00.3 彼女の独白
――夢を、見る。
その夢の中で、私は『私』の中に入っている。
いつも通り、月曜の朝特有のだるさを振り切り、パジャマを脱ぐ。洗面所で顔を洗い、最低限の化粧を施す。朝食を寝ぼけ眼で平らげたら、歯を磨いて家を出る。
駅に着いたらいつもの乗車口に並び、同じ時間の電車に乗って、遅延や緊急停車がないことを祈りながら、会社の最寄り駅で降りる。
仕事を終えて、「疲れたー」と呟きながら、気の向くままに買い物をしたり、そのまま帰ったり。
変わらない、日常だった。
「私は、アリナーデ・デオ・トゥルク。このトゥルク領を治める領主で、爵位は伯爵を頂いているわ」
そう、私を保護した女性は名乗った。
混乱する私に、アリナーデは続けた。
深い森を複数所有するトゥルク領には、昔から人が『流されて』来るのだと言う。
言葉も、文化も、人種も、全く異なる人間が、予兆もなくやって来る。それを、彼女の先祖は『流されてくる』と称したのだそうだ。
疑わしい話。
でも疑えなかった。
何故?
だって、そう私に説明するアリナーデは、私の全く知らない言葉を喋っていたから。
耳に届く声は確かに異国語を話しているのに、私は不思議と内容を理解することが出来た。
昔、可愛くない白い犬と中年男性が主軸となるスペイン映画を見たことがあるが、当然私にスペイン語は理解できない。しかし、見終わってみると、何となく頭の中にストーリーは入っている。
字幕はないが、感覚的にはそんな感じ。
アリナーデに、私の言葉はどう聞こえているのか尋ねると、『こちらの言葉で喋っている』と答えた。
でも、話している言葉と、私の口の動きが違っていて、気持ち悪いと付け加えた。
何の力が働いているのか知らないが、この未知の現象は、私にアリナーデの説明が正しいものだと理解させるのに充分だった。
アリナーデから、私を保護した理由――領地にいてはどうしても世情に疎くなるから、王都でコネと情報源を見つけて来い――を教えられた私は、否応なく条件を飲むことになる。
断れば、生きていく術など他に無いのだから、仕方ない。住み慣れた世界から切り離されたショックで塞ぐ前に、私は学習に忙殺されることになった。
貴族としての振舞い方や、常識、歴史、地理など、身につけるべき知識は多岐に渡った。
言葉は何となく分かってもあくまで『何となく』であって、読み書きは出来ないのだから、単語を覚えるところからのスタートだった。
完全にゼロからではないせいか、不思議と染み込むように言葉が頭に入ってくる。
『みず』と言っていた言葉は『アーリエ』に変わり、『たいよう』は『シェルカ』に変わる。
アリナーデが、「段々気持ち悪くなくなってきたわね」と言うようになるまで、二ヶ月かからなかった。
その頃から、夢に変化が現れる。
夢の中で日常生活を送る『私』と、私の間に距離が生まれてきたのだ。
ある時、私の夢は玄関で佇む所から始まった。
すぐ真横で、『私』が靴を履いている。つま先に付いた泥を「うわ、汚っ」と言いながら払い、玄関のドアノブに手をかける。
私はそれを、後から追いかけるようにして眺めていた。
変化は続く。
ある日私は天井に浮いていて、『私』が惰眠を貪るのを、呆れた目で見下ろしていた。
更に別の日、私は地縛霊のごとく道端に突っ立っていて、その目の前を『私』ががむしゃらに自転車で通り過ぎるのを見送った。
日はまた進み、私は地元のスーパーの惣菜売り場にいて、美味しそうだなと涎を足らす勢いで惣菜を眺めた後、自力で家に帰った。我が家には既に、『私』が帰宅していた。
そして理解した。
私があちらの言葉を覚えるにつれて、私は『私』ではなくなっていく。
私がどんどん、あちらの世界に書き換えられていく。
そしてその日。
深酒をして着の身着のまま倒れ込んだ『私』の体が、水の中に入ったようにぐにゃりと歪んだ。
私は慌てて『私』の身体に手を伸ばし、その直後、逆上がりを三十回くらい連続でした後のような、平衡感覚の乱れに襲われた。
視界がどんどん歪んでいき、暗くなっていく。
貧血のように、身体が強制的に力を失っていくのを私は感じながら、最後まで目を開けようと意志を振り絞った。
――薄れいく私の視線の先。
そこでは『私』が、何の異常に気付くこともなく、酒の勢いのままに安眠を享受していた。
「っ」
目が覚めて、私はふと思った。
(……ああ、きっと。私はもう、戻れないんだな)
日本では一度も経験したことのない、えんじ色の天蓋に覆われた豪奢なベッドで目を覚ました私は、自分の身体から、何かが確かに失われているのを感じ取った。
「エリリアナ、朝だと言っているで――」
部屋に唐突に入ってきたアリナーデが、目を見開いて私を見つめるのを、何だかぼうっと見返した記憶がある。
「……どうしたの、エリリアナ?」
気が強そうな、普段はきりりと上がった形の良い眉を下げ、アリナーデがベッドの端に腰を下ろす。
アリナーデはそわそわと手を上げては下ろすを繰り返し、やがて意を決したように、私の顔に手を近づけた。
「?」
そっと触れたアリナーデの柔らかい指が、私の目元を拭う。
そこで初めて、私は自分が泣いているのに気がついたのだ。
「あれ……なんで……?」
全く泣く意図などなかったのに、涙は堰を切ったように次から次へと溢れてきて、私には止めることが出来なかった。
はっきりとしない視界の中のアリナーデは、無言で朱に色づいた唇を噛み締めると、私の頬を両手で包み込み、額に口付けを落とす。
彼女はそのまま離れていき、部屋の扉を開けてメイドに何やら告げると、再度ベッドサイドに戻ってきた。
「今日は、休みにするわ」
それだけ言うと、アリナーデは無言のまま私の両手を握り締めた。
しばらく経つとノックの音がして、アリナーデは絹のハンカチで私の頬を拭うと、その場に立ち上がる。
メイドのアンナさんが薄い青色のワンピースを片手に戻ってきて、それをサイドテーブルに置き、出て行った。
「さあ、立って」
アリナーデに言われるままにベッドから立ち上がると、彼女は「今日の着替えはこれね」と告げて、部屋を後にした。
どのくらいか分からないが、私はぼうっとしていた身体を何とか奮い立たせると、残されたワンピースを手に取る。
いつもはコルセットをアンナさんに閉めてもらって、きっちりとした19世紀のイギリス女性のようなドレスを身につけていた(何でも貴族令嬢として当然の身だしなみとのこと)。
だけど今日は、コルセットもなし、不必要なほど締め付けられたウエスト部分もない、Aラインのワンピース。
先ほどアリナーデが指示していたのはこれか、と私は有りがたく思ったものだ。
二十時間くらい寝ていたような倦怠感のまま、私はふらふらと屋敷をうろついた。
果物だけの食事を取り、応接間のソファでぼーっとし、アリナーデの書斎でお茶を共にし、気分転換の為に森の中にある湖へと向かう。
その何処へも、アリナーデがついて来た。
執務で毎日忙しいはずなのに、彼女は書類とペンを片手に私の後を追いかけてきて、何の気もなしに突然流れ落ちる私の涙を拭ったり、隣に腰掛けたりしていた。
湖のほとりでは、一緒にサンドイッチを食べ、お茶をして、木に寄りかかる。
私の涙腺はとっくに崩壊していて、壊れた機械から漏れ出すオイルのように、度々涙を流すのだが、その度にアリナーデが拭ってくれた。
夕方になると、私はアリナーデに手を引かれて屋敷に戻り、夕食を食べる気分ではなかったので、そのまま自室に下がった。
まぶたは腫れ上がっているし、目は泣いたせいで疲れきっていたため、私は日が落ちると共に眠ってしまった。
翌朝目が覚めると、なんとアリナーデが隣で寝ていた。
ぎょっとしつつも、情熱的な灼熱色の巻き毛や、その抜けるような白い肌、長く影を落とす睫毛や人形のように整った唇をじっと見つめる。
気の強さは現在鳴りを潜めており、妖精のようなあどけなさを含む女性がそこにいた。
(何で一緒に寝てるんだろう)
ふとそんなことを思いつつも、じっと彼女を見つめていたら、アリナーデが目を開けた。
「……」
「……」
寝ぼけたアリナーデは、焦点の合わない瞳でこちらを見てきたが、やがて「ああ」と声を出すと、のっそりベッドから身体を起こした。
「おはよう」
そう声をかければ、低血圧の人っぽい、生気のあまり感じられない瞳を私に向ける。
「ん……気分は……?」
何が、とも思ったが、昨日の散々な様子のことを尋ねているんだろうと思い当たる。
不思議と、気分は悪くなかった。
今まで溜まっていたモノが、全て抜け落ちたような、一種清清しいとさえ言える気分の晴れっぷりだったのだ。
「いいよ。今日からまた――ううん、今日からは、頑張れると思う」
そう言えば、アリナーデはどう受け取ったのか、その整った顔を柔らかく微笑ませて、「そう」と言った。
そのまま、ぐっと猫を連想させる伸びをして、「じゃあ、食堂で」と言って部屋を後にした。
もう、ここで頑張るしかないんだ。不思議とそう思えた。
異世界に来てから、半年後。
その日から、私はとにかく前進あるのみと、学習に邁進できたように思う。
家令のロワンに、何故アリナーデが隣で寝ていたのかを問えば、老執事はしばし考えた後、控えめに口に出した。
「お嬢様――いえアリナーデ様は、また大切な方を失うかもしれないと不安だったのでしょう」
アリナーデは、突然の事故で、家族を全て失った。
風邪を引いて屋敷に残った彼女がわずか十二の頃、招待された夜会に向かう途中、アリナーデの両親と僅か七歳の弟は、崖から馬車ごと転落したのだとか。
ああ、だから抜け殻のようになった私の傍に、片時も離れることなくついて回ったのかと、合点がいった。
ロワンが最後に呟くように付け加えた。
「いつかお嬢様が本心から家族だと思える日がきましたら、『アーディ』と呼んで差し上げてください」
その言葉に、私は首をかしげたものだ。
「ご家族が使われていた、アリナーデ様の、今は誰も呼ぶことのない愛称でございます」
そう言われて私は、アリナーデが驚くなら、と返してロワンに変な顔をされたのだ。
なお、実際に彼女を初めてそう呼んだ日には、赤くなったアリナーデにしこたま叩かれたことを付け加えておく。