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26 説教

 魔術書を返却したエリリアナは、自室へと足を向けた。

 夕食の時間ではあるが、筆記用具を抱えているし、何よりこの私服のままでは上食堂に行かなくてはならない。疲れた身体で、高位貴族への礼儀作法やテーブルマナーを気にしながら食事するのは、遠慮したかった。


(部屋で女官服に着替えて……夕食の後は談話室で読書でもしようかな)


 女官として彼女に与えられている部屋は、二人部屋だ。高位貴族であるために大部屋ではないにしろ、さほど広くはない。あまり篭っていて楽しい空間ではなかった。

 だから、たまに談話室や図書館、他の娯楽室で食後の時間をつぶしている。もっとも、勤務日はそんな余裕は殆どない。


 そんな風にこれからの予定を立てながら、魔術師棟から左翼部へと続く渡り廊下を歩く。屋外ではないため風を感じることは出来ないが、足取りは軽かった。

 夕食の日替わりメニューはなんだろうと考えていると、前からこちらへと歩いてくる人物がいた。

 城内で勤務する使用人たちが数多く通っているにもかかわらずエリリアナが顔を向けたのは、周囲の人々が壁際に寄って軽く頭を下げていくからだ。

 下働きの人間が頭を下げるべきなのは、王族や高位貴族、そして高位貴族扱いになる高官や宮廷魔術師。

 現在私服を着ているエリリアナは、伯爵令嬢の扱いを受ける。勤務時のように壁際に寄る必要こそないものの、相手によっては貴族としての礼が必要だし、知り合いだったら一声かけなければいけない。


 誰だろう。そう思って目を凝らした彼女の視界に、見慣れた人物が映り込む。


「カ――ドナウアー宰相」


 平素と同様、黒い仕立ての良い服を着た上司が、こちらへ歩いて来ていた。

 慌てて背筋を伸ばし、廊下の端の方へ身体を寄せてから、手を身体の前で合わせて礼をする。頭を上げる頃には、目の前と言えるほどの距離にカールハイツが佇んでいた。


「御機嫌よう、ドナウアー宰相」


 実は、こうして勤務外でカールハイツに会うことは滅多にない。

 イシュワルトの侍女だった頃は殆ど休みがなかったし、宰相の秘書官になってからは、休日の殆どを魔術陣の勉強に充てていた為、図書館と食堂、そして自室くらいしか移動していなかった。

 一方、カールハイツは一日の大半を執務室で過ごしているし、たいていの用事は指示を出して済ませているから殆ど出歩くことがない。休日は私邸に帰るらしいので、余計に会うことはなかった。

 というわけで、勤務外でこの上司に会うのは、実に片手で足りる程の回数だった。


 どことなく新鮮な気がして、気分も軽く挨拶したのだが、丁寧なカールハイツには珍しく返答がない。


(……というか、もしかして不機嫌でいらっしゃる?)


 いつも見慣れた顔と脳内で照らし合わせてみれば、彼の眉間には僅かに力が入っているように感じられた。


「……エリリアナ」


 そして案の定、彼女の名を読んだ声は、常より低い。


「何でございましょうか、ドナウアー宰相」


 若干笑顔が引き攣っているような気もするが、エリリアナは表情を崩さないように用件を尋ねた。

 それを受けたカールハイツは、エリリアナを見下ろして鋭い視線を投げかける。


「何故、此処に?」


 彼の通りの良い低い声は、いつもならば耳に心地よいものだったが、今は逆に突き刺さるような冷たさがあるように感じる。


「何故、と言いますと……」


 しまった。エリリアナは一瞬にして血の気が引いたように感じた。

 現在二人がいるのは、魔術師棟と左翼部を繋ぐ渡り廊下だ。彼女のやって来た方向からして、魔術師棟に行っていたことは誤魔化せない。

 そして、彼女はカールハイツに「魔術陣の研究はしない」と約束していたが、それ以外で魔術師棟に赴く理由はない。

 悪戯現場を押さえられた幼子のように、エリリアナはいい歳をして逃亡したくなった。


「エリリアナ」


 腕をゆるく組んだカールハイツが、エリリアナを見下ろして淡々と彼女の名を紡いだ。

 最初は、何とかやり過ごそうと思っていた。

 しかし彼の秀麗な顔にも声にも、憤りや苛立ち、蔑む色はないのに、酷く幻滅されているような気がして、そんな考えは霧散していく。先ほどまでの浮かれた気分は、欠片も残っていない。


「も、申し訳ございません……っ、ドナウアー宰相」


 結局耐えきれなくなって、エリリアナは小さく叫ぶように謝った。頭を下げたまま、顔を上げられなくなる。

 カールハイツが息を吐く音が耳に届き、反射的に彼女の身体が縮こまった。


「先日、私に言った事を憶えていますか」


 静かな声で尋ねられたのは、恐らく『仕事ばかりしていないで休憩をしっかり取れ』といった内容のことを彼に告げた時の事だろう。


「憶えています」

「では、今私が言いたいことも分かりますね」

「はい……」


 カールハイツにするなと言った事を、今まさに自分がやっていたのだから、否定のしようがない。休むと約束しておきながら、それを破ったのは彼女自身だ。

 淡々と諭される分、この説教が心に刻む威力も段違いだった。午前中に浮かれていた分、反動が堪える。


「――エリリアナ、顔を上げなさい」


 頭の上から降ってきた声に、エリリアナはしばし躊躇った後、ゆっくりと頭を上げた。

 彼女を見やるカールハイツの表情は、彼女の予想に反して普段と変わらなかった。恐らくは様々な感情を抱いているだろうに、深い藍色の瞳はそれらを一つも映していない。


「逸る気持ちも分かりますが、魔術は座学の知識ではありません。学問の知識には抜けがあっても問題ありませんが、魔術は違う。発動しなければ上々、最悪の結果に終わることとて珍しくない。たまには研究を離れ、身に付いていない知識を振るい落としてから覚え直すことも必要です」

「……」


 エリリアナは唇を噛みしめ、頷いた。

 情けなさもあったが、それ以上に言葉が見つからなかった。ただ「はい」と言うには師の言葉を軽んじている気がして嫌だったし、「分かりました」と言えるほど思い上がることは出来なかった。

 肩を落とし、再度俯き加減になった彼女の頭を、カールハイツの指が押す。軽く力を入れられ、彼女の顔が上を向かされた。

 彼を見上げたエリリアナの目に、カールハイツが僅かに口角を上げる様子が映り込む。その表情は、年若い者を慈しむような、老成された人間だけが持つものだった。

 じわりと、彼女の頭に一本だけ触れる指から、熱が広がる。


「学び舎で過ごす魔術師と違って、貴女は共に学ぶ仲間も共に過ごし導く師もいない、不利な状況なのです。逸らず、怠らず、貴女の速さで進みなさい」

「――はい……っ」


 それだけどうにか口に出すと、エリリアナは無理やり口を笑う形に変えた。落ち込むのも、情けなさに沈むのも、わざわざ彼女を持ち上げてくれたカールハイツに失礼だ。

 彼女のぎこちない笑顔を見て、カールハイツはエリリアナから指を離した。


「ありがとうございます、ドナウアー宰相。もう二度と、ご期待を裏切らぬよう努力致しますので、これからもご指導ご鞭撻の程よろしくお願い致します!」


 そしてエリリアナはがばりと頭を下げ、起き上がった。

 その様子にカールハイツは苦笑を浮かべると、「ええ」と呟いた。

 しかし、彼はそのまま顎に手をやると、微笑みを消す。


「とは言っても、約束を反故にしたことは変わりありませんから、罰は受けてもらいましょうか」

「え」


 手厳しいこの宰相が、説教だけで終わるわけはなかった。

 口を開け放ったままのエリリアナの前で、カールハイツは視線を外すと考え込む様子を見せる。

 嫌な予感に身を震わせるエリリアナに、彼は「ふむ」と呟くと再び視線を彼女に戻した。


「その様子だと食事はまだですね?」

「え、はい……?」


 エリリアナが、休日であってもわざわざ女官服に着替えて一般食堂に通っていることを、カールハイツは知っている。彼女は何故確認されたのか分からないまま、肯定した。


「丁度良い。エリリアナ、食事に付き合いなさい」

「ええ!?」


 エリリアナは、思わず声を上げた。


「貴女が上食堂を厭う気持ちは分かりますが、一人で取る食事は楽しくありませんからね」

「いや、ですけれど……。必要であれば、執務室までお食事を運ばせて頂きますので、私は……」


 乗り気でないエリリアナに、カールハイツは普段から滅多に見せることのない艶やかな微笑みを浮かべた。

 いつもだったら見惚れるであろう姿に、何故かエリリアナは妙な迫力を感じた。


「貴女は今、私の秘書官ではなく伯爵令嬢の立場なのでは? エリリアナ・デオ・トゥルク嬢」

「う」


 目を細めるカールハイツに、エリリアナは言葉を詰まらせた。

 伯爵令嬢で何がまずいのか。

 第一に、私服姿では執務室に入れない。第二に、侯爵であるカールハイツの命に逆らえない。


「……分かりました、ご一緒させて頂きます」


 エリリアナは諦めた。


「そこまで嫌がられては、老いた心もさすがに傷つきますね」

「あ……。ち、違います、カールハイツ様……っ。決してカールハイツ様とご一緒することが嫌なのではなくてですね、作法や周囲の環境といったものが……!」


 姓で呼ぶことも忘れ、エリリアナが焦って否定すれば、カールハイツは笑うように小さく息を吐いた。


「分かっています。言いつけを破った弟子に少し嫌がらせをしただけです」

「ドナウアー宰相……」


 じとりと彼をねめつければ、彼は僅かに肩を竦めただけで流してしまった。


「さて、私は図書館に用があります。付いてきますか」

「はい。特別閉架室の書物ですよね?」

「ええ。こればかりは私本人でなければ借りられませんから」


 そう言ってカールハイツは長い足を前に出した。彼の斜め後ろあたりを保ち、エリリアナは追いかける。


 魔術師のみに書物が提供される魔術師棟の図書館でも、更に高位の魔術師でなければ閲覧さえできない書物は、特別閉架室と呼ばれる部屋で厳重に管理されている。いかなる理由があっても、本人でなければ在庫の有無すら教えてもらえないほどの、徹底っぷりだ。

 もっとも、未熟な者は開くだけで目が潰れるという本も中にはあると聞くから、当然の処置と言えるだろう。


(だからカールハイツ様は、此処までわざわざご自分で足を運ばれたのね)


 もう少しタイミングがずれていれば、見咎められることもなかったのにと考え、彼女は即座にそれを振り払った。我ながら、反省していない自分に情けない。


 エリリアナは、先ほど出て来たばかりの図書館に再度足を踏み入れ、カールハイツに続いて司書室まで向かった。

 司書の魔術師はカールハイツを視界に入れると慌てて姿勢を正し、そのせいで机の上にできていた本の山を崩して情けない声を上げた。


 カールハイツに目的の書名を告げられた司書は、指定の本を取りに奥へと足を向けたが、カールハイツの陰にいたエリリアナに気が付くと足を止めた。


「エリリアナさん、まだ返し忘れた本でもありました?」

「……本?」


 顔馴染みの司書の言葉に、カールハイツが柳眉を寄せる。

 魔術書は、高位の魔術師を除き、即日返却が基本だ。つまり司書の言葉は、エリリアナが本日何かしらの魔術書を借りたと言っているようなもの。


「いいえ何もありませんのでどうぞお仕事をお続けくださいませ、さあさあ早く」


 だからそれ以上言うなとばかりに、エリリアナは早口言葉並みの速さで捲し立てた。司書の男性は彼女の反応に首を傾げたが、そのまま何も言わずに奥へと消えていく。


「……」

「……」


 カールハイツの無言の圧力が横っ面に向けられ、非常に痛い。

 カールハイツは、彼女がクラエスに協力してもらって魔術書を入手したことまでは知らなかったのに、司書の発言のせいで借りた事がばれてしまった。


「後で話を聞かせてもらいましょうか、エリリアナ」

「……ハイ、カシコマリマシタ」


 びしばしと横顔に感じる視線に耐えながら、エリリアナは諦めの境地でため息をついた。



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