25 資料の山と文官の笑顔
大きな机ぎりぎりに資料と本の山を築き、その間から顔を覗かせているのは、知り合いと言えるかどうか微妙な相手。
交わした言葉は数語で、過ごした時間は数分。しかし、仲介者にはしっかり名前を知らされている。
そんな相手に気付いたとして、どう反応するべきなのか。
(挨拶すべきか否か……。ここは会釈だけでいいかな)
作業の邪魔をするのもなんだし、とエリリアナが軽くその男性に会釈をすれば、彼は口に微笑みを浮かべて立ち上がった。ペンが机の上を転がる音が静かな室内に響く。
そのまま彼は、躊躇なく彼女の前までやって来た。鳶色の髪をわずかに揺らし、淡褐色の瞳を笑みで細め、口を開く。
「こんにちは、エリリアナ嬢。奇遇ですね」
「ごきげんよう、ミレニカ様。急遽お休みを頂きましたので。ミレニカ様は、お仕事ですか?」
彼女の前で朗らかな笑顔を浮かべているのは、高等書記官の一人、エリック・デオ・ミレニカだ。
山のような資料に囲まれ、機械のように高速でペンを動かしていたにも関わらず、彼の顔に疲労の色は落ちていない。
「仕事の一環ではありますが、私用の意味合いの方が強いですね」
ミレニカはそう言うと、若干気恥ずかしそうに首に手をやりながら続ける。
「恥ずかしながら未熟な身ですので、色々と不勉強なところがありまして……エリリアナ嬢にもご教授願うかもしれません」
そんなことを言われた当のエリリアナは目を瞬かせた。ミレニカは高等書記官――文官のエリートだ。彼女が彼に教えられることなど、殆どないはず。
明らかに困惑しているエリリアナに気付いたのか、ミレニカが後ろの資料の山を振り返りながら付け加える。
「魔術陣に関して最低限の知識でも身に付けようと今更ながらに資料を漁っているのです。三日後には臨時会議もありますから」
「え!?」
大きな声を上げてしまい、エリリアナは慌てて口元を手で覆った。そこその広さがある資料室は会話禁止ではないが、静かな空間で大声を出すのは気が引ける。縮こまるように魔術書を両手で抱き込み、声を抑えて続ける。
「も、申し訳ございません、初耳だったものですから。その、会議のお話は何時頃決まったのでしょうか?」
「今朝伝達がありましたので、恐らく決定は昨夜か早朝でしょう。今回は魔術師の方からの現状報告が主ですから、特に資料等の事前準備は必要ありませんよ」
エリリアナを安心させるようにミレニカは微笑んだ。その言葉を聞いて、エリリアナは僅かに安堵する。
(昨夜ってことは、私を帰してからカールハイツ様に報告が上がったのかしら。念のため準備が必要か明日辺り聞いてみよう)
彼女は脳内メモにそんなことを加えると、ミレニカに礼を言う。
「教えて下さってありがとうございました。確認を怠っていましたので、大変助かりました」
「いえ、お役に立てたのでしたら何よりです」
ミレニカはそう言うと、笑みを深めて彼女を見下ろす。
爽やかな笑顔に、擦れた心が漂白されているような居心地の悪さを感じたが、彼は彼女の抱えた本に気が付くとその笑みを解いた。
「それは……」
「図書館にあった魔術陣の基礎教本です」
そう言ってから、ミレニカも勉強中だったなと思い出す。
魔術陣の研究は、この剣と魔法の世界であってもマイナーな分野に分類され、それは蔵書数に顕著に表れている。更に、この城に滞在する人々で魔術陣をかじっている者は、数は少ないがその分精通しており、基礎教本になど用はない。つまり、需要のないこの本は、王城であっても一冊しかないのだ。
「私も人伝で借りた物ですからお貸しすることはできませんが、良かったらご覧になりますか?」
「え……」
彼女の申し出に、ミレニカがきょとんとした表情を見せる。大きな身体に反して、随分と可愛らしい反応だなとエリリアナは思った。
「よろしいのですか?」
「ええ。と言っても、長い時間は無理ですけれど」
又貸しは出来ないし、今日中に返却しなければいけないため、若干申し訳なく思いながらエリリアナが言うと、ミレニカは眉尻を下げて破顔した。
「――助かります。私は魔術師ではありませんから、魔術書の貸出には面倒な手続きが必要なのです」
「面倒、ですか?」
真面目そうなミレニカと面倒という言葉が結びつかず、エリリアナは思わず軽く笑ってしまった。彼は苦笑を浮かべつつも、身体を引いてエリリアナを自分の席へと促す。
「書類に待ち時間に審査にと……考えるだけで叫び出したくなるほどには面倒ですよ」
「それは確かに面倒かもしれませんね」
心底うんざりとした声音を出すミレニカに、エリリアナは小さく笑いながら、彼が引き寄せた椅子に腰かけた。ミレニカは資料の山をいくつか纏め、エリリアナの目の前と自分の前に空間を開ける。
「そうだ、幾つか私には分からない点がありまして……ご迷惑でなければお知恵を拝借願えませんか?」
彼女の背後から自席へと移動したミレニカが、本を受け取りながら彼女に尋ねる。正直、彼女は誰かに教えられる程知識があるわけではないのだが、彼は彼女以上に手さぐりなのだろう。文殊の知恵の精神でいいか、とエリリアナは小さく頷いた。
「お役に立てるかは分かりませんが、私に出来る範囲でしたら協力させて頂きます」
「心強い限りです」
彼女の言葉に、ミレニカは嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見て、貴族的な微笑ではなくて、朗らかな笑顔をよく見せる人だなと、エリリアナは思った。
ミレニカは細かく注釈のつけられた手帳を開き、エリリアナに魔術陣の基礎知識で不明な点を尋ね始める。
彼は魔術師ではないと言うが、質問は非常に的確で、手帳には自学とは思えないほど要点が過不足なく纏められており、彼の有能さがうかがえた。
(仕事上必要とはいえ、よくここまで調べられるなあ。私より書き込みぎっしりじゃない)
ミレニカが学んでいるのは本当に基本的な部分だった為、エリリアナでも大部分は解説が出来た。うやむやだった箇所は自分のノートを参照して答えを導き、それでも分からない箇所は今後の課題にさせてもらう。
エリリアナも基本的には自学自習なため、抜けていた点がぽろぽろと出てきて、有難いやら情けないやらだ。
まるで友人と受験勉強でもしている気分だ、とエリリアナは懐かしく思った。
(そういえば、誰かと学ぶなんて、イシュワルト様が幼い頃以来かも)
勉学など嫌だと、散々逃げ出そうとする主を諌める為、彼の隣で共に教えを受けた日々を思い出す。
ふと自分のかつての主を想い、エリリアナは胸が締め付けられた。唇を噛み、此処にはいない主を脳裏に浮かべて目を伏せる。
「エリリアナ嬢?」
そんな彼女を訝しんだのか、ミレニカが彼女を呼ぶ声がエリリアナを現実へと引き戻す。
「失礼致しました。少し考え事をしてしまいまして……」
軽く頭を下げれば、ミレニカは微笑を浮かべたまま首を振った。
「こちらこそ、貴重な休日にこれほど時間を取らせてしまい、申し訳ありません。よろしければ、何かお礼をさせて下さい」
「い、いえ。私こそ至らない点ばかりで……。勉強不足な箇所が分かって、逆に助けて頂きました。ありがとうございます」
閉じられた魔術書を渡されながら、エリリアナは礼を言う。
そんな彼女に、ミレニカが目を細めた。
「――やはり、聞いていた通りの御方だ」
「へ?」
ミレニカは眼前で手を組んでいるから口元は見えないが、機嫌を損ねたと言うよりは可笑しく思っているような響きだった。
エリリアナが訳も分からず、間の抜けた声を上げると、彼は今度ははっきりと口角を上げる。
「近くに書記官が使う休憩所があります。少しそちらでお話し出来ませんか?」
にこりと笑うミレニカを前に、エリリアナは戸惑った。
特に腹黒いものを感じるわけではないが、エリリアナはあまり人を見る目がない。と言うより、裏を読むことが出来ない。だから、彼が今どう感じているのかも、何を狙っているのかも察することは出来なかった。
普段であれば、特に気にすることなく了承していただろう。休憩所ならば人目もあるし、貴族の娘が独身男性と二人きりになるなど、と批判されることもない。
しかし、エリック・デオ・ミレニカは、王太子が渡した婚約者候補のリストの内の一人だ。
(でも……エーベルハルド様の話を知っているのは、多分クリスベル侯爵だけ。変に勘ぐるのも、どれだけ自意識過剰だよって話だよね)
ちらりと視線を上げれば、ミレニカは相変わらず笑みを保っている。
「……魔術書の返却がありますので、短時間でよろしければご一緒させて頂きます」
「ありがとうございます」
ミレニカはエリリアナの承諾を得て立ち上がると、手早く手帳だけ掴み、彼女の椅子をタイミングよく後ろに引いた。
彼女が魔術書を両手でしっかりと抱えているのを見て、彼はエスコートの為に一瞬持ち上げた手をすぐに下ろす。
貴族にありがちな形式重視なところがないあたり、素直に有難いと彼女は思う。
彼はゆっくりとした速さでエリリアナの前に出ると、扉を開けて彼女を廊下に出し、そのまま休憩所へと先導した。
数分ほど歩いた先に、二部屋分の大きさがあるオープンスペースがあった。
椅子と机が五セットほど、充分な間隔を空けて置かれており、廊下と広間の境界線部分に設けられた衝立の奥には、メイドが二名待機している。
王城に点在する談話室や休憩所には、このように二名一組にして使用人が配置され、利用者に簡単な飲み物を提供していた。
今は夕方も夜に近い時間であり、休憩所に利用者は見られない。
ミレニカの頭ほどの高さに設けられた大きな窓からは夕焼けの光が落ちてきており、室内灯と合わせて部屋をほのかな朱色に染めていた。
ミレニカはメイドから離れた壁際の席にエリリアナを誘導すると、メイドに向かって片手を上げる。やってきたメイドに各々飲み物を告げ、彼女が小さな菓子を置いて立ち去るのを待ってから向かい合った。
「あ、可愛らしい」
置かれた小菓子は、メレンゲを絞り出したクッキーのような見た目をしており、淡い桃色とクリーム色をしている。
「此処は書記官が主に利用するせいか、城内でも珍しく甘味が付くのです。糖分を取ってその分働けという事だろうと、私たちは解釈していますね」
「そんな、純粋に労わりの意味ですよ、きっと」
冗談めいて言うミレニカに、エリリアナは思わず笑ってしまった。彼女が笑うのを見て、ミレニカも息を吐く。
変に緊張している彼女を気遣っての言い回しだったのかもしれないと、彼の表情を見て思った。
(よく気が回る方だわ)
エリリアナは、メイドが運んできた茶器を手に取りながら、感心するように彼を眺める。
そういえば、最初は中央に置かれていた菓子の皿も彼女の方に寄せられているし、体格差で彼女を圧倒しないよう、彼は深く椅子に腰かけている。エリリアナもそうだが、文官は浅めに座ることが多いとされているので、意図的にその体勢を取ったのだろう。深く腰かけて綺麗な姿勢を保つのは、意外に辛いと彼女は思う。
「……ありがとうございます」
「? 私の方こそ、無理を聞いて頂いて礼を言う立場ですよ」
彼女が礼を言った理由を分かっていなそうなミレニカに、エリリアナは笑みを深めた。
変に穿った見方をした自分が情けないと、彼に対し申し訳なく思う。気持ちを切り替えようと、エリリアナは僅かに花の香がする茶を口に含んだ。
「――やはり、エリリアナ嬢は噂に違わぬ御方ですね」
「噂、ですか?」
茜色の茶から視線を外し、ミレニカを見る。
そういえば、初対面の時に『噂はかねがね』とか言っていたようなと思い出す。
「それは、破天荒だとかそういった類の……?」
「いいえ、違います」
彼を見つめるエリリアナと逆に、苦笑したミレニカは、自分のカップに視線を落とす。それはまるでこの先を続けていいのか悩んでいるようだったが、一度目を瞑ると、彼は彼女に視線を戻し静かに口に出した。
「失礼ながら、エリリアナ嬢は庶子でいらっしゃるとお聞きしています」
「ええ、トゥルク現当主は母違いの姉に当たります」
特に気にすることなく肯定すれば、ミレニカは若干苦笑いに近い表情で「私もなのです」と続けた。
「手続きさえすれば、嫡出子と同様の権利が貴族であっても認められる、この国の制度は素晴らしいと思います。庶子に爵位の相続権まで与える国は多くありませんから」
彼の表情は、悲嘆するでもなく憤るでもなく、不思議なほどに『普通』だった。
「しかしそれでも、待遇が同じかと言えばそうではありません。当然のように、庶子は疎まれ冷遇される。片親の地位が低い場合が殆どですから、仕方のない事なのかもしれません」
権利上は同等でも、『妾腹のくせに』と陰口を叩く者が少なくないことは知っている。
エリリアナも露骨に見下されることがあるし、正妻もいないくせに愛人にと誘われたこともある。
基本的に貴族の庶子は、家や家族との結びつきが弱く、実家の援助が見込めない。それは婚姻に様々な取引や契約を持ち込む貴族社会においては致命的だ。
「私には八歳年下の弟がいますが、彼が生まれる前に、王の認可の下私が次期当主として指名されたため、相続権は私にあります。それでも――」
そこで、ミレニカは言葉を切った。
エリリアナはここまで殆ど個人単位で働いてきたし、姉であるアリナーデが実の妹以上に擁護してくれた。だから、どれほど陰口を叩かれようと蔑まれようと、心が揺らぐことはあまりなかった。何を置いてでも優先すべき主がいたことも、大きい。
しかし、ミレニカは何百といる書記官の中に身を置いてきたのだ。当然、僻みや妬みは避けられなかっただろう。
殆どの貴族は、身分なり出自なり、一度『下』と見做した者に本当の意味でこうべを垂れることはない。書記官の大多数は貴族だから、優秀であればあるほど妬まれる。
彼の立場を想像し、エリリアナはきゅっと眉を寄せた。
だが、ミレニカは先ほどまでの様子が嘘のように朗らかに微笑んだ。
「ですから、エリリアナ・デオ・トゥルク嬢のご活躍は励みになりました」
「はい?」
告げられた言葉に、エリリアナは思わず口調も忘れて聞き返した。
「後宮資料の改良に、異例の王子付きへの抜擢。王太子殿下のお覚えもめでたく、あのドナウアー宰相の秘書官でありながら魔術陣の特別研究生でもある」
「……それは、周りの方々に恵まれたからです」
「勿論、それもあるでしょう。けれど、その躍進に関わらず驕ることのない勤勉な方だと聞き及んでいます」
「その通りでした」と笑うミレニカに、気が抜けなかったのは状況が許さなかったからなんだけど、と彼女は思った。
エリリアナは、全てが借り物だった。
名前も、身分も、恐いくらいにとんとんと進んでいった立場も。そんな中で自己を保つには、その借り物に見合う実力を付けるしかなかったのだ。
主であるイシュワルトにも、姉であるアリナーデにも、恥はかかせたくなかった。
今はそれに、上司であり師であるカールハイツが加わったけれど、彼女の原動力は昔から、大切な人々に幻滅されたくないという想いによるところが大きい。
勤勉と言われるには動機が純粋ではないので、エリリアナは苦笑を浮かべて否定する。
「買いかぶりすぎですわ。面白おかしく話が膨らんでいるだけです」
彼女がそう軽く流せば、ミレニカは微笑みながら小さく首を振った。
「仮にそうであっても、一度お礼が言いたかったのです」
「お礼、ですか……?」
礼に繋がる何かがあったとも思えず、エリリアナは首を傾げた。そもそも、ミレニカとはこれが二度目だ。
「後ろ盾も出自も使うことなく、妾腹という謗りとて歯牙にかけず邁進されるトゥルク令嬢の話を聞くたび、失礼ながらも同じく庶子の立場を持つ身として、鼓舞される思いでした」
目を見開くエリリアナの前で、ミレニカが片手を差し出し続けた。
「――有難うございます。そして、この度共に働けることを嬉しく思います」
差し出された手を見て、エリリアナは固まった。
エスコートのためでもなく、何かを差し出す為でもなく、相手を認めるからこその手。男性からこれを向けられるのは、どれほどぶりだろうか。
「……こちらこそ、末端の身とはいえご一緒できることを光栄に思います」
エリリアナは彼の大きな手を握り、自然と笑みを浮かべた。
彼の温かみのある淡褐色の瞳が細められ、唇が弧を描く。
定刻を告げる鐘の音が響くと同時に、どちらからともなく手を離し、その場に立ち上がった。
「それでは私は、エリリアナ嬢と知識面でこれ以上差が開かぬよう、資料室に戻ることにします」
「ミレニカ様にはすぐ追いつかれそうですけれど、私も負けないよう精進致しますわ」
そこで、二人は別れた。
エリリアナは図書館に向かう途中、気恥ずかしいような嬉しいような複雑な思いに顔を赤くし、顔を手で扇ぐ。
(ものすごくハードルを上げられてしまった)
ミレニカの言葉を思い返し、理想と現実のギャップに幻滅しなければいいんだけど、と彼の笑顔を思い浮かべる。
「……勉強しよう」
すぐにやってきた焦燥感に、エリリアナは身を震わせ、魔術陣の教本をきつく抱きしめた。




