00.6 月と夜・3
――エリリアナがハリネズミになった翌々日。
起床後すぐに薬を塗り直され、包帯を取り替えられた後で、カーテンの中のベッドに伏せる彼女に男性の声がかかった。
「失礼してもよろしいか?」
声は、何だか聞き覚えがあるような、ないような。
とりあえず身を起こして、エリリアナは立ち上がった。治療の邪魔になる為、女官服は着ていない。
女官服は通常、一部を除きメイドと同じ服装である。
足首まである紺色のロングドレスは、喉元を隠すために白いハイネック仕様の襟ぐりになっており、作業しやすいよう手首部分はワイシャツに似た形に窄まっている。その上からふりふりのレースが施された白のエプロンドレスを着、後宮女官であることを示す、黄色のブローチがついた大き目の紺リボンを胸元で結ぶ。白い絹の靴下に、ストラップの付いた黒いフラットシューズを履き、カチューシャ状のヘッドドレスを付ければ完了である。
……服の下にはコルセットまで付けるのだから、とてもじゃないが怪我人向きではない。
というわけで現在エリリアナは、胸の下に切り返しのついた、白の簡易ドレスを身につけている。避暑地でお嬢様が身につけそうな、清楚なドレスは人に会っても恥ずかしくないような作りではある。
でもパジャマ的なものだと知っていると、やはり恥ずかしい。
サイドテーブルに置いてあった赤色のショールを身につけて、返事をする。
「はい、ただ今参ります」
自分でカーテンを開けて顔を出すと、昨日会った金髪の青年と黒髪の騎士がそこに立っていた。
声をかけたのは、恐らく騎士の方だろう。
「気分はどうだ?」
金髪の青年が、声をかけてくる。こちらを見る目が何だか怖いが、原因が分からないため、とりあえずは放置する。
「まだ多少痛みはございますが、大分良くなりました」
魔法が存在するこの世界だが、治癒の魔法は身体に負担がかかる。強制的に自己再生力を高めさせるのだとかで、緊急時以外は使われないのだ。その分、世界に満ちる魔力によって不思議な生態を持つ動植物から作られる薬剤は、エリリアナの世界にある薬よりも遥かに効き目が強かった。
というわけで、エリリアナの穴だらけになった肌も、今は殆どがかさぶた状態だ。
「一昨日はご助力頂きまして、誠に有難うございました」
怪我した箇所の違和感のせいでぎこちなくなりながらも、エリリアナは青年二人に向かって、深々と礼をする。
「殿下と護衛騎士様のお手を煩わせてしまい、大変申し訳なく思っておりました。こうして直接お礼を申し上げることが出来、嬉しく存じます」
そう、助けてもらった青年二人と、天使のような少年。
エリリアナはベッドの中で、何か記憶に引っかかると思い、よく思い返してみたのだ。
金髪の青年は、エーベルハルド・フォイル・アセルナード王太子殿下。
黒髪の騎士は、クラエス・ド・ハイロッド。王太子殿下の護衛騎士にて、コルトワ侯爵家の次男。
そして金髪の少年は、イシュワルト・フォイル・アセルナード第三王子。
……正直、たかが伯爵家の人間(養子)がお近づきになれる相手方ではなかった。
「良い。あれはイシュワルトが引き起こしたこと。兄として弟を守ってくれた勇敢なるご令嬢に礼を尽くすのは当然だろう」
「……」
エリリアナは、コメントに困った。
貴族的な表現には、未だ慣れない。
『勇敢なる』というのは、お転婆だという批判なのか、それとも単純に誉められているのか、非常に判断に困る。
引きつった微笑みを浮かべているエリリアナの脳裏に、アリナーデの顔が浮かんでくる。
その美しい笑顔には、『迷惑かけたらどうなるか分かってるんでしょうね』という言葉が張り付いている。
「あ、有難うございます」
無難に、言葉どおり受け取り、礼を言うことにした。
嫌味の通じない小娘と思われる方が、うかつに不敬発言するよりマシとの判断だ。
「立ち話も負担だろう。少し其方で話がしたい」
別室へと繋がる扉に、殿下は視線を向ける。
勿論断れる立場でも、断る理由も無い為、大人しくショールを握り締め、ベッドが集まった婦人用の一室から、対話室へと移動する。
医務室は、診療室に対話室、そして男女別の団体病室の計四室から成る。
普段はまばらとはいえ、必ず誰かしらいる対話室だったが、今は誰もいない。
首を傾げるエリリアナを、黒髪の騎士――クラエスがちらりと視線を送った。
(あ、そうか)
殿下がお話になる内容が何にしろ、周囲が遠慮しないわけがない。
今度は納得顔で、大人しく二人について行く。
まずは、エーベルハイドがソファに腰かけ、長い足をゆったりと組む。
クラエスは殿下の真後ろに立ち、緩慢な動きで剣に片手をかけた。対話室には診療室と病室、そして廊下に繋がる扉があるが、彼はそのどれにも対応できるように位置取りしているように感じられる。
(護衛だもんね……しかも未来の王様の)
「とってもSPっぽい!」と思わず心の中で叫んでしまったエリリアナを誰が責められよう。
「座るといい」
エーベルハイドに着席を促され、エリリアナは迷った。
彼女は伯爵家の娘とはいえ、ここではただの新人女官だ。仕えるべき王家の人間を前に、悠々と座ることは出来ない。
だが今、彼女は怪我の療養中だ。しかも王子は弟殿下の為に『礼を尽くす』と言っている。
(こういう判断、本当にヤダ)
いいじゃない、もっと気楽で。腹の読み合いとか面倒だ……エリリアナはそう思った。
ひとまずスカートを軽く持ち上げ、王子に淑女の礼を取る。
「お気遣い頂きまして、有難うございます。お言葉に甘えさせて頂きますわ」
そう言って浅くソファに腰かければ、王子は笑みを深めるのが分かった。
(間違ってなかったかしら)
内心ドキドキしながら、エリリアナは小さく息を吐いた。
改めて、正面の二人を見やる。
(しかし……凄い美形だなぁ)
エーベルハイドは、僅かに長めに整えたさらさらの金色の髪に、琥珀と橙の中間のような、不思議な色合いの瞳を持った青年だ。顔は彫刻のように整ったパーツが完璧な位置に配置され、かなり腕だと褒め称えられる剣術の訓練からか、身体は野生動物のように鍛えられ引き締まっている。声は低すぎはしないものの、充分な威厳を発揮できるほどには低く、御年二十一でありながら、艶めいたものを含ませていた。常に余裕の笑みが浮かべられた顔は甘くはあるものの、決して侮るべきでない冷淡さも表していた。
まだ決まった婚約者はいないものの、外国の姫を正妃として迎えることは既に決定されている。現在は、様々な花の間を気ままに渡り歩いているらしかった。
王子と同年のクラエスは、騎士団一と呼ばれる剣の使い手である。短い黒髪に縁取られた顔は、やや人形めいた冷たい美貌をたたえているものの、辺りを見据える切れ長の青い瞳だけは、ギラギラと鋭く輝いている。
身長は王子よりも高く、声も低い為により男性的ではあるが、必要最低限しか喋らず、常に無表情な彼は、感情が非常に読み取れない『騎士人形』だと、誰かが揶揄するのをエリリアナは聞いた記憶がある。
そんな美丈夫二人と密室空間にいるエリリアナ。
他の女性が聞けば、黄色い悲鳴を上げてエリリアナを睨みつけるに違いない好状況下だが、エリリアナはただ酷く緊張していた。
この世界に来て、貴族社会と関わるようになってから、彼女は美人に食傷気味である。
いきなり、美男美女ばかり集まる空間に凡人として迷い込んだ彼女は、審美眼が故障したのだ。右も左も美人しかいなければ、最早誰が美人だか分からなくなる。
そんな訳で、エリリアナは美人二人に見とれるわけでもなく、突然遥か目上の立場の人間から圧迫面接状態の状況に追い込まれ、胃が縮み上がる気分だった。
「ああ、そんなに緊張することはない。咎めるだけなら態々足を運ぶ必要もなかろうに」
安心させるつもりなのか、エーベルハルドが、不敵な笑みを浮かべながら、彼女にそう言った。
(その顔に、嫌な予感しかしません……)
ニヤリとした笑みを浮かべたエーベルハルドに、エリリアナは血の気が引くのを感じる。
完全に蛇に睨まれた蛙の気分である。
「……殿下、お戯れはその辺りでよろしいのでは」
見かねたのか、クラエスが主に声をかける。
彼に後光が差しているように、エリリアナには見えた。
エーベルハルドは、ふふんと鼻をならして――それでも美形ってチートだなと彼女は思った――ソファにもたれかかる。
「お前は本当に冗談が通じない奴だな」
「殿下の場合は冗談ではなく嫌がらせでしょう」
あっさりと言い返すクラエスは、エーベルバルトの性格に慣れ切っているのだろうが、欠片たりとも不敬な行動を取れないエリリアナは、今まさにツッコミを耐えていた。
(絶対腹に一物どころか百物くらい抱えてるよ、この方!)
我が身も可愛いので、ツッコミは笑顔で隠すことに彼女は決めた。
そうして笑顔がいい加減引きつりそうになった頃、エーデルハルドが愉快そうな響きを含ませて口を開いた。
「クラエスとこれ以上話していても仕方ないな。ああ、貴女の名前はエリリアナ・デオ・トゥルクで間違いないか?」
「? はい」
何故王族なんて天上人が、ただの一女官である彼女の名を知っているのか不思議に思いながらも、エリリアナは頷く。
「よろしい。人違いであっては面倒だ」
一人うむと頷く王子に、エリリアナは首を傾げる。
「エリリアナ嬢、貴女のことは少々調べさせてもらった。トゥルク伯爵家の次女で、半年前に後宮メイドとして入城し、今は庶務室の担当……ここまでは合っているか?」
「は、はい」
さらさらと形の良い唇から漏れる自分の経歴に、エリリアナは不安になる。
まさか、伯爵家とは縁も所縁も無い、ただの平民だということがもうバレたのだろうか。もしそうなら、何かの罪で彼女だけでなく、アリナーデまで裁かれてしまうのだろうか……嫌な想像ばかりしてしまい、エリリアナは無意識に両手を胸の前で合わせて唇を噛み締めた。
(これから処刑される人間の気分だわ……)
体中の傷が急に違和感を主張し始め、エリリアナは僅かに身じろいだ。