21 黒くはないが白くもない
折角のお昼ご飯を楽しむ暇もなく終了した休憩の後、彼女はクリスベル侯爵と共に執務室に戻ることになった。
ノルディも彼女を思ってか――いや、それにかこつけてカールハイツに会う魂胆だろう――同行を提案してくれたけれど、クリスベルの「仕事が遅れてはどなたかの期待を裏切ることになるのでは?」という一言で、あっさり引き下がった。
「もう一度言っておくけど、こいつ見た目通りの性格してないからね」
という忠告だか何だかよく分からない言葉を去り際に残し、彼は魔術師棟へと戻っていった。
そうして、穏やかに微笑む侯爵と残されたエリリアナは、何とも言えない表情を浮かべる。
ちらりと前方を見やれば、クリスベルはその視線に気づいて笑みを深めた。
(あー……もう、先延ばしにしてても仕方ない。腹を括ろう)
エリリアナは深呼吸を一度行うと、軽くクリスベルに頭を下げる。
「お時間頂き、有難う御座いました。クリスベル侯爵さえよろしければ、執務室へ戻らせて頂こうと思います」
「そう。では行こうか、エリリアナ嬢」
クリスベルは、茶の準備はいいのか、とは聞かなかった。彼女の意図を見抜いた上で、捨て置く判断をしたのだろう。
彼は柔和な表情を崩さないまま、席を立ち、片手を差し出した。
エリリアナは、品の良い装飾のされた白手袋に包まれた手を見て、軽く目を見開く。
彼女は女官であり、王城において貴族の子女扱いはされない。メイドや侍女等のように使用人扱いではないが、このようにエスコートされたり、椅子を引かれる存在ではないのだ。
一部の貴婦人はそこに不満を述べるが、この男性社会の王城において、特別扱いをなくすことで対等な存在として立場を確立する……先達の地道な努力の結果だと彼女は受け取っている。
それ故、クリスベルがエスコートのために手を差し出す――この行為の意味は、女官としてのエリリアナではなく、伯爵令嬢としてのエリリアナに用があるということだ。
(……嫌な予感しかしない)
乾いた笑みを浮かべながら彼の手を取ったエリリアナは、胃がきゅっと縮まるのを感じた。
流れるような動作で、クリスベルは彼女の手を不快感を起こさせない程度の力で握り、カールハイツの執務室に向かって歩き出す。その速度も、彼女を急がせはしないが、ゆっくり過ぎではと疑問を抱かせない程には速い、絶妙な速さだった。周りの視線が更に痛い。
(何でこんなことに……)
滅多に社交場に顔を出さず、結婚適齢期を過ぎても婚約者すら持たずに女官として働く彼女は、貴族令嬢としては異端だ。陰で「伯爵家の名を持つ者が使用人に身をやつすとは……」と中傷されていることは勿論知っているし、「トゥルク家は娘に婚家を用意することすら出来ない」と家柄批判まで及んでいることも知っている。
決して風評がいいとは思えない『エリリアナ・デオ・トゥルク』に、交流があるわけでもない侯爵家の人間が、一体何の用だというのか。
クリスベルは特に本題を切り出すでもなく、当たり障りのない話題を選んでいる。適当に答えていながらも、エリリアナから警戒心が消えることはない。
食堂を抜け、通路に出てしばらくしてから、クリスベルが長めの沈黙の後で口を開いた。
「――そう言えば、先日トゥルク伯爵にお会いしたよ」
「……アリナーデお姉様に、でございますか?」
仕事の関係だろうが、クリスベル領はトゥルク領とは王都を挟んでほぼ正反対の方向にあり、繋がりがあるとは思わなかった。
少し驚いたエリリアナに、クリスベルは言葉を続ける。
「少し相談したい問題があって、穀物輸入会議にお邪魔したのだけれど……噂通り、とても頭の切れる方でいらっしゃる」
この若さで侯爵を名乗れるのだから、目の前の美人も相当優秀な人材だと思うのだが。何にせよ、親友――戦友と言い換えても可――であるアリナーデが褒められると言うのは喜ばしいことだ。エリリアナは人知れず笑みを漏らす。
「その折に、王太子殿下から頂いた書簡に関して貴重な助言を下さったよ」
突出したところのない領土を持つ一伯爵に、王国有数の領地を持つ侯爵が相談? エリリアナの疑問は更に深まった。手に汗かいてたらどうしようと、変な心配までしなければいけない状況に、エリリアナは逃げ出したくなる。
「殿下のお話は中々興味深い内容だったのだけれど、結論を出しかねていたんだ。トゥルク伯爵の助言のおかげで、私にとって有益な判断を下せたと思う。よろしければ、お礼を伝えて頂いてもよろしいかな?」
声の方向が前方ではなく彼女に向いたのを感じて、エリリアナは視線を右上にずらした。案の定、眩しい笑顔のクリスベルが視界に飛び込んでくる。思わず目を細めてしまったのは、頭上の照明が目に入ったせいだと思いたい。
「はい、きっと姉も喜ぶと思います」
アリナーデが誉められたことは事実なので、エリリアナは素直に頷き、快活に返事をする。早速今日の仕事が終わったら手紙でも書こうと、心の中のやることリストに付け加える。
「ありがとう」
そこで、ふつりと会話が途切れた。
いつもエリリアナが使うのとは異なる経路で執務室へ向かっていた二人は、テラスが見える廊下に差し掛かっている。
「そうそう、私が貴女を探していた理由だけれど――」
きた、とエリリアナは思った。
「はい」
返事をして、続きを待つ。
クリスベルは先を紡ぐ前に、テラスへと続くガラス扉を開け、彼女を外へと誘導した。天気の良い今日のような昼頃には、テラスから中庭の噴水が虹を生む姿が見える。白石造りの手すりは、内側に数箇所花を寄せ植えにする場所があり、いずれも光を浴びて美しい花弁を風にそよがせていた。
その花の横に彼女を連れて行くと、クリスベルが呟いた。
「本当ならば千の花束と共に言うべきなのだろうけれど、無駄はお嫌いと聞いたから……まあ、そこは妥協点だろうか」
「?」
呟きの内容はエリリアナに向けて言ったわけではなさそうだったが、それでも内容が理解できず首を傾げていると、突然クリスベルが目の前に跪いた。
「ク、クリスベル侯爵!?」
長身のクリスベルが跪いたことで、先ほどから全く見えていなかった彼の頭頂部が視界に入る。日の下で光を浴びる若葉色の髪は、見事に天使の輪が出来ている。
彼は彼女の手を取ったまま片膝を付き、うろたえるエリリアナとは正反対に落ち着いた笑顔を浮かべ、彼女を見上げた。
そして、風の音に乗せて、言葉を放つ。
「エリリアナ・デオ・トゥルク嬢、私と結婚しては下さいませんか?」
「…………え?」
咄嗟に出た声は、あまりにも情けなかった。
(けっこん……血痕? いや、違う違う。結婚って聞こえた気がするけど、いやまさか)
クリスベルとはこれが初対面。突然血痕なり結婚なりの話題に飛ぶ理由が思い当たらない。
それ以上言葉が続けられないエリリアナに、クリスベルは更に言葉を重ねる。
「勿論、今すぐに返事をとは言わない。いや、むしろ、貴女が答えを出せなかった時でも構わないのだよ」
「ク、クリスベル侯爵……よく、お話が見えないのですが」
結婚云々はさておき、それに続いた言葉も理解不能だ。答えを出せないとは、何のことだろうか。
「ああ……そうだね、まずは前提から。王太子殿下から、貴女の置かれている状況に関して話を頂いた。光栄なことに、『四名』の中の一人に私が入っていることを含めて、ね」
「!?」
エーベルハルド王太子。四名の候補者。頭の中で、カチリと鍵が開いたような音がする。
「その上で、貴女に結婚を申し込ませて頂いているのだよ。最長でも一年後には、貴女は伴侶を選ばざるを得ない。その場合で構わない、私を選んで頂く事は可能だろうか?」
「な――」
目の前の秀麗なる人は、その穏やかな笑顔を全く崩すことなく、言ってのけた。エリリアナには、この誰がどう見ても引く手数多な侯爵に、そこまで言われる理由がない。絶世の美女でもなければ、尊い血筋でもないし、貴族の令嬢としては若くもない。
この世界でも結婚詐欺とかあるのだろうかと、思わずエリリアナは考えてしまう。
「……何故……とお聞きしてもよろしいでしょうか? 私はクリスベル侯爵とは初対面ですし、貴方様にとって条件の良い縁談相手とも思えません。クリスベル侯爵ほどの御仁でしたら、幾らでも良いお話がございますでしょう」
世の中には、一目合ったその時からという類の話も存在するし、実際貴族の結婚では政略結婚の次に多い。しかし、彼女は自分がその中に入る素材だなんて信じていない。不思議と心が惹かれた……それを信じるには、二十年ほど生き過ぎている。
「おや、貴女はご自分の価値をご存じではないようだ」
「価値? 私は『婚期を過ぎても使用人の真似事をしている、平凡伯爵家の妾腹の子』でございます」
社交の場で言われている彼女の評価をそのまま言えば、クリスベルは面白いとばかりに綺麗に並んだ白い歯を見せた。
「それも一つの見方だろうね。けれど、私のような多少野心もある独身の男には、違って映る」
「……?」
「トゥルク領は確かに特色がないけれど、同時に堅実で崩れるところのない安定性がある。妾腹と言えど、貴女とトゥルク伯爵は血の繋がった姉妹以上に仲が良いと聞いているし、縁続きとなれば支援が望め、領地の経済基盤はかなり安定するだろう」
つまり、『トゥルク家』には縁を結ぶ価値があるということだ。
恋愛に縁のない枯れた脳が、慣れ親しんだ夢のない話に、嬉々として活動を再開する。さようならシンデレラ、おかえり現実、だ。
「それに――貴女が王太子殿下からかなりの信頼を得ていることは既に周知の事実。さらに殿下のお話通り乳母となれば、王太子殿下だけでなく、次代の王太子にすら相当な繋ぎを持つことが出来る。そうなれば、次代、次々代と、婚家には長期の安寧が見込めると思って間違いない。普通にそれなりの家柄の令嬢と結ぶ婚姻よりも、遥かに利がある……そう考える者は、私だけではないよ」
さすがにエリリアナも寝耳に水だった。
正直、あのエーベルハルド王太子が個人にそんな肩入れをするようには思えないので、エリリアナが信頼されてるかは置いておく。だが乳母に関しては、確かにその通りだ。王族の子が五歳になるまでの教育を担うのは、乳母の役目なのだから、その影響力はかなりのものだろう。乳兄弟でもいれば、今のエーベルハルドと護衛騎士クラエスの様に、子供将来も安泰だ。
「私は虚言も方便も好まないから、率直に言わせて頂こう」
初めて、クリスベルが剣呑とも言える強い光を瞳に宿し、彼女を見据える。
「私は、貴女の家柄も個人としての能力も欲しい。だから、貴女に結婚を申し込みます。期限を迎える際に、誰も選べなかった……そんな保険としてで結構。『考える』と、おっしゃっては下さいませんか?」
「――」
エリリアナは言葉が出なかった。
だって、何て言えばいいのだろう。政略結婚が貴族に付き物だと言ったのは自分なのに、実際に突きつけられると、まともに考えがまとまらない。
(いや、でも実際の答えは今じゃなくていいっておっしゃってるし、それに侯爵との結婚なんてかなりの好条件。クリスベル領は王国でも有数の優良地だし、エーベルハルド様の手前、妾にされるってこともないでしょう。アリナーデに恩返しも出来る、けど……っ)
酒に酔ったかの如く、視界がぐるぐると回るようだった。
(っていうか、人生初のプロポーズか、これ……!)
日本とこちら、足して三十(ピー)年で、初の求婚。もっとも、背後に政治的なものがねぶたの如く存在を主張しているせいで、禍々しいものにしか感じられないけれど。
どうしよう、そう挙動不審になる彼女を、一応の求婚者であるクリスベルが優しく見守っている。
「か――」
「か?」
『考える』と言えば、答えを先延ばしにできる。確かに、一年以内――貴族の結婚に大量の準備がいることから言えば、実質的には半年ほどだろう――の結婚は必須だ。イシュワルトから切り離されて左遷されるくらいなら、政略結婚ぐらいやってやる。要は、ビジネスパートナーだと思えばいいのだ。
だから、エリリアナは先を続けるべく口を開いた。
「か、感謝申し上げます」
クリスベルが、光の下で笑みを深めた。
けれど、彼女の話は終わりじゃない。
「……ですけれど、このお話を受けるのはクリスベル侯爵に対する侮辱になりましょう。貴方様のような貴き方を、滑り止めに利用するような真似は出来ません」
「――私が気にしないと言っても?」
目を細めて、クリスベルが静かに尋ねる。
「私は……クリスベル侯爵のことは正直よく存じ上げませんが、侯爵様が領主としての強い責任を背負っておられる立派な御方だということは分かります」
既に充分と言える経済基盤を持つ侯爵なら、政略結婚の相手に求めるのは血――王族の姫か公爵家のはず。その方が、貴族社会での発言力と権威を増すことが出来る。
なのにクリスベルは、伯爵家の娘を選ぶと言った。エリリアナのコネなど所詮些細なものだから、実際には領地安寧の為に安定力のあるトゥルクが必要なのだろう。自分の地位より、領地。領主としての覚悟と矜持を持たねば、選ばれることない選択肢。だから。
「きっと沢山の方に慕われておられるでしょう。私が貴方様の配下ならば、そのような尊敬すべき主が私のような小娘相手に、保険などとご自分を低めてまで交渉することなど、望みません」
「……」
常に微笑を絶やさなかったクリスベルが、エリリアナの言葉を受けて表情を消した。
少しだけ目を見開いて彼女を見る様は、起こしてはいけない獣を蹴ったような、そんな感覚を覚えさせる。
(……あれ、これって今すぐ謝った方が良い展開? でも本音だし……)
侯爵は彼女の手を掴んだまま、床に視線を落とし、エリリアナからではその表情をうかがうことは出来ない。
「クリスベルこ――」
声をかけて、気付いた。
クリスベルの身体が小さく震えており、絹糸のような新緑色の豊かな髪がさらさらと動いている。
「ク、クリスベル侯爵……?」
侯爵は、黙ったまま空いている片方の掌を彼女に向けた。しばらくして、俯いたまま声が掛かる。
「――すまない、もう少し待って頂きたい」
彼は微妙に震える声で彼女にそう言うと、顔を僅かに横に向ける。
(あれ……もしかして、笑ってる?)
注意深く見てみれば、クリスベルは怒りに肩を震わせてるというより、笑いを必死に堪えている様子だった。
正直、立派な体格の成人男性が下を向いて笑う姿と言うのは、いくら美形でも不気味なところがある。
先ほどまでの緊張はどこへやら、彼を妙に冷めた目で見下ろしながら、エリリアナはクリスベルが落ち着く時を待った。
「――有難う、エリリアナ嬢」
顔を上げたクリスベルは、笑いの名残か紅潮した顔を彼女に向けた。
「私としては自分を低めているつもりはなかったのだけれど……つまり貴女は、私と私に仕える者の誇りを守ってくださると言うことかな?」
「そんな、大それたものではございませんけれど」
彼女が肯定すれば、クリスベルは綺麗に並んだ歯を見せて笑う。
「はは、これはこれは。姉君からきっと貴女は断ると言われていたけれど、こんな形で断られるとは予想していなかった」
痛快だとでも言いたそうな彼の表情には、身分が下の者に求婚を断られた怒りも、思惑が外れたという不快感もなかった。
「お姉様がそんなことを?」
「正式に婚約するにはまず当主を通さねばならないからね。貴女の情報で多少不明な点もあったから、直接話をさせて頂いたのだが……結果的には興味を煽られて良かったと思っているよ」
(あの人何言いやがったの……)
疲労感を顔に滲ませるエリリアナと反対に、クリスベルは笑みを深める。
「――今日は此処で一旦引くとしよう。トゥルク伯爵の話からして、初手で落とせるとは思っていなかったから」
「へ?」
間の抜けた声を上げれば、クリスベルはさっと彼女の指先に唇を触れさせる。
「!?」
「貴女に付随するものは、一度で諦めるほど小さくはないのだよ」
思わず手を抜き去ってしまったのは、不可抗力だ。クリスベルは「ふふ」と軽やかに微笑んでいる。
「では、エスコートの続きと行こう。エリリアナ嬢、お手をどうぞ」
クリスベルは立ち上がり、完璧な貴公子の所作で再度手を差し出す。
「そんなに警戒せずとも、私も焦って貴女をどうにかしようとは思っていないよ。元々、結婚を急いでいるわけではないから。他に良い相手がいればお互いの心情も変わるだろう」
むしろ別の相手を見つけて欲しいと思ったが、それは喉の奥に留めて置いた。
(この御方……腹黒くはないけど、白くもないのね)
確かに、優しい顔で近寄ってきて裏で何か画策するような腹黒さはない。しかし此処まで正面から『政略結婚望んでます』と包み隠せず言える辺り、清廉潔白とも言い難い。まあ、愚鈍な領主よりかはよっぽど領民は安心できるのだろうが。
だが、他に良い相手がいればそっちに乗り換えると、求婚した直後に言える率直さはどうなのだろうか。
「しばらく登城する予定だから、これから宜しくお願いするよ、エリリアナ嬢」
「ええと……こちらこそ宜しくお願い致します、クリスベル侯爵」
少しだけぎこちなく、エリリアナは再度手袋に包まれた手を取った。
「侯爵は要らない。名で呼んで頂いても構わないけれど――」
「畏まりました、クリスベル様」
即答したエリリアナにクリスベルはくすくすと笑い、歩き出す。
随分と長くテラスに居た気もするが、実際にはわずかな時間なのだろう。
半日の間に色々な事がありすぎて、心身ともに疲れきっている。エリリアナは早く、半年の間に慣れ親しんだ執務室に戻りたいと、澄み渡った青空に目を向けた。




