00.1 そもそもの始まり
00.1~00.7は過去の話になります。
読まずに飛ばしても、ストーリーの把握には殆ど影響ありません。
夢を見る。
時は遡り、彼女がエリリアナ・デオ・トゥルクになる前のこと。
「此処は、どこ……?」
そんな、まあなんとも有り触れた一言を呟いてしまった『彼女』を責めることは、誰にも出来ないだろう。
その日、深酒のせいでぐるぐる揺れる視界に耐え切れなくなり、乙女心との葛藤の末、彼女は風呂に入ることなく就寝した。
着替える暇も、化粧を落とす余力もなかったのは、振り返ってみれば良い事だったのかもしれない。
自分のくしゃみで目を覚ました彼女は、気付けば剥き出しの大地の上に横になっていたのだ。
「…………へ?」
間の抜けた声を出し、上半身を起こす。
煌煌と太陽が彩る青空の下、大きな木々に囲まれた空間は、彼女に森を連想させた。
「……」
無言で、自分の頬をつねる。
(痛い)
夢の中なら痛覚はないという説が正しいどうかなど、彼女には分からない。混乱中の脳が勝手に、そんな無意識行動を指示しただけだ。
数秒後、ヒリヒリする頬から手を放すと、彼女は改まって周りを見回した。
肌をくすぐる冷たい風、日に温められた空気、さわさわと音を立てる木々の葉に、遠くから響く鳥の声。
とても、作り物や幻覚には思えなかった。
「なんで……?」
頭が現状についてきていない為、彼女は考えに集中出来なかった。しきりに、甲高い耳鳴りと、「何処? 何故? 現実?」という問いが大音量で思考を攻め立てている。
だから、すぐ近くの茂みが大きな音を立てた時、飛び上がらんばかりに身体を震わせた。
「ぎゃっ!」
メキメキと枝を折る音と共に現れたのは、大きな『鹿』だった。
鹿の出没地帯に住んでいたわけではない彼女は、突然の闖入者に目を見開き、両腕を胸の前に抱え込む。
その『鹿』は、銀色の大きな体躯に、鋭く天を向く一対の角、流れるような朱の混じった長い尾を持っていた。
彼女が、自分の見知った鹿という生き物と、この『鹿』は明らかに違うと知覚するよりも早く、すぐ近くで更に形容しがたい大きな音がした。
風を切るような高い音と、何かが土に突き刺さるような低音が、左耳に集中して飛び込んでくる。
その音のせいなのか、『鹿』が、勢いをつけてその場から駆け去っていく。
去っていく『鹿』の後姿を見つめながら、「さっきの音は何なの」と呟いて、彼女は左方に目を向けた。
「ひ……っ!?」
彼女が手を伸ばせば届く程の距離、それほど近くの大地に、『棒』が突き刺さっていた。
良く見れば、その棒には三枚の羽が付いており、彼女にすらそれは矢だと分かる。
「な、なななんでこんな所に――」
彼女の言葉の続きは、二度目の高音――矢の風切り音で妨げられた。
「っ」
矢は、彼女の左肩をかすめ、すぐ後ろの地面に突き刺さる。
「――」
あまりに突然のことに、彼女は反応できないまま目を見開き、口はパクパクと開けては閉めてを繰り返す。
左肩の服が僅かに切れており、もう少しで彼女に突き刺さっていたのでは……その疑問もが頭の中で強まっていく。
(もし頭とかに当たってたら――)
大地に矢じりが深く突き刺さるほどの威力で放たれた矢。
それに当たっていたならば、当然待ち受けるは……死だ。
「っ!」
声にならない悲鳴を上げ、彼女は弾かれたように四つん這いのまま、その場を離れようとした。
「誰だ!?」
その直後、女性にしては低く、男性にしては高い中性的な声が、森に響いた。
(ひいいいいっ!!)
彼女は絶叫を上げたが、それは幸か不幸か音にはならなかった。
先ほどの『鹿』飛び出てきたときに立てた音など比べようもないほどの音量で、茂みが掻き分けられ、巨大な影が現れた。
「……女の、人……?」
栗毛の馬に乗った、赤い乗馬服の女性。
赤色の巻き毛を一つにまとめ、黒い帽子を被った女性は、少しだけ日に焼けた肌を桃色に染め、眉を吊り上げてエメラルド色の瞳をこちらに向けていた。
怒りか不審か、顔を歪めてはいても、その女性は十分に整った顔をしている。
綺麗な人だな、そう彼女は思った。
「貴女、我が領地で何をしているの?」
だが、言葉と共に突きつけられたのは、矢じりの先だった。
女性は小さな――アーチェリー位だろうか――弓矢を美しい所作でつがえ、力を少しでも緩めれば彼女に矢を突きたてられるのだと、怒りに染まった顔で彼女を見据える。
「なにって――私も、分からない、ので」
彼女は、突如として陥った命の危機に、未だ混乱から抜け切れぬ脳を回転させて、どうにか返答した。
「分からぬわけないでしょう。我が伯爵家の敷地内に侵入し、ただの散歩だなどとは言わせません」
女性は、彼女の答えに不信感を更に募らせ、警戒心も顕に睨み付けた。
「は、伯爵? 敷地内? え? イギリス?」
女性の彫りの深い整った顔や、乗馬服、そして飛び出してきた『伯爵』という言葉に、彼女は英国を連想し、思考する前に口から出していた。
そんな彼女の呟きを余所に、女性はぶしつけな視線を投げかけた。
ぎりぎりと弓矢を構えたまま、女性の視線が彼女の全身を撫でる。
その視線は、まるで魚市場の魚を値踏みする商人の如し。
「……」
「え?」
女性は、彼女に聞こえない程度の小声で、何やら呟いた。
思わず聞き返す彼女に、女性はつがえた弓矢を下ろす。
突如解かれた警戒態勢に、彼女は目をぱちくりと瞬かせた。
「ついて来なさい」
「へ――って、待って下さい!」
呆然とする彼女を尻目に、馬を引きその場を離れだす女性。
彼女は馬のいななきにハッとすると、頼りない身体を叱咤し立ち上がり、慌てて女性を追いかけた。
何もかもが分からない。だが、此処で初めて出会った話の通じる相手を、逃すわけにはいかない。しかも、この場所は女性の『敷地内』なのだという。自分が何故こんな場所にいるのか、もしかしたら分かるかもしれない。
だから、彼女は騎乗する女性について行った。
この場所が、『異世界』なのだと知らされるのは、女性――トゥルク伯爵――の屋敷に到着した直後だった。