20 羨ましくない昼食会
名指しされたノルディだが、机に顔を伏せたまま動こうとしない。
彼に頭を押さえられたままの彼女も当然動けず、声の主を確認することは出来ない。恐らく声の主である男性――このエロス溢れる声で女性はないだろう――は、ノルディを覗き込むように身を乗り出しているらしい。
視界の端っこできらきら光る、若草色の髪が持ち上がった。
「――そう言えば、先ほど宰相閣下の執務室にお邪魔したのだった」
声の主が、若干からかうような響きで言った。
ピクリと、エリリアナの頭を押さえるノルディの手が揺れる。
「エランディアと話をされていた様だが、秘書殿を助けた魔術師に言い忘れたと、言付けを頼まれ――」
「何だって!?」
凄まじい勢いでノルディは身体を起こした。彼の手の下にあったエリリアナの頭は自然と机に押し付けられる形になり、体重の一部をかけられた顎がきしむ。
「あ、悪い」
ノルディは彼女に謝罪したが、心は既に『カールハイツの言伝』とやらに向かっているのが声に表れていた。
そんなノルディに微妙に呆れつつも、エリリアナは顎を摩りながら身体を起こす。
「女性はもっと丁寧に扱うべきだと思うけれどね、リンクス」
ようやく、声の主を彼女は認識した。
真っ直ぐな長い新緑色の髪を、毛先だけゆるく三つ編みにした、長身の男性。繊細そうな眉や歪みのない鼻筋、優しげに微笑む唇は、木々を連想させる髪と相まって何処か浮世離れした美貌を形成している。柔和な瞳は青とも緑とも判別できない複雑な色合いをしており、森の精のような魅力を引き立てていた。
(……弓とか番えて、小人と一緒に指輪を捨てる旅に出たりしないかな)
何処かのとんがり耳の森の妖精を思い出したエリリアナだった。
優男、詩人風とでも言えそうな風貌は、民を導く者としての独特な威圧感を備え、着衣と合わせれば一目で高位貴族だと分かる。
(そりゃ、此処の皆が黄色い悲鳴を抑えきれないわけだ)
一般食堂には関わりのない権力者にして、この破壊力のある外見。美人耐性がない婦女子にはその微笑みは毒ではないだろうかと、エリリアナは失礼にも考える。城には他にも美人が大量にいるけれど、この人ほど『受け入れてくれそう』と期待させる雰囲気の人は珍しい。
ロバの群れに一角獣が入り込んだくらいの違和感を、ノルディ同様、目の前の男性は放っていた。
「いいから、さっさとカールハイツ様からの言伝とやらを言って立ち去れば? 君には不似合いの場所ではございませんか、クリスベル侯爵様?」
ノルディが、嫌悪感――否、警戒心をむき出しに、わざわざ丁寧語まで使って嫌味を述べる。
エリリアナはノルディの口から飛び出した『侯爵』という名前にぎょっとした。
王族との血縁関係が必須である公爵位を除き、侯爵位は臣下が望める最高位。当然、重要な役職に就く者が多く、警護の関係もあって、一人でふらふらしているような人間じゃない。なんでそんな人が一般食堂に供も連れずやって来たのか。
ここ数日でレベルアップしたエリリアナの嫌な予感探知センサーが、煩いくらいに頭の中で鳴り響いている。
「おや、それがわざわざ貴方を探しに来た人間に言うことかい?」
クリスベル侯爵と呼ばれた美麗の男性はその一言でノルディの嫌味を受け流すと、ノルディの隣の椅子を引き、腰を掛けた。
そして、何を思ったか、エリリアナを笑顔でじっと見つめる。
(青、いや緑……青緑? って、そうじゃない、そうじゃない)
見つめられた瞳の不思議な色合いについ観察してしまった後、慌ててエリリアナは身を正す。
普段なら使用人として、話しかけられるまで口を挟むべきではない。ノルディは魔術師で上司だし、このエルフもどきな男性はこの若さで侯爵だ。王城において身分と役職の上下は絶対だ。
しかしここまで珍獣を発見したが如く観察されては、名乗るぐらいしなければ逆に失礼に当たりそうだ。彼に向けられる真っ直ぐ過ぎる視線と、周囲の悋気を孕んだ視線が非常に痛い。美形二人とお昼なんて、なんと居心地の悪い。
(ついでにしばらく上食堂に避難――じゃない、高級茶葉と茶器を取りに行こう)
立ち上がろうとしたエリリアナを、当の侯爵様が手で制した。
「ああ、そのままで」
男性はそう言ったまま、にこにこと笑ったまま彼女の観察を止めない。彼の顔面を正面から鷲掴みにして視線を遮りたい衝動に駆られたが、ぎこちない笑顔を返すことでどうにか留まる。
「そう、こんな奴相手に傅く必要ないよ。労力の無駄」
見詰め合うとか甘いものじゃない彼女たちの様子を見かねたのか、ノルディが不機嫌顔をしながら席に着いた。わずかに椅子を侯爵から離すあたり、彼らしいと言うべきか。
「随分な言いぐさだねえ、リンクス。私の第一印象を悪くしないでおくれ」
「僕には関係ない」
ノルディはそう言い、侯爵から顔を背けた。
(何この状況)
エリリアナがこの二人のやり取りに、ノルディと出会った際のエランディアとの会話と通じるものを感じつつ、侯爵から微妙に視線を逸らしてノルディを見ていると、侯爵がくすくすと笑いだした。
「ああ、面白――いや、素敵な女性を前に、つい自己紹介を忘れてしまった」
(今『面白い』とか言おうとしただろ、この人!?)
ぐっと突っ込みを飲み込むと、ノルディがこちらに哀れみを含んだ視線を送ってきた。いや、まだ何も変なことは起きていないのだから、これからの流れを予想させるそのネタバレ視線は止めて欲しいと、エリリアナは心の中で懇願した。
ノルディに救援信号を送っていると、侯爵は彼女の手を取り、エリリアナの注意を引く。
「私は、レグナンド・ルノ・クリスベルと申します、可憐な方。普段は領地に居るから滅多に登城はしないのだけれど……たまには王都も良いものだね」
「何が『可憐な方』だ、性悪侯爵。トゥ…………エリリアナ、こいつには近寄らない方がいいよ。破滅するから」
ノルディはそう言って、クリスベル侯爵に握られたエリリアナの手を引き剥がし、彼女と侯爵の間にお盆を立てた。
クリスベルはノルディの行為に機嫌を損ねるどころか、逆に愉快そうに目を細めて笑っている。
「私への不当な評価は気になるけれど――貴方が誰かに肩入れするとは、ますますもって面白い。それだけでも久々に登城したかいがあったものだ」
「こういう奴だから。関わらないに限るよ」
クリスベルはノルディの不快そうな言葉にも、くすりと笑みを深めただけだった。
「そして貴女は――」
返事を促され、エリリアナは我に返る。
先ほど立礼を却下された手前立ち上がりはしないけれど、椅子を奥へずらし、入社面接の如く頭を下げた。
「私はエリリアナ・デオ・トゥルクと申します。クリスベル侯爵、お会いできて光栄で御座います」
顔を上げたエリリアナの目に、穏やかに微笑むクリスベルの顔が飛び込んでくる。
貴族の令嬢なら扇でも顔に当てて顔を赤らめるだろうし、手馴れた御婦人方なら、この花の顔を前に眼福とばかりに微笑むだろう。また、義姉であるアリナーデなら、優雅に微笑んで受け流したまま、何かの話題をさっさと切り出す。
エリリアナはそのどれでもなかった為、対応に困って少しだけ眉を下げた。
下心のある男性ならさっさと邪険に出来るし、仕事の相手や下心のない人間ならどれだけ美形でも問題なく対応できる。
しかし、クリスベル侯爵から感じるのは、純然たる『強い興味』だ。それが伯爵令嬢としてなのか、エリリアナ個人としてなのか分からない為、適切な対応が浮かんでこない。
困っていると、クリスベルが綺麗な歯を見せて笑い、話し出す。
「トゥルク伯爵家のご令嬢だね、御噂はかねがね。こちらこそ、お会い出来て光栄だ」
「――そんなことよりクリスベル、言伝って何」
いい加減痺れを切らしたノルディが、クリスベルの椅子の足を蹴飛ばした。このあまりの遠慮のなさに、エリリアナはこの二人の関係を不思議に思った。
「ああ、すっかり忘れていた。『任務外にも関わらずエリリアナを守ってくれたことに感謝を』――と。はは、その台詞を言われた時のエランディアの顔は見物だったよ」
「そりゃ、護衛はアイツの役目だったからね」
しかし顎をやや上に向けて憎まれ口を叩くノルディは、嬉しそうだ。
ついでにエリリアナも、一部下に向けるカールハイツの些細な気配りが不思議と嬉しかった。
二人して、無言のままうんうんと頷いていたが、ノルディがふと眉を寄せた。
「そんな言伝の為だけに、カールハイツ様が君を此処へ?」
そんな些細なことに人を使うカールハイツではないことを充分知っているらしいノルディは、クリスベルに疑いの目を向ける。
「いや、私にも用事があったのでね。自分から申し出たのだよ」
「……用事?」
ノルディの顔が、完全に警戒モードへ移行した。
「そう。エリリアナ嬢が貴方と共に此方に居ると伺ったからね」
「…………へ?」
間の抜けた声を出したのは、エリリアナだった。
(何故、私の名前がそこで? っていうか、クリスベル侯爵は私のこと前からご存知で? え? なんで?)
激しく瞬きを繰り返すエリリアナの前で、ノルディが思い切り顔を顰めた。
「何それ。何で……エリリアナに?」
「それは貴方にも教えられないな。貴方がそれほどエリリアナ嬢と『親しい』というなら別だけれど」
「そ、そんなわけないだろ!?」
「だろうね。だから、貴方には秘密だ、リンクス」
「ぐぬぬ」
目の前で何やら彼女にとって不名誉な会話がされたような気もするけど、エリリアナは気にかけていられなかった。
(何だろう、カールハイツ様の執務室に寄られたとおっしゃっていたから、仕事関係? でも、私に出来ることなんてたかが知れてるし……)
考えていても仕方がない。エリリアナは小さく息をつくと、直接クリスベルに尋ねることにした。
「……私に御用とは何でございましょうか? 私に出来ることであれば良いのですけれど」
「それは、後で二人きりの時にお伝えしようか」
(二人きり!?)
さらりと吐かれた言葉に凍りついたエリリアナの代わりに、ノルディが口を挟む。
「何言ってんの。エリリアナはこの後カールハイツ様のお世話に戻るんだよ。君の相手をしてる暇なんてないの。カールハイツ様に迷惑かけるな」
別にエリリアナのことを思って言ったわけではない言葉だったが、それでも彼女にはノルディが救世主に見えた。
「大丈夫さ、すぐ済む話だから。執務室へエスコートする道中で充分事足りる」
「……ま、それなら」
(そこで引き下がっちゃうんだ!?)
カールハイツに迷惑をかけないと分かった途端に興味を失ったらしいノルディに、彼女は勝手に裏切られたような気分になった。
「ということなのだけれど、エリリアナ嬢。貴女を執務室までお連れする栄誉にあずかっても良いでしょうか?」
ここで「嫌です」と言えるツワモノが居たら、今この場に連れてきて欲しい。エリリアナはそう思ったが、少しだけ考え、口を開く。
「しかし私は、ドナウアー宰相のお茶の準備も御座いますし、宜しければ改めて時間を――」
「では、それにも同行させて頂こう。ああ、王都には今朝到着したばかりでね、今日の予定は始めから何もないから、時間は気になさらなくて結構だよ」
時間稼ぎをしようとしたエリリアナの意図はあっさり封じ込められた挙句、先回りして次の言い訳も潰された。見た目は穏やかでも、さすが若き侯爵。人の心を読む力には秀でているようだ。
(カールハイツ様に助言でも頂こうと思ったのに)
クリスベルの話が何だか知らないが、貴族社会で言質を取られたらお終いだ。ノルディの忠告もあるし、多少侯爵の素性に関して下調べをしてからと思ったのだが、相手の方が上だった。
これ以上の足掻きは見苦しい上に失礼だ。そもそも最初に足掻く時点で若干失礼に当たるのだが、この年になると諦めも悪くなるのだから仕方がない。
「……有難う御座います」
かろうじてそれだけ言うと、クリスベルは晴れやかな笑顔を返した。周囲から「はぅっ」と悶絶する婦女達――いや、多少男性も――の声が聞こえる。
結局その後はすっかり冷めてしまった昼食に戻ったものの、「ゆっくりどうぞ」と言いながらも彼女が食べる姿を観察してくるクリスベルのせいで、彼女は全く食べた気がしなかった。




