22 酷い一日
クリスベルは執務室の前まで来ると、中に入ることなく、優雅に一礼して立ち去って行った。エリリアナはしばしそれを見送った後、大きく肩で息をついてから、扉をノックする。
中から、聞き慣れた落ち着いた調子で「どうぞ」と声がかかった。
「エリリアナ・トゥルク、只今戻りました」
短く名乗ってから、扉を開けて入室する。
太陽で温められた空気が、図書館にいるような本の香りと、カールハイツが好んで飲む紅茶の香りを運んでくる。
その空気に包まれて、エリリアナは心底安堵した。張り詰めていたものが、緩やかに解かれていく感覚が、腹の奥からじわりと広がっていく。
磨き抜かれた光沢を持った、重厚な木製の執務机の奥に、カールハイツがいつものように座っている。下を向き、淀みない動きでペンを走らせ、書類に彼らしい几帳面な文字を書き加えていっているのだろう。その日の光を背にした姿は、今日エリリアナが顔を合わせた誰よりも威厳に満ち、声をかけるのすら躊躇われる清廉とした雰囲気を醸し出している。
なのにエリリアナは、肩から不自然な力が抜けていくのが分かった。やはり初対面の人々や、自分よりも立場が上の人間に会って緊張していたのだろう。
(カールハイツ様の方が、年齢も身分も役職も上なのに、おかしいとは思うけど)
苦笑を浮かべながら、エリリアナはカールハイツの方へと歩き出す。
書類作業の邪魔をしないよう、宰相の身の回りの整頓を先にしてから声をかけようと思っていたのだが、カールハイツがペンを払うように横に動かしたのに気付き、立ち止まる。彼女はあの動きが、署名の最後の一字を記すときにするものだと分かっていたので、話しかけるにはきりがいいと判断する。
「カールハイツ様、私事に時間を下さって、有難うございました」
エリリアナが声をかけるのと同時に、カールハイツはペンをインク壺の横に置くと、手元の書類を処理済みの束の一番上に乗せ、顔を上げた。
「大変だったようですね、エリリアナ」
眼鏡を外しながらカールハイツはそう言い、目頭を軽く押さえた。机に置かれたカップに手を伸ばすと、茶を口にする。
「……いいえ。エランディア様に、それにノルディ様にも守って頂きましたから」
確かに魔物や黒穴には驚いたし怖かったけれど、エランディアが不安を軽く払拭するほどの戦いぶりを披露してくれたし、危ないところではノルディも魔法を使い助けてくれた。二人の漫才の如きやり取りには気が楽になったし、エリリアナとしてはさほど『大変』だったという意識はない。
むしろ、帰って来てからの方が、彼女的には苦手分野の問題に直面して辛かった。
しかしカールハイツは、彼女の答えに顔を険しくする。
「魔物は出現しないと予想していたのです。早朝には騎士団の見回りがありますから、魔物や黒穴は掃討されている筈でしたので。それでも万が一にと騎士を二人つけたのですが、まさかエランディアが取って代わってしまうとは……」
カールハイツは大きなため息をついた。「二人ならば、一方はエリリアナの護衛に残せたでしょうに」と眉を寄せて呟いた言葉は、彼女ではなく自分に、もしくはこの場にいないエランディアに対してのものだろうか。その珍しく不快げな感情を見せる彼に、エリリアナが目を丸くしていると、カールハイツが真剣な表情で、彼女を真っ向から見つめる。
「貴女を危険な目に遭わせたのは、私の読みの甘さが故。――申し訳ありません」
「カ、カールハイツ様!? お止め下さい!」
エリリアナは悲鳴のような声を上げて、カールハイツに駆け寄った。
彼女の目の前で、カールハイツが頭を下げているのだから、落ち着いた行動などしていられる場合ではない。
だが、カールハイツは頭を上げない。
エリリアナは、師であり上司であり、侯爵としてまた宰相として仕えるべき相手に頭を下げられ、泣きそうになった。カールハイツが彼女のために最大限気を配ってくれたことは充分分かっているのだから、謝罪される理由がない。
「カールハイツ様は色々して下さったではございませんか。お顔を、お上げくださいませ!」
「いえ――私は、知らぬ所で貴女の命を危険に晒した自分が、許せないのです」
低く、唸るような声で言葉を吐いたカールハイツの、机の上で握られた両手は、力が籠められすぎて白くなっている。その不意に呟かれた言葉の重さに、エリリアナは凍りついた。
(そうだ……カールハイツ様は、遠征中の事件で、奥様を失くされてるんだ……)
カールハイツは、城でも噂される程の愛妻家である。
いや、その奥方――実際にはあと数日で入籍という婚約段階だったらしいが――は二十年前に盗賊に襲われて亡くなっているのだから、厳密に言えば違うのかもしれない。だが、地位も身分も実力も備えた、当時二十八の美貌の騎士団副長は、喪が明けても縁談を全て断り続けた。その後は再婚もせず、社交場にすら最低限しか姿を現さなくなった彼は、今でも暇を見つけては王都にある『奥方』の墓標へと足を運んでいるという。
二十年経った今でも途切れぬその習慣が向けられるのは、儚くも可憐な美を誇った、伯爵家の娘ただ一人なのだ。
王城の中で、カールハイツの話題が上ると、必ず語られる悲恋。城で働く娘たちは、研ぎ澄まされた独特の魅力を放つ宰相に一度は淡い想いを抱き、そしてその悲劇を耳にし身を引いていく。
「――」
エリリアナは、カールハイツの胸中を思い、唇を噛みしめた。きっと彼は今、『奥方』の事件と今日の出来事を重ねている。二つの事件を結びつけるのは強引すぎる気もするが、心に傷を負った者には、充分すぎる類似なのだろう。奇しくも、彼女も『伯爵家の娘』なのだから。
エリリアナは喉を鳴らして唾を飲み込み、口を開く。
「――分かりました、カールハイツ様」
「……」
彼女は、どう声をかけるのが最適なのか、見当もつかない。
今は平和に見えるこの国だが、度々大きな黒穴と魔物の襲撃に荒らされている。王城警備の騎士団まで出兵するほどの規模のものすら過去のものとは言い切れず、騎士達は常に災厄に備えて研鑽を欠かさない。彼らの中には、友や家族を失った者など数知れずいるのだ。
そんな騎士の一人として、自分より長く生き、様々な別れを経験しているカールハイツに、甘やかされた若輩である彼女が言えること。
「私、カールハイツ様が安心できるよう、魔術陣の研究を頑張ります。ですから、これからもご指導のほど、宜しくお願い致します!」
わざと明るく言い切り、エリリアナはがばりと頭を下げた。
「……エリリアナ?」
顔を上げれば、カールハイツが僅かに目を見開いて彼女を見ている。どうやら、頭を上げてもらうことには成功したらしい。
「魔術陣は、即時兵力にならない座学の知識とか言われてますけど、もしかしたら一回分くらいは携帯出来るかもしれないじゃないですか。そうなったら、自分のことも守れますし」
努めて笑顔を見せ、最後にエリリアナは付け足した。
「――それを教えて下さったカールハイツ様が護って下さったのと、同じになりますよね」
「……」
カールハイツが、一目で分かるほど目を見開き、彼女の顔を見つめている。
そこまで彼が動揺したところを、エリリアナは初めて見た。
しばらくして目が常の鋭いものに戻っても、彼はエリリアナから視線を外さなかった。しかし、不意に困惑に似た表情を顔に浮かべる。
「……困りましたね」
「?」
困ったと言いながら、僅かに彼は微笑んでいるように見えた。
「私よりも遥かに年下だと言うのに、貴女にはたまに――敵わないのだと、思わされます」
そんなことを言われたエリリアナは目を瞬かせたが、カールハイツから重苦しいものを感じなくなったことに安堵し、顔の筋肉を弛緩させる。
「私でもカールハイツ様を驚かせられるなんて、光栄です」
エリリアナの言葉に、カールハイツは今度こそ間違いようもなく、微笑みを浮かべた。
「貴女に驚かされるなど、いつもの事ですよ」
よく通る低い声で、甘やかすように囁かれた言葉と表情、カールハイツが普段表すことのない両方に、エリリアナは口を押えた。
(ひいい……っ、何ですか、その色気! こ、腰にくる……!)
気を抜くと「ぐふっ」とか呻いて腰を抜かしそうだった。
何とか気力を持たせるべく、カールハイツから視線を外して、何か気を紛らわせられる物を探そうと視線を巡らせる。そして、上司の机の脇に置かれた、今朝エリリアナが用意した場所と寸分変わらぬ場所にある、茶器のカートが目に入った。
「カ、カールハイツ様、そろそろお茶を新しく致しますね」
その彼女の言葉がスイッチだったかのように、カールハイツの表情がいつもの物に戻った。
「――そうですね。丁度良い頃ですし、昼食にしましょうか」
カールハイツのその言葉に、エリリアナの浮ついた心が一気に静まった。
「カールハイツ様……まさか、こんな時間まで、休憩をお取りにならなかったと……?」
エリリアナは失礼だと分かっていても、顔が険しくなるのを止められなかった。
その表情を見たカールハイツが、小さく肩を竦める。
「貴女にそのような顔をされるのは分かっていたのですが……駄目ですね。一人だと、どうしても色々疎かになってしまう」
「カールハイツ様……」
少しでも役に立てているのだと分かれば、嬉しくなる。だが、今の彼女はそれを噛みしめていられる状況ではなかった。
「あれほど、きちんと休憩を挟んで下さいとお願い申し上げたではありませんか……! 幾らカールハイツ様が何でも御出来になると言っても、御身体を壊されないわけじゃないんですよ?」
多少言葉が乱れたが、この放っておけば何も食べずに一日終えそうな上司を休ませるのは、今のところ彼女の最優先事項だった。
「エリリアナに言われた事を忘れていたわけではないのですが――」
「実行されなければ同じ事でございます」
言い訳のような上司の言葉を遮り言い切ったエリリアナに、カールハイツが苦笑する。
「今すぐ用意致しますので、カールハイツ様はそちらででもお休み下さいませ。……念のため、未処理の書類はこちらに移動させて頂きます」
言うが早いか、未処理の書類の束をカールハイツの机から、自分の机へ移動させる。そうでもしなければ、無意識に手を伸ばすのが、この宰相なのだ。
カールハイツは大人しく応接セットのソファに腰を掛け、僅かに首元を緩めて、息を吐く。その後で、彼がくすりと笑う音がした。
「?」
カートを押しながら首を傾げる彼女に、カールハイツは穏やかに呟いた。
「いえ……この年になると、誰かに叱られるというのはなくなりますから、面白いものだな、と」
「カールハイツ様」
反省の気配が見えないカールハイツに、エリリアナは咎めるような声を出した。カールハイツが軽く手を上げ、降参の意を表す。随分と遠慮のないやり取りだが、それを許すだけの気兼ねなさが二人の間にはある。
エリリアナは上司がソファに腰かけたまま目を閉じるのを確認してから、部屋を後にした。
食堂へと向かうエリリアナは、一人になった時間にここまであった出来事を心の中で反芻する。エランディアに王都の外へ連れて行ってもらい、魔物が生まれるという黒穴に遭遇し、魔術師ノルディに出会った。帰城したところで、クリスベル侯爵に定義通りの『政略結婚』を申し込まれ、カールハイツの古傷を抉った気分で現時点へと締めくくられる。
「……酷い、一日だわ……」
思わず呟いたエリリアナの胸の内には、疲労や困惑と共に、まだよく分からない感情が渦巻き始めていた。




