23 共同戦線
どうしよう。
エリリアナは何度目とも知れぬ深いため息をつき、肩を落としながら城内を歩いていた。
着慣れた女官服ではなく、簡素だが上質な私服を身につけた彼女は、現在行く先も決めずに城内をさ迷っているところだ。
「カールハイツ様、手回しまで完璧過ぎじゃありませんかね……」
吐いた息が目に見えたなら、それは間違いなく鉄アレイ級の物音を立てて床に落下していることだろう。それくらい、気分が重い。
通い慣れた通路は前を見ていなくても充分歩けるほどで、彼女は暗い気分のままに足元だけ気にしながら歩みを進める。ちなみに、同僚とも言える城仕えの者達と何度もすれ違っているが、皆気を遣って彼女を避けていた。
「……どうしよっかなぁ」
歩くたび、深い青地に白のレース飾りが付いた靴が見え、少しだけ気分を浮き立たせる。可愛いお気に入りの靴は、どんな魔法よりも強力な癒しの術だ。それはどの世界に行っても変わらない。
ふと顔に風が当たり、彼女の黒髪を吹き乱した。
「あれ? いつの間にこんな所に……」
顔上げて、換気の為に不定期で開けられていた窓から外を見れば、日本なら入園料を取れるほど見事に整備された中庭が広がっている。目と鼻の先にある大きな扉を開ければ、すぐにでも白い石階段を降りて踏み入ることが出来るだろう。今日は天気も良く、雲ひとつない青空が広がっている。
少しだけ、迷った。
今のエリリアナは、ゆったりとした袖を持つ白のドレスに、青の重ね地と白のレース飾りをあしらい、黒糸でデザインを引き締めた衣服を身につけている。当然の如くこんもりとスカートは膨らんでおり、動きやすくはないし、汚した場合の洗濯が大変だ。滅多に着ない、こうした高級ドレスは彼女が洗うわけではないけれど、性分のせいで気が引ける。
「……まあ、たまにはいいか」
落ち込んだときには、好きなことをするのが一番だろう。
エリリアナは迷いを捨て、日傘も持つことなく、扉を開けて中庭へと降りていった。
(噴水横のベンチで読書でもしますか。お腹が減ったら何か食堂に食べに行こう)
彼女はそう決めて、中庭の中央部にある大噴水ではなく、奥に隠れるように設置された小さな噴水に足を向けた。
プランを決めれば、気持ちの切り替えは早い。エリリアナはお気に入りの場所を思い浮かべ、表情を緩めた。
水瓶を持つ女性の石像から水が流れ込む、二段式の噴水の横には木のベンチが二基置かれ、背の高い植木が程よく光を遮る仕組みになっている。絶好の隠れ場だと思うのだが、花壇も近くになく、城からも若干距離があるせいか、そこにはいつも人がいなかった。もう少し花々に満ちた景観の良い休憩所は、絶好の密会場所として人気があるというのに。
綺麗に切りそろえられた植木の間を通り、エリリアナは目的地までやって来た。すぐ先にある植木の影に、蔦が絡みついたアーチで申し訳ない程度に形を保った、休憩所がある。
そろそろ右手に抱えた革張りの筆記帳と、風呂敷包みにした小物類も重く感じてきたことだし、少し腰を下ろしたい。エリリアナは足取りを速めて、垣根を曲がった。
「わっ!?」
全く無警戒だったエリリアナは、その誰もいないと思っていた場所に大きな人影を発見し、声を上げた。
その人物はベンチの一つに腰かけており、特に何をするでもなく、石像から流れ出る水を見つめている。
砂漠の砂のような色合いをした、V字の襟ぐりをもつ上着には朱の模様が縁取られ、黒の下衣は裾に白い模様が入っている。全体的に地味めいてはいるが、上質な衣をまとった黒髪の男性は、彼女に気付くとゆっくりと顔を向けた。
「クラエス様?」
騎士の甲冑を身につけていなかったため、気付くのが少し遅れたが、目の前にいるのは確かに王太子の護衛騎士、クラエスだ。
「エリリアナ殿」
今日の青空のような澄んだ蒼の瞳から送られる視線が、エリリアナの顔で留められる。
クラエスは、決して挨拶代わりに微笑んだりはしないし、そもそも無表情だ。どんな時でも声を荒げないし、感情を表に出さない。口さがない者はその整った容姿と無感情な様子から「人形のようだ」と言うけれど、エリリアナにとっては、『故郷』を連想させる短い黒髪を持つクラエスは、一緒に居て落ち着く相手だった。それほど、この国の人々は色素が薄く、茶ならともかく黒髪は少ない。
「此処でお会いするのは久しぶりですね。……本日はお休みですか?」
珍しい、その言葉をエリリアナは飲み込んで声をかける。
エーベルハルドの付き人は、王太子という身分にも関わらず護衛騎士ただ一人だ。いくら王太子が私室に戻った後の警備は、部屋回り担当の騎士に代わるとは言え、日中常に傍に控えるクラエスは、何時休んでいるのかと聞くのが怖いほどの働きぶり。エリリアナも侍女時代は似たような勤務状況だったが、襲撃を常に警戒しなければいけない護衛騎士ほど大変だったとは、さすがに思い上がらない。
「はい」
クラエスは、短くそれだけ答える。
(相変わらず、余計なことは一切言わない方だなぁ)
無口、無表情。クラエスを形容する時には必ず入る単語だ。
「クラエス様さえよろしければ、そちらにお邪魔しても構いませんでしょうか?」
クラエスが腰かけるベンチとは直角に設置されたもう一方のベンチを指差し、エリリアナは尋ねた。
「ええ」
「ありがとうございます」
軽く会釈し、クラエスの前を通って奥のベンチへ腰かける。
帳面を縛っていた紐をほどき、皮の装丁に挟んでいたペンを手に取る。いくら図書館から追い出されたとは言え、さすがに自習までは制限できまい。
ふ、と悪役くさい笑みを浮かべ、彼女は魔術陣について荒くまとめた筆記帳に視線を落とし、中身を確認していく。
そうして、どれ程手元に集中していただろうか。
「……捗りませんか?」
静かにかけられた声に、エリリアナは顔を上げた。気づけば、クラエスが深い蒼色の瞳を彼女に向けていた。クラエスが自ら声をかけるとは珍しい。
「表情が、あまり」
言われて初めて、彼女は自分がきつく眉を寄せていたことに気付いた。一体どのくらい凝視されていたのかは考えたくないが、空腹をまだ感じないあたり、最長でも半刻|《約一時間》程度かと彼女は当たりをつける。さすがにずっと凝視されていた訳ではないだろうが、居心地が悪い。
「えと……そう、ですね。魔術陣のことを自分なりに纏めてみたのですが、私にはまだまだ根本理解とはいかないみたいです」
深緑色の装丁がされた帳面を持ち上げ、エリリアナは苦笑いする。メモを取った内容自体は理解できる。だが、何故そうなるのかが分からない。物理公式を使って計算ができても、公式を証明することが出来ないように。
「宰相閣下に、師事されているのでは?」
クラエスが、僅かに不思議そうな響きを含んだ声で尋ねる。
「カールハイツ様はお忙しい方ですから。まず魔術教本を参照して、それでも理解に難があるようでしたら、お手を借りることにしています。今日は……その、図書館から追い出されまして……」
最後の部分を言い切ったと同時に、顔が熱くなる。公共の場から退場を命じられた経験なんて、生まれて初めてだ。それを人に伝えることは、その事実以上に恥ずかしい。
(なんかクラエス様には口が滑るというか……いつも平静に聞いて下さるから、というか、せいというか)
表情を変えず、常に落ち着いていて、無駄口も突っ込みも殆ど入れない、口の固い騎士。これ以上の相談相手がいるだろうか、いや、いまい。ただ、あまりに淡々としているせいで、下らない相談が出来ないところが唯一の欠点だ。それさえなければ、完璧なカウンセラーなのに、とエリリアナは残念に思った。もっとも、無口無感情で通っているクラエスを相談相手にしている人間は、城中でも片手で足りるほどしかいないけれど。
「そうですか。私に手伝えることがありましたら、何時でも」
「ありがとうございます、クラエス様」
案の定クラエスは表情を変えて彼女を笑うことなく、相槌を打った。更に手助けまで申し出てくれるとは、何ともありがたい。
嘲笑とかされなくて良かった、とエリリアナは安堵してクラエスを見て、ふと首を傾げた。
腕を組んでベンチに腰かけ、整った顔を動かすことなく噴水の水の流れを見つめる護衛騎士。甲冑はなくとも鍛え上げられた身体は充分威風を放ち、彼女のような一般人とは平常時ですら心構えが違うのだろうと思わせる。
(……なんだろう、何か違和感)
じっと、彼を見つめる。
先日王太子と現れてからクラエスとは会っていないが、それでも過去六年はほぼ毎日のように顔を合わせていたのだ。この動かない表情の中にも多少の差異を感じ取れる程には、クラエスに慣れていると言ってもいい。
「……何か?」
クラエスが、再度エリリアナに顔を向けた。
彼の言葉は短いが、別段不快に思ったわけではないと彼女は分かっている。
「いえ!」
それでも思わず否定して、いやここは、とエリリアナは口を開く。
「もし……もし、勘違いでしたら申し訳ないのですけれど……もしかしてクラエス様、何かお困りですか?」
特に彼が思い悩んでいる様子はなかったが、どことなく表情が精彩を欠いているように感じられた。
言われたクラエスはというと、見慣れぬ者には確実に判別できないほど僅かに、目を見開いている。
(あら珍しい)
クラエスの反応に、エリリアナは思わず微笑んだ。
「――顔に出ていましたか?」
返ってきた言葉は、彼女の問いかけを肯定した。クラエス自身は、表に出ているとは思っていなかったようだ。別に今も出てはいない。
「いいえ、私も確信はしていませんでしたから。……何か、私に出来ることはございますか?」
エリリアナが言えば、クラエスは握った手を口元にやり、少々言い辛そうに顔を逸らした。
「いえ……ただ、落ち着かないだけなので」
「落ち着かない?」
常に冷静沈着にしか外面からは思えないクラエスが、落ち着かないとは輪をかけて珍しい。無意識に食いついてしまった自分にも、彼女は気付かなかった。
「殿下から、少しは休め、と休暇を申し付けられた挙句、剣を封印されました」
「剣を封印、ですか? クラエス様の?」
騎士の剣を封じるとは、相当だ。
目を瞬かせて、エリリアナはクラエスの腰に帯びられた剣を凝視した。よく観察すれば、輪になった紐が柄にかけられ、先端は鞘に封蝋のような物で固定されているのが見て取れる。剣を抜けば、確実に紐か蝋かどちらかが切れる。
随分大雑把な、とその仕組みを思わないこともなかったが、きっと彼女には与り知らない高等な魔法とか働いているに違いない。そうでなければ、騎士の命たる剣が哀れ過ぎる。
「……でも、騎士団棟に行けば、予備の剣や木刀もありますよね? 鍛錬でしたら、問題ないのでは」
クラエスは、現代で言うところのワーカホリックの部類に属する。
滅多に休暇を取らず、取っても剣の鍛錬に明け暮れて、むしろ身体を酷使している。
侍女時代には、彼とエリリアナの休日が重なることもあった。度々この休憩所で偶然顔を合わせ、たまに興味本位のまま『鍛錬』とやらを見学したりもしたが、あれは鍛錬と言うより修行、もしくは罰か何かだった。
「殿下が伝令をお回しになりましたので、私の名では武器庫および鍛錬場の使用が禁止されています」
「……」
エリリアナは開いた口が塞がらなかった。
確かに、クラエスは休むべきだと思う。気の置けない乳兄弟として育ってきた王太子ならば、彼を休ませる為に多少強引な手だって使うだろう。
しかし。
エリリアナは、思わず声を上げて笑ってしまった。申し訳ない程度に帳面で口元を覆うが、声までは隠せない。
目の前では、突然笑い出したエリリアナを、クラエスが見つめてくる。
「す、すみません……っ、今止めますから……」
お腹が微妙に引きつっており、こみ上げてきた笑いと合わさって目が潤んでくる。
ついでに言葉遣いも多少砕けてしまったが、クラエスは侯爵家の者と言っても成人して子爵位という近しい身分を持つ者だし、侍従のような役目も兼任している彼とは色々立場も似通っていて、エリリアナは割と気を遣わずに済む相手だった。
しばらくしてエリリアナは、ふー、と息を吐きながら眦《まなじり》を拭い、ぺこりと頭を下げる。
「申し訳ありません。クラエス様を笑ったのではなくて、お話が余りにも私の状況とそっくりでしたので」
「エリリアナ殿に?」
話を聞けば聞くほど、状況が彼女とまるで同じだった。苦笑いしながら、後を続ける。
「急遽、カールハイツ様が二日間もお休みを下さりまして」
酷い一日を過ごした昨日の終業直前、カールハイツが突然エリリアナは明日は休みだと言い出した。そんな予定など入っていなかった為当然最初は断ったのだ。
しかし、魔術陣の綻びと『黒穴』の過剰発生に僅かだが関連性が見え始めたため、近々大きな会議を予定しているとのこと。そうなれば休みなど当分取れなくなるのだから、取れるうちにただでさえ取ろうとしない休暇を取れと、押し切られてしまった。
「折角だから、普段ゆっくりと出来ない魔術陣の研究でも進めようかと思ったのです」
これから本格的に王都の守護陣に関わることになるのだから、付け焼刃とはいえもっと知識が欲しい。カールハイツ様を差し置いて休暇などと……、とぶつぶつ言っていたエリリアナも、研究には良い機会だと思い直し、今朝図書館を訪れた。
「けれど、先ほど、図書館を追い出されたと申しましたでしょう? 実は私も、司書の方から『貴女のご利用は現在許可されておりません』と言われたのです。どうやら、カールハイツ様が手を回されたらしくて、図書館はおろか、魔術師棟に近付くことすら出来ません」
昨日、「当然、魔術陣の研究も禁止ですよ」とカールハイツに釘を刺された際、エリリアナは即座「かしこまりました」と了承した。だが、しっかりカールハイツには行動を見抜かれていたらしい。結局こうして先回りをされてしまった。
「ね、同じ状況でございましょう?」
クラエスの話を聞いて笑ってしまったのはそのせいだ。
エーベルハルドはかつて、イシュワルトのようにカールハイツから教えを受けたことがあるのだと言う。だから、似通った二人の従者に対する対処も、同様に似てしまうのだろうか。
話を聞いて、クラエスも微かに息を漏らした。
「成る程」
表情は未だ変わらない。だが雰囲気的に、クラエスも愉快だとは思っているのだろう。エリリアナは笑みを深めた。
(私以上に休んでないカールハイツ様こそ、先に休みを取って頂きたい。大体、そういう負担を少しでも軽くする為の秘書役であって……って、同じようなことをクラエス様も考えてるんだろうな)
つくづく、彼と彼女の状況は似通っている。
エリリアナはそこで、はたとあることに思い当たり、手を叩いた。
「そうですわ、クラエス様」
クラエスが彼女を見つめてくるのを確認してから、ふふ、と小悪党的な笑みを浮かべ、エリリアナは切り出した。
「――共同戦線、張りませんか?」




