会議の場らしいと確信した。
彼女はエーベルハルドについて行くことはせず、そのまま部屋の下座側の壁際に佇んだ。何故王太子が彼女を此処まで連れて来たかは不明だが、大人しくしておくに越したことはないだろう。
エーベルハルドが着席して皆に座るよう合図すると、ようやく他の者も腰を下ろした。
「――王太子殿下、資料はこちらに」
カールハイツがエーベルハルドに資料を渡すと同時に、人々は会議を再開する。
「簡単に状況をご説明申し上げます」
まずノルディがその場で手を挙げ、一瞬だけエリリアナの方に視線をやってから言葉を続けた。
「王都南部、職人街の付近に魔物が出現。騎士団の巡回経路に位置していたため即刻排除を行いましたが、一般人に重軽傷者十一名、騎士に一名の被害が出ています。また、結界の緊急確認の結果、新たに二か所の綻びが発見されました」
淡々と報告された内容は、エリリアナが予想していたよりも遥かに深刻だった。死者が出ていないだけましではあるが、被害者十二名は決して軽くない。その証拠に、報告を聞いたエーベルハルドが眉間に皺を寄せている。
「現在、魔物の侵入経路や現状把握のため第五騎兵隊、第二、第三歩兵隊が調査中です」
恐らくは騎兵隊の責任者として出席しているエランディアが、ノルディの後に続いた。
次に白いローブを着た魔術師長リンドバーグが、長い髭を擦りながら口を開く。
「守護陣に関しても現在調査中ですが、修復に関しては何分人手やら準備やら色々問題がございましてな……即刻と言うわけにはいきませぬ」
ふぉふぉと言った調子を崩さず、魔術師長は言葉を切った。
「……なるほど、大体は把握した。目下問題となっているのは、侵入経路と他の個体がいるかの調査、そして守護陣の修復方法か」
エーベルハルドの呟きに、出席者の大部分が険しい表情を浮かべる。彼らは今述べられた問題がどれほど解決するに厳しいものか、充分承知しているのだろう。
それから細かい点に関しても議論を始めた彼らを前に、エリリアナはどうしたものかと考える。
(先ほどから騎士の方二名にちらちら見られてるんだよねえ。間違いなく場違いだって思われてるんだろうけど。私だってそう思うし)
連れて来た人間が王太子だから何も言わないでいるが、王都の防衛に関する機密事項を、女官服を着ただけの一般官吏に聞かせなくないという本心がびしばしと伝わってくる。
エリリアナはエーベルハルドに何度も視線を送ったが、彼は一向に彼女の方を見ない。自分が何故連れてこられたのかは不明だが、機密情報を聞いているだけというのも非常に心臓に悪い。
彼女は変な汗が滲んでくるのを感じながら、机上に目を向け、ふむと思いついた。
(会議は多分長くなるだろうし、エーベルハルド様は此処にいろともおっしゃっていない。……お茶でも準備しようかしら)
普段は侍女や侍従、メイドの誰かが自動的に茶を準備するものだが、特に機密度の高い事項が話し合われるこの会議室はそうではない。緊急会議だけあって誰も指示を出していないらしく、彼らの机上には書類以外何も置かれていなかった。
再度エリリアナは王太子に目を向けると、彼が何の反応も示さないのを確認してから静かに部屋を出て行った。
「……ふう」
八人分の茶をカートで運びながら、エリリアナは大きく息をついた。
当然だが、会議室はピリピリしており、空気が重い。更に『場違い者めが』という視線まで飛んでくるため、非常に居心地が悪かった。仕方ないとはいえ、何も感じないかと言えばそうではない。
会議室の前で再度深呼吸を繰り返してから、一度ドアノブを回し切り、元に戻してから再びノブを回す。会議の邪魔にならないようにノックはしないが、こうして警護中の騎士に合図をするのは一つの王城マナーである。
一呼吸おいてから扉を開けて、彼女は軽く会釈をしながら室内に入った。
茶器を無駄に鳴らさないように注意していたせいか、視線をカートから上げた瞬間、エリリアナは固まった。
何故か、会議場内の人間が全員、彼女に注目している。
そんなに茶が欲しかったのだろうかと馬鹿な考えが浮かんだが、彼らの真剣な表情にすぐに打ち消した。
特にノルディは凶悪な顔を彼女に向けているし、カールハイツは若干表情が険しい。エーベルハルドやエランディアは特筆すべき表情ではないが、彼女を見つめているのには変わらない。
何か反応すべきかとも思ったが、相応しい行動が思い浮かばず、中途半端な微笑を浮かべるだけに終わった。
「エリリアナ・デオ・トゥルク」
エーベルハルドが珍しく、愛称ではなく彼女の正式名を呼んだ。
王族の中でも更に力強い声に、エリリアナは一瞬で表情を引き締め姿勢を正した。同時に、妙な汗が背に浮かぶ。
「何でございましょうか、エーベルハルド王太子殿下」
乾いた口からどうにか不自然ではない声を紡ぐと、王太子は優雅に頬杖をつきながら、言葉を放った。
「王都結界の魔術陣、貴女に修復を命じる」
告げられた言葉が、エリリアナの耳から耳へと抜けていった。
冗談か聞き間違いに違いないと思ったが、彼女を見る多種多様な視線が、それが真実だと告げている。
徐々に速さを増し、まるで全力疾走した直後のように高速で脈動する心臓を意識しながら、エリリアナは口を開いた。
「……はい?」
彼女の場違いなセリフが、静かな会議室に響き渡った。




