24 共同戦線・2
小物臭のする笑顔を浮かべたエリリアナは自分の計画をクラエスに話し、彼はしばらく横を向いて思案した後、頷いた。その結果、現在二人は騎士団棟に向かって並んで歩いている。エリリアナは魔術書を抱えてほくほく顔、クラエスはいつも通りの無表情だ。
共同戦線などと格好つけた表現をしたが、彼女に大きな策略など巡らせられるわけもなく、その内容は至極簡単なこと。
エリリアナは認可された魔術師ではないので魔術書の持ち出し権限はなく、自習が出来ない。クラエスは王太子の名の下に剣や鍛錬場の利用が一時制限されていて、鍛錬が出来ない。なお、自前の剣は全てエーベルハルドに没収されたらしく、投げナイフしか手元にないのだという徹底っぷり。
(エーベルハルド様の本気が伝わってきて、クラエス様に手を貸すのは心苦しかったけど……、ごめんなさいエーベルハルド様! でも私も魔術書が欲しかったんですよ!)
多少の引け目を感じながらエリリアナが提案したのは、魔術師でもあるクラエスがエリリアナの代わりに魔術書を持ち出し、エリリアナがクラエスの代わりに剣及び鍛錬場を手配する、という実に分かりやすい取引だった。
直接的でないとはいえ、本来ならば王太子の命令に背くなどと宮仕えの身としてあってはならない。だが、書類確認程度とは言え、王都全域を守護する魔術陣の事案に関わるのだ。付け焼刃だとしても今は知識が欲しかった。
先ほどクラエスが予定通り魔術陣の基本書を借りてくれ、次はエリリアナがクラエスに剣及び鍛錬場を手配する番だ。ただの女官であるエリリアナにそんな手配が出来るとは普通思わないだろうが、彼女には彼女なりの伝手があるということを、長い付き合いのクラエスは充分知っているのだろう。恐らくは、その伝手の正体も。
「……そういえばクラエス様」
長い廊下を歩きながら、エリリアナはふと思い出して隣を歩くクラエスを見上げた。
「エーベルハルド様が此処までされるなんて、どれほどお休みを取られてなかったのです?」
いくら腹心に休ませる為とはいえ、護衛騎士の剣まで取り上げるとは相当だと思ったエリリアナは、素直にクラエスに尋ねた。クラエスはちらりと切れ長の目でエリリアナを見やったが、すぐに視線を進行方向に戻してしまった。
「……先の、ローゲンシュットの祝日以来かと」
「ローゲン――え!?」
ローゲンシュットの祝日とは、端的に言えば救国の英雄の生誕日だ。この国の人々は海による自然災害と魔物被害という厳しい環境に置かれているせいか、明るくとも勤勉な国民性と評される。その一方で、この近隣では一番祝日が多い国でもあるのだから、歴代の王達の飴と鞭を使い分ける才能は見事だったのだろう。
「それは……一月半前ということでしょうか?」
ローゲンシュットの祝日は、およそ一か月と二週前。この世界では一週が七日、一月は五週である為、一か月とは三十五日で、一月半とは四十九日だ。いくら護衛騎士とはいえ、その間無休だったというのは仕事中毒という言葉すら不適切なのではないだろうか。
(そりゃ、エーベルハルド様も強制的に休ませるわけだわ)
共同戦線などと言って、彼の休養を取り上げるべきじゃなかったかもしれない、とエリリアナが自分の提案を多少後悔していると、クラエスが横目で彼女を見つめて――否、睨んでいた。どうやら彼女の胸中はバレバレのようだ。
「共同戦線、信じています」
「……ハイ」
しっかりと釘を刺された彼女は、小さく苦笑して、本を抱きしめた。そのまま二人は、特に気まずくなるわけでもなく無言のまま騎士団棟へと向かった。
* * *
前回会った、子犬を連想させる騎士の横を抜け、主城を出て騎士団棟へ繋がる渡り廊下へ出る。以前同様に休暇中の騎士たちが各々鍛錬を続けており、あちこちから剣戟の音や掛け声が聞こえてくる。
「えっと……規則が変わっていなければ、マックス様は確か本日お休みのはず……」
エリリアナは本を抱きしめながら、見知った元護衛騎士の姿を求め、辺りを見回した。
基本的に王城勤務の人々は二週で三日の休みがある。多くの場合は上司や同僚たちとの調整によって休日が割り振られるが、極度の肉体労働である騎士たちは、四日に一度の休暇制度を採用していた。したがって、四日前に自己鍛錬を行っていた元護衛騎士かつ元同僚のマックスは、本日も休みのはず。
エリリアナの伝手とはマックスで、彼に頼み込んで鍛錬用の剣を貸し出してもらうつもりだった。
問題は、どうやってマックスを呼び出すかだ。
「外には見当たらない……となると、棟内かしら。クラエス様、恐れ入りますが――」
「エリリアナ殿」
後ろを歩いていたクラエスに、恐らく棟内にいるであろうマックスを呼んで来てもらう為振り返ると、彼は敷地内の一点を見つめながらエリリアナを呼び止めた。
エリリアナが何だろうと彼の視線を追いかければ、そこには壁に向かって木刀を構えたまま静止するマックスの後ろ姿があった。
「マックス様?」
広く取られた空き地の隅、城壁のすぐ近くで
身動きの一切なく武器を構える彼に、エリリアナは声をかけていいのか迷った。しかしそんな彼女を尻目に、クラエスは一歩足を踏み出すと、足元に落ちていた石を拾い上げ、右手に握りしめる。その様子はあくまで普段と変わらぬ無表情ぶりで、エリリアナは首を傾げた。
そんな彼女の目の前で、クラエスは突然腕を大きく振りかぶり、その卵大の石をマックスに向かって投げつけた。
「!?」
クラエスの唐突な行動に声も上げられずにいる彼女の前で、こちらに背中を向けていたはずのマックスは俊敏な動きで体の向きを変え、凄まじい速度で迫っていた石に剣を振りぬき叩き落とす。
木と石のぶつかり合う高い音が鍛錬場に響き、険しい顔でマックスが顔を上げた。
「良い腕――じゃなくて、クラエス様!?」
我に返ったエリリアナが叫び声を上げるが、クラエスはあくまで平然とした顔で佇んでいる。
二人を以前から知っているエリリアナは、彼らを旧知の仲だと思っていたが、実は間違いだったのだろうか。慌てる彼女だったが、すぐにマックスが犯人に気付いて駆け寄ってきた。
喧嘩にでも発展したらどうしよう、とエリリアナが身構えながらやって来るマックスを見守っていると、彼は見慣れた快活な笑顔で右手を上げた。
「おーい、エルルゥ殿にクラエス、久しいな」
「久方ぶりです、マクスウェル」
「せ、先日ぶりです、マックス様……」
石を投げつけられたマックスも、投げつけたクラエスも特に目立ったリアクションをするでもなく、普通に挨拶を交わし始める。その様子にエリリアナは一人で戸惑い、二人を交互に見たが、彼らは全く気にしている様子ではない。騎士の世界には彼女の分からない何かがあるのかもしれない。
「で、どうしたんだ、二人揃ってだなんて珍しい」
笑顔のままそう切り出したマックスに、エリリアナが口を開く。
「えっとですね、実は鍛錬用の剣を一本お借りしたくて、マックス様にお願いに来たんです」
「剣? エルルゥ殿が?」
「ええと……護身術を以前教えて頂きましたでしょう? そろそろ剣の方も学ぼうかな、と」
彼女が一応の口実として考えていたことを伝えれば、マックスは露骨に顔を顰めて窘めるような視線を彼女に向けた。
「貴女はまたそういうことを……。いいか、エルルゥ殿。本来剣とは騎士の領分。以前はイシュワルト殿下の警備という理由があって、仕方なく、仕方なーく護身術を教えたが、今のエルルゥ殿は守られる側の存在だ。大人しく周りを頼りなさい」
「マックス様、そこをなんとか……」
「なんとかじゃ――ああ、そんな目でこっちを見ないでくれ、こら!」
エリリアナが見上げるように懇願の目を向けると、マックスは彼女と視線を合わせたままじりじりと後退する。彼が一体どんなフィルターを搭載しているのかは不明だが、彼の目には小柄な彼女がか弱く見えるらしい。見上げながら真摯に『お願い』した際の勝率はかなり高い。もっとも、女性の平均身長が日本人よりもかなり高く、体格も割と立派なこの国からしてみたら、平均的な日本人は殆どが『かなり小柄』に分類される。
それはさておき、彼の善意を利用しているようで多少の罪悪感を抱くが、背に腹は代えられない。
「大丈夫です、今日は少し持ってみたいだけなので。マックス様の見てる前でしたら、怪我もしないでしょう?」
「そりゃ勿論怪我なんてさせるはずもない、が……いや、駄目だ、駄目だぞエルルゥ殿」
マックスはにじり寄る彼女から視線を逸らしながら、大きな身体を縮めて足を後ろに下げ続ける。
こうなったら最後の手段だ、とエリリアナはつばを飲み込んだ。
「――マックス兄様、お願いできませんか?」
「任せろ、妹よ!」
エリリアナが発した『キーワード』を耳にした瞬間、マックスはいい笑顔で親指を上げ、颯爽と騎士団棟内へ駆けて行った。
残されたエリリアナは、自分の発した言葉の気色悪さに鳥肌が立っている。可愛らしい妹の真似など彼女には似合わないと自分で思っている為、極力マックスを兄と呼ぶ事態は避けているのだが、それ故にそれをした際にマックスが彼女の我侭を聞いてくれる確率は段違いに高かった。精神力と欲望を引き換えにした諸刃の剣である。
「以前から思っていましたが……マクスウェルのアレは新手の病か何かなのでしょうか」
「あはは……」
病だとしたら、『疑似兄病』とか『仮想兄妹病』とかそういったものだろうか。そんな失礼な事を考えながら、エリリアナは乾いた笑いを響かせた。
しばらくして、嬉々とした様子のマックスが足取りも軽く戻ってきた。その手には一本のシンプルな剣が握られている。
「一応軽い剣にしておいたけど、女性の手には充分重いから気を付けてくれよ」
非常に心配そうな表情を浮かべたマックスが、柄に収められた剣をエリリアナに渡す。彼女が恐る恐る剣を受けると、ずっしりとした重さが手にかかった。
長さは一メートル弱ほどあり、何か彼女の知らない技術か素材が使われているのか、重さは一キロほどで想像よりは重くない。
「よっと」
マックスが両手を上げ下げしながらはらはらと彼女を見守るなか、エリリアナは剣のグリップを握り、両手で構えてみた。刀身に殆どの重みがあるせいか、剣は先ほどよりも遥かに重く感じられた。エリリアナは再び抱えるように剣を持ち直すと、息をつく。
「……重い、ですね。これを軽々と振り回せるだなんて、やっぱり騎士様方は凄いです」
まして彼らは、一日中帯剣した上に、有事の際は命を懸けて切り結ぶのだから、日頃の鍛錬は並大抵のものではないのだろう。今まで以上の敬意を以って二人を見上げれば、クラエスは常の無表情で彼女を見下ろし、マックスは頬をかいた。
「職務ですので」
「まあ、それで誰かを護れるなら安いもんだよ」
両者それぞれの返答に、エリリアナは思わず微笑んだ。
「とにかく、充分だろう? エルルゥ殿、剣を返し――」
「はいどうぞ、クラエス様」
エリリアナはマックスに剣を取られる前に、さっさとクラエスに剣を渡した。受け取ったクラエスは頷き、口を開く。
「有難う御座います、エリリアナ殿」
「え!? なんでクラエスに――あ」
マックスは二人のやり取りに目を丸くしていたが、クラエスの帯びた剣が紐でがんじがらめにされているのを見て、呆れたような表情を浮かべた。
「クラエス、お前またエーベルハルド様に鍛錬禁止令出されたのか? 懲りない奴だな、本当に」
「……以前の貴方と同様です」
「いや、俺は殿下に休めって言われた時は素直に休んでたぞ。……イシュワルト殿下とエルルゥ殿に凄みのある笑顔で『休んで』って言われると断れなくてさ……」
どこか遠い目をして横を向くマックスを横目に、クラエスはじっとエリリアナを見つめている。深い蒼色の瞳を真っ直ぐに向けられても、エリリアナは彼が何を伝えたいのか分からなかった。
「?」
一応約束は果たしたはず、とエリリアナが目を瞬かせていると、クラエスは彼女から視線を外してマックスに向けた。
「マクスウェル、鍛錬の相手を」
「は? お前を相手にするのは確かに良い鍛錬になるけど――いや、駄目だ。エーベルハルド様に俺まで睨まれるじゃないか」
鍛錬に誘われたマックスはあっさりとそれを断ったが、クラエスはそこで引かなかった。じっと再びエリリアナを見下ろしてから、口を開く。
「――実は先日、エリリアナ殿に婚姻の申し出を行いました」
「はあ!?」
「はい!?」
突如クラエスが吐き出した言葉に、マックス、エリリアナの順で叫び声を上げる。
マックスがこれ以上ない程に目を見開いて、本当かと問うようにエリリアナを見てくるが、彼女は言葉も出せずにひたすら首を振ることしか出来なかった。
「一応、彼女の兄を自称する貴方にも報告をと」
「ク、クラエス様、何をおっしゃってるんですか!?」
未だにクラエスの発言が与えた衝撃から抜け出せずにいるエリリアナは、至って平然としたクラエスを止めようと彼の腕を引っ張るが、彼は何故か彼女から視線を外さない。
無口でクラエスの考えが読めたことなど殆どないが、基本的に真面目で誠実なクラエスからまさかそんな言葉が飛び出してくるなどとは考えもせず、焦りと混乱に加え、二人の騎士からの全く異なる視線に晒されて顔に熱が集まった。
そんな彼女をどう捉えたのか、やけに絶望したような表情でマックスが彼女とクラエスを交互に見つめてくる。
違いますから、そうエリリアナが否定しようとした時だ。
「ゆ、ゆ、許さああんっ!」
マックスが突然叫んだ。
その声量にエリリアナがびくりと身体を震わせると、クラエスがまるで彼女を庇うようにマックスとの間に立ち塞がった。
「何でいきなり結婚までいくんだ、二人がそんな……そんな仲だったなんて一言も聞いたことないぞ!?」
マックスが言外に「兄に黙ってるだなんて!」という響きを持たせて言葉を荒げた。
「そういった仲ではありませんから」
「そうか良かった――じゃない、だったらどうして結婚なんて話になる!?」
クラエスの返答を聞いてそこまで言い切った後、マックスが息を飲む音が聞こえてきた。
「まさか……貴族に付き物の政略結婚とかいうやつか……?」
唾を飲み込む音まで聞こえてきそうな程、マックスは恐る恐ると言った様子で言葉を重ねる。それに対し、クラエスは無言で頷いた。
さすがに否定せねばと、エリリアナがクラエスの広い背中から顔を覗かせた瞬間、マックスが怒りの表情で剣を構えた。
「反対だ! 断固反対する! イシュワルト殿下にもエルルゥ殿をくれぐれも頼むと言われている以上、自由恋愛以外は絶対に認めん!」
「では、武力行使で」
「え、ちょ、お二方!?」
二人はお互いに言い合うが如く、呆気にとられるエリリアナを置き去りに剣を交わした。
彼女を巻き込まないようにとの配慮か、二人は高らかな剣戟の音を響かせつつ、彼女から離れた場所へと移動していった。
最初こそ、止めた方がいいのか、それとも誰かを呼びに行くべきなのか、考えを巡らせていた彼女だったが、すぐに二人が楽しげな表情を浮かべていることに気が付いた。マックスは明らかに不敵な笑みを、クラエスはその瞳を輝かせて。
(ああ、私は単なる口実なのね。びっくりした)
エリリアナは安堵の息を漏らし、辺りを見回す。丁度いいことに、二人の様子が見れる位置に日影があり、小さな木箱が置かれている。彼女はそこまで移動すると、軽く木箱の上を払ってから腰をかけた。
「……まあ、楽しそうで何よりだわ」
ぶつかり合う様な接触から、時を遅くしたような剣舞と呼ばれる動きに変わっている二人を見て、エリリアナは苦笑する。以前護衛騎士の同僚が、自分より腕の立つ相手と剣を交わすのが何よりの鍛錬であり、楽しみだと言っていたのを思い出し、ごもっともだと肩を竦めた。剣を交わし合うマックスとクラエスは、何処から見ても真剣でいて一瞬一瞬を楽しんでいるように見えたからだ。
一流と呼ばれる二人の動きに目を奪われつつも、エリリアナは手元の魔術教本に手を伸ばす。真剣勝負と異なり、鍛錬による試合は長い。二人が満足するまで、勉学に勤しむ時間はたっぷりあるだろう。エリリアナは本を開き、ペンを握った。
* * *
数時間後、エリリアナはクラエスと共に資料室へと向かっていた。
図書館および魔術棟には近寄れないため、静かな環境と広い机、ついでに魔術陣強化の過去資料も手に入れるには、中央書記室近くの資料室が一番勝手がいい。
マックスの誤解――と言っても、流した汗と一緒に殆ど忘れられていたが――も無事解け、エリリアナは気分よく廊下を歩いていた。腕の立つ騎士仲間と鍛錬でき、マックスはおろかクラエスとて心なしか満足そうだった。そんな二人を見ていれば、彼女だって嬉しい。
これからクラエスは魔術訓練をするらしいのだが、その前に彼女を部屋まで送ってくれると申し出た為、代わりに資料室まで同行をお願いし現在に至る。
「でも、びっくりしました。クラエス様があんな冗談おっしゃるなんて」
マックスの様子を思い返し、苦笑を浮かべる。
「ご迷惑を」
「いえ、お二人の素敵な剣舞も見れましたし、マックス様も分かって下さいましたし、むしろ役得でした」
くすくすと笑いながら廊下を歩けば、クラエスも若干すまなそうだった気配を消して前を見る。
その後は資料室の近くに来るまで、エリリアナが一方的に話を振って盛り上がっていた。つい日本人に似た毛色と寡黙さをもつクラエスには口が滑ってしまう彼女だが、クラエスに迷惑そうな顔をされないのをいいことに、取りとめのない話を続けていた。
しかし、資料室の扉が見えてきた辺りで、聞くばかりだったクラエスが口を開いた。
「……エリリアナ殿」
「はい、クラエス様?」
改まって呼ばれた自分の名前に、エリリアナは首を傾げた。
自然と二人の足取りは止まり、向かい合う。
「私は」
クラエスが、資料室に繋がる扉の前で、ぽつりと言葉を漏らした。人気のない廊下に、彼の低い声がよく響く。
「……私はこの通り愛想もなく、他者との付き合いも得意ではありません」
廊下の窓に視線を合わせ、どこか遠くを見るクラエスに、エリリアナは何も言わず耳を傾ける。
「この性格が周囲を不快にさせることも承知しています」
それは違うと否定の声を上げようとしたエリリアナを、クラエスが目で制した。
「エリリアナ殿のような存在はとても稀有で、だからこそ有難いと、そう思っています」
「そんなこと……私の方こそ、クラエス様にはお世話になってばかりですし」
彼女の言葉に、クラエスは顔を動かして彼女を見下ろした。
あまり表情を動かさず、口数も多くはない彼だが、エリリアナがそれを不快に思った事は一度もない。今日の発言には少々度肝を抜かれたが、それもマックスを煽る為だと分かっているし、何度もエーベルハルドからの戯れから助けてくれた優しさはその程度で霞むものではない。
エリリアナは、彼の『仮面』と評される整った顔を見上げて、口角を上げた。
「クラエス様とお話し出来て、いつも私一人が楽しませて頂いております。こちらこそ感謝に尽きぬ思いですわ」
クラエスは、それを聞いて僅かに視線を落とす。
しばらくそのまま彼女から視線を外した後、改めて彼女の瞳を見つめた。綺麗な蒼色の瞳が、廊下にかかる影の中でも煌めいて見える。
「――先ほどの話は、虚言ではありません」
「え?」
彼のどこか真剣な様子に、エリリアナは笑みを消して聞き返した。
僅かに目を細め、クラエスは続ける。
「殿下が貴女の『話』をされた際、自分から提案させて頂きました」
「提案って、まさか」
最初にエーベルハルドから見せられた夫候補の紙には、合計で四名の氏名が書かれていた。記憶に間違いがなければ、その下には括弧付けでクラエスの名まで記されていたはずだ。彼の提案とは、その候補に自ら名乗りを上げたということだろう。
「私ごときに殿下の御心を推し量ることは出来ませんが、貴女の重荷になっていることは明らか。私は……エリリアナ殿に感謝と敬意を抱いています。私の立場が、少しでも貴女の負担を軽減出来るのならば」
「クラエス様……」
智謀を得意とするエーベルハルドは、他人には理解のできない行動を取ることも少なくない。常識に重きを置くクラエスだから、きっと今回の政略結婚騒ぎでも一度は王太子に異を唱えたのだろうが、結果的に押し切られたに違いない。それでも彼女を気遣って、彼は人身御供に立候補してくれたのだろう。エリリアナは不思議とそんな気がした。
(義理堅い方だから)
口数の少ない彼にしては、相当な長文で語られた内容を、エリリアナは頭の中で反芻する。
そして彼女は、驚きもよそに自然と笑みを浮かべた。
「お気遣いありがとうございます、クラエス様。私はもう開き直りましたから、大丈夫ですよ」
「……」
エリリアナの言葉に、クラエスは僅かに目を細める。責めるでも納得するでもなく、彼の瞳はあくまで静かだ。
「ですが、もし……もしも迷う事があったら、相談だけ乗って頂いてもよろしいですか?」
彼女が恐る恐るそう尋ねれば、クラエスは彼女の瞳をしばらく見つめた後、僅かに目元を緩ませた。
「――それが力になるのでしたら」
「勿論です! ありがとうございます、クラエス様」
笑う彼女を目で捉えながら、クラエスは資料室へとつながる扉に手をかけ、彼女のために奥へ押し開いた。彼の前を通り抜けて室内に入ると、エリリアナはすぐに軽く頭を下げる。
「今日はお世話になりました。協力しておいて何ですけれど、しっかりお休み下さいね」
「貴女も」
クラエスの静かな声を聞きながら、エリリアナは彼に小さく手を振った。クラエスは頷くようにゆっくり瞬きすると、扉を閉めて廊下の奥へと消えて行った。
(……ちょっとびっくりしたけど、相変わらずだったな、クラエス様)
知らない内に彼女をフォローしていてくれたクラエスを思い、エリリアナは微笑みを浮かべる。支えてくれる人がいるのだから頑張らなくては、と決意も新たに視線を室内へと向けた彼女は、そのままびしりと固まった。
書架に囲まれ、頑丈な机が立ち並ぶ中、微妙に見知った顔が彼女を見つめていた。




