15 下見と忍耐・4
(な、な、何あれ……!?)
エリリアナは、目の前にあるものを信じられないような目で見つめた。
揺れ動く黒穴は、その奥が全く見通せないほどの深い闇。宙との境界線をゲル状生物のように蠢かせ、徐々に侵食領域を広げていく。それは、まるで闇が空を捕食しているように映った。
「エルルゥ嬢!」
呆然としていたエリリアナのすぐ目の前に、エランディアの険しい顔があった。
「は、はい!」
慌ててエリリアナは身を正し、返事をする。
エランディアは何かを高速で口ごもると、うっすらと発光する人差し指と中指を、彼女の額に付ける。
パチッと、静電気が発せられたような音が発せられたが、何も起きない。
「?」
額を摩り、目を瞬かせるエリリアナに、エランディアが顔を伏せ、自分の頭を手で押さえた。
「あー……そう言えば、貴女には魔法が効かないんだったな」
その口ぶりからして、彼女に何かしらの術をかけようとしたらしい。当然、魔法版ゴム体質のエリリアナには効果なかったが。
少し恥じ入るような態度を見せ、エランディアは彼女に背を見せた。
そして手に槍を持ち、白馬を繋ぎとめていた紐を切り離す。白馬が身震いをした直後、エランディアは白馬に飛び乗った。槍を肩慣らしに一度大きく振るとエリリアナを振り返る。
「この車には、魔術師の張った守りの術が掛かってる。俺が黒穴を封穴する間、絶対に此処を動かないで欲しい」
常に浮かべられていた、どこか軽薄そうな雰囲気は鳴りを潜め、真剣な表情で言い聞かせられたエリリアナは、黙って数回コクコクと頷いた。
彼は「いい子だ」と笑うと――よく考えたら、過ぎかけとはいえ妙齢の女性に言う台詞じゃない――馬の手綱を弾かせて、駆け出した。
魔物が付近にいないことを確かめる為に、一周馬車を回り、黒穴に向かって行く。
「……大丈夫かな……」
エランディアが離れた後、エリリアナはクッションに埋もれながらそう呟いた。
封穴が何のことだかエリリアナにはさっぱりだが、魔物の発生元に行こうと言うのだから、危険なのは間違いないだろう。
「心配ない、とは思うけど、でも……」
王国を守る騎士団の中でも精鋭とされる王城勤務。さらにその中で隊長を任されているエランディアは、相当な実力の持ち主だと推測できる。
しかし、エリリアナは魔物や黒穴に関して殆ど知識がなく、一体どのくらいの力があれば充分に対抗出来るのか、一切予想が出来ない。
(エランディア様の御力を見たのなんて、カールハイツ様とのアレだけだし)
付け加えれば、エランディアにとって不名誉なことに、敗北した姿のみ。
彼ら騎士団は、日常的に黒穴と対峙しているとは言われたが、それでも不安だった。
「怪我とか、最悪――いやいやいや!」
嫌な想像をしかけて、エリリアナは首を振る。
自分には出来ることなど何も無いのだから、せめて無事を祈るくらいは満足にやらなければと、気合を入れなおす。
そして彼女が見つめる先では、エランディアが丁度黒穴の近くに辿り着くところだった。
そういえば宙に浮いている黒穴を、どうやって相手にするのだろうかとエリリアナが疑問に思ったとき、エランディアが槍を思い切り闇に向かって突き出した。
「!?」
紫色に色づいた電撃のようなものが、彼の槍から闇に向かって放たれる。
雷は黒穴の中に音もなく吸い込まれていったが、まるで痛みに暴れるように、闇が大きく歪んだ。
その隙にエランディアの槍が再び発光し、闇に切っ先を向けた。
しかし今度は、電撃は黒穴には当たらなかった。
闇から吐き出されるように現れた、白い熊に似た生き物に当たり、弾かれる。
その随分と巨大な熊は黒穴から大地へと降りると、そのままエランディアに向かって突進した。
「危ない……!」
エリリアナが息を飲んだ時には、熊は駆けて来る馬に両腕を向けたところだった。
ぐらりとエランディアの体が右側に傾き、エリリアナは両手を口に当てた。
(落ちる!)
しかし彼の体は不自然に傾いたまま止まり、エランディアは右手で槍を熊に向かって突き出した。
熊の爪が馬を抉るよりも速く、エランディアの槍が熊の体を貫く。
彼女の位置からでは何が起きたのかは分からないが、まるで熱したナイフでバターを切るように、エランディアの槍は熊の胴を縦に切り裂き、宙に抜ける。
通常ではありえない、一部分をごっそり切り抜かれたシルエットの巨熊は、そのまま前方に倒れ込んだ。
エランディアと馬がその横を駆け抜けると同時に、熊の体が黒い霧に変わり、空へと霧散していく。
「なに、あれ……」
戦場からはるか離れた馬車の上で、エリリアナは声を漏らした。
エランディアの、魔物を一閃に屠った強さもだが、霧になって消えた魔物の姿が、頭から離れない。生き物は、死んでも霧などにならない筈なのだから。
エランディアが闇の下に辿り着く前に、再度黒穴から魔物が生み出される。
獅子の顔を持ったワシのような鳥や、一本の角を生やした白豹のような獣、コウモリ羽の生えた目玉などが、彼女の位置からは見て取れた。鳥と獣は、馬に匹敵するほど大きい。
さすがに三体なんてと、その場で立ち上がったエリリアナの目に、エランディアの持つ槍の刃先が、三日月型に変わったのが映りこんだ。
青白い光を放つその刃が、疾走する馬の勢いのままに、獅子頭の鳥に向けられる。牙を見せて襲いかかる獅子の頭を、槍が横薙ぎに切り離した。
エランディアはそのまま自身が槍であるかの如く直進すると、目玉の魔物を切っ先にとらえ、貫く。
あっという間に一体だけ残された獣が、馬の進路から飛びのき、体勢を低くして唸り声を上げた。
「わお……」
思わず、エリリアナの口から間抜けな声が漏れる。
彼女の心配など鼻で笑われる勢いの猛攻に、エリリアナは開いた口が別の意味で塞がらなかった。
とてもではないが、カールハイツに武器を吹き飛ばされた人間とは思えない。
エランディアは以前木刀を使っていたが、今の戦いぶりや騎兵隊であることから、本来の武器は槍なのかもしれない。
エランディアは少し進んだ場所で馬の向きを変えると、最後の魔物に向かって駆け出した。
豹は馬上のエランディアと槍を警戒しているらしく、馬の進路上に出ないよう、鋭く移動を繰り返す。馬もすぐに反応できるわけではないから、中々魔物に近づくことが出来なかった。
そんな攻防の後、白豹の口元に闇が集まる。
闇は急激に密度を上げると、巨大な――それこそ一メートル以上あるのではないだろうかという刃の形に変化した。
白豹の魔物は一度腰を深く落とすと、自分に向かってくる馬の足元目掛けて、口から延びる刃ごと襲い掛かる。
「エランディア様!」
まさか魔物までそんな不思議な技を出すとは思わず、エリリアナは悲鳴を上げた。馬も勿論心配だが、馬が倒されれば、騎乗するエランディアも無事ではいられない。
当のエランディアは、馬上で祈るように槍を顔の前に持ってくると、駆けつけてくる魔物に向かって大きく槍を振るった。
――瞬間、三日月型の刃が槍から外れ、ブーメランの如く青白い刀身が獣の体に沈む。勢いをつけて襲い掛かった魔法の刃は、魔物の体を両断し、霧に変えた。
最後にエランディアが第一撃同様、槍から闇に電撃を放つと、黒穴は魔物達と同じく黒い霧となり、消えていった。
「……」
エリリアナはその顛末を見届けると、脱力したようにクッションに倒れ込んだ。
(全然、心配する必要なんてなかったのね)
危うげなく黒穴を消滅させたエランディアは、注意深く黒穴があった場所を観察している。
今回の黒穴が標準的な規模のものかは分からないが、ここまで即効で消し去られるものなのだろうかと、エリリアナは首を傾げた。
そんな強い魔物に出てこられても困るが、あまりのアッサリ具合に、変な不安に襲われる。
「まあ、何せ無事に済んで良かったのよね」
そう頷こうとした時、馬車に繋がれた馬が大きくいなないた。
馬車が、馬に引っ張られて激しく揺れる。
「な――」
今度は一体何だと、エリリアナが体を起こしたとき、馬が一段と悲愴な悲鳴を上げた。
たたらを踏む馬の足元に、黒い塊が見える。
「あれは……」
手のひらにかろうじて乗る位の、小さな黒ネズミが、馬の足に齧りついていた。
漆黒の長い毛を振り回し、二本の尾を持つネズミは、目をぎらつかせてじたばたと動く足にしがみ付いている。
(魔物!?)
王城で何度かネズミを目撃したが、当然こんな姿ではない。馬に平然と攻撃する異常性からも、エリリアナはこれが魔物だと判断した。
「何か、何か武器になるもの……っ」
悲鳴のような鳴き声を上げる馬に、エリリアナはいてもたってもいられず、大きく揺れる車の中を見回した。
大きな揺れに、自分の体を支えようとした左手の先が、何かに触れる。
「鞭……」
再び車が激しく揺れ、振り落とされないようにしっかりと席に掴る。
今度はすぐに揺れが収まり、エリリアナはネズミが馬から一旦距離を置いたのを目に留める。
しなやかな馬車用の鞭を手に取り、エリリアナは意を決して御者席に飛び出した。
「や……やあ!」
馬車用の鞭など使ったことのないエリリアナだったが、釣竿を振る気分で、勢いをつけネズミを狙った。
だが、当然ド素人が狙ったものなど当たるわけなく、ネズミから少し離れた場所を叩く。それに反応したネズミが、横からその鞭に齧り付いた。
「わあ!?」
凄まじい力で鞭を引っ張られ、エリリアナは手を放した。
鞭が勢いよくネズミの傍に放り投げられる。ネズミは鞭の棒の部分を軽く避けると、御者台にいたエリリアナに顔を向けた。
「あ――」
ネズミの爛々と輝く茶色の瞳と、目が合った。
車の中へ逃げ込もうとエリリアナは腰を浮かしたが、それよりも早くネズミが吼える。
「ヂィイイイッ」
ネズミは大きな声を上げると、御者台の上にいる彼女に向かって、跳躍した。
「うあっ!?」
咄嗟にクッションを掴んで飛び掛ってきたネズミを殴ったが、ネズミは余裕の様子で地面に着地すると、再び体勢を低くする。
御者台の足元は座席部分より低くなっており、その段差が逃げようとするエリリアナの足を止めた。
「エルルゥ嬢!!」
エランディアの叫び声が、まだ遠くから響いてきた。
ネズミが、再度新たな獲物に向かって飛び掛る。
ネズミというには鋭すぎる門歯を覗かせて口を開ける魔物を、エリリアナは目を見開いて見ることしか出来なかった。
――だが、彼女が喰らいつかれる前に、ネズミの体が宙で『爆ぜた』。
「な――」
痛みに備えて身を縮めていたエリリアナは、空中で霧と化す魔物を、信じられない思いで見つめる。
(何が、起きたの?)
呆然と、魔物が掻き消えた空間を見やるエリリアナの元に、エランディアが駆けつけた。
「無事か、エルルゥ嬢!?」
瞬きも出来ずに目を見開くエリリアナは、エランディアの姿を捉えても返事をすることが出来なかった。
ショックというより、ネズミの魔物が消えた理由が分からなくて困惑していたのだ。
馬を降り、彼女のすぐ傍までやって来たエランディアが、エリリアナの肩を掴む。
ぼうっと彼を見返すエリリアナにも、エランディアが顔を顰めて口を固く結ぶのが分かった。
エランディアが何か言おうと口を開いた直後、別の声が二人の耳に届く。
「――職務怠慢なんじゃないの、エランディア」
男性と言うには高く、少年と言うには低い声。
弾かれたように声が聞こえた方向を見ると、馬車から少し離れた場所に、木の杖を突き出したローブ姿の少年が立っていた。
緑青色の魔術師のローブを身につけた十五、六くらいの少年は、肩につく位の山吹色の髪を邪魔そうに片手で押さえ、不機嫌そうに整った顔を歪めていた。線の細さが目立つ中性的な顔や体と異なり、二人を睨みつける深紅の瞳は獰猛な獣のようにぎらついている。
「リンクス」
エランディアが、驚愕といった声音で呟いた。




