01 『エリリアナ』
「失礼」
薄暗い石畳の一室で、エリリアナは耳元で呟かれた低い艶のある声に、びくりと身体を震わせた。
目の前にいる男の熱を感じながら、エリリアナは反射的に、振り上がった男の腕を見上げる。
直後、声を発した青銀髪の男の腕に、白く輝く刃が現れた。
ギラギラと輝く刃は、何者をも切り裂けるような、妖しい光を放っている。
そして男は、一気にその刃を彼女に向かって振り下ろした。
「――」
彼女の全身を、頭からつま先にかけ、目に見えぬ速さで両断する男は、無感情に粘液にひたった彼女――エリリアナを見据えた。
彼女からは、悲鳴も何も無い。
振り切られた刃が、石畳にぶつかる手ごたえを男は感じた。
それに気を取られることなく、彼は彼女に手を伸ばす。
目の前には、刃に一切、傷つけられなかった彼女の姿。
魔力の刃は彼女を傷つけはしなかったが、彼女の纏っていた貫頭衣の前面を、溶かしたかのように切り裂いていた。
僅かに開かれた布の奥に、滑らかなカスタード色の肌がのぞいている。
彼は自分の指が、裂かれた衣に触れるや否や、彼女から視線を外し、彼女の身体から衣を剥ぎ取った。
「っ」
小さく、エリリアナから息が漏れる。
突如訪れた地下室の寒さに身を震わせた直後、彼女の全身を覆うように、大きな布がきつく巻かれた。
「――これで良いでしょう」
彼は呟きながら、彼女の頭を両手で覆う。
撫でられるように動く男の手に、エリリアナは無意識の内に目を閉じた。
じゅうっ、と水分が蒸発する音が聞こえてくると同時に、彼女を頭からつま先まで濡らしていた、どろりとした粘液が消えていく。
最後に彼は彼女の顔を優しく撫で、顔からも粘液を消し去った。
「支度が出来たら執務室へ戻ってきなさい」
彼はそう言うと、冷たい部屋を後にした。
「……」
エリリアナは、何が起きたのか、あまり理解できていなかった。
ただ、男がしっかりと閉めて行った扉を見やる。
(ええと、いつものように魔術陣の実験をしてたはずで……)
この地下室で行ったのは、円柱型の結界を生み出す魔術陣の実験だ。
結界の魔術陣を描く。
スライム――魔力で動く擬似生命体――を起動させる。
魔術陣に逃げ込む。
スライム飛び掛る。
結界破れる。
スライムという名の粘液がエリリアナの全身を覆う。
このような流れだったと予測できる。
(つまるところ、また失敗したわけだけど)
魔術陣とは、文字と図形で、魔法のような現象を引き起こす技術だ。
この世界で恐らく唯一、魔力を持たないエリリアナでも、魔法を起こすことが出来る技。
まだ習って半年にしかならない彼女は、日々少しでも早く上達しようと、魔法が効かない自分の体質を利用して、自らを披験体に実験を繰り返していた。
魔力を電流とするなら、エリリアナはゴム。他者の魔法に反応する力すらない。だから、魔法が効かない。
その為、万物に含まれた魔力を溶かし喰らうスライムは、理論上彼女には無害なはずだった。
しかし、同様にスライムを被った前回、服を脱ぐのに手間取ったためなのか、その後数日ピリピリするような肌の痛みに悩まされた。
(あの後、カールハイツ様に凄く怒られて)
先ほどの男――師であるカールハイツに実験結果を報告した際、美麗な顔を感情の読めない笑顔に変え、スライムの危険性について延々と説教され、十日程実験禁止を言い渡された。
そして『再検証は彼の監督下でのみ』という条件をつけられたのだ。
(だから、確認作業に出来る限り時間を割いて)
周囲から『鬼』と称されるカールハイツは、同じ失敗を許容しない。
完全な休日など月に一度あるか否かというカールハイツに時間を取らせた上、失敗の繰り返しなどすればどうなるか。
入念に描く模様と呪語を確認し、いざとなったら即脱ぐことの出来る貫頭衣を着て、実験に挑んだ。
(そして、失敗した)
結界が破れたのを察知したカールハイツは、エリリアナにかかる被害を最小限にする為、早期に彼女の身からスライムを引き剥がし、スライムを滅却してくれたのだろう。彼女を傷つけぬ魔術の刃で服を切り裂き脱がし、スライムが彼女の肌に付く前に消滅させる。やり方は多少問題があったように思えるが、最善策ではある。
(……裸、見えた?)
しかし思い返せば、カールハイツは直接彼女の身体に触れることも、視線を破けた服に当てることもなかった気がする。
わざわざ肌を見ないように対応してくれたカールハイツには、ただただ感謝である。
「ものすっごく、後が怖いけど」
ふっと、エリリアナは遠い目をした。
だが数秒後に彼女を襲った冷えに、肌を粟立たせる。
「い、いけないいけない」
首を振ると、カールハイツが巻きつけてくれた布をしっかり身体に寄せ、エリリアナは慌てて部屋を後にした。
城を小走りに移動する、エリリアナ。
湯浴みをして着替えを身につけた彼女は、石造りの塔にいた、毛布を巻きつけた不審人物ではない。
「エリリアナ、ごきげんよう」
「アンヌ=マリー、ごきげんよう」
どんなに急いでいても、すれ違うメイド仲間や騎士達には、笑顔で優雅に会釈する。
「エリリアナ様、女官長がお話があるとの事です」
「有難うございます、ハリエッタ。夕刻頃伺わせて頂きますと、お伝え下さいます?」
今はもう着慣れた紺色の女官服を着て、背筋を伸ばし、口角を上げる。足首まで届くこの戦闘服を着たら、彼女はもう『エリリアナ』だ。
(お嬢様言葉も、敬語の一種だと思えば楽なもの)
貴婦人のような物腰と口調を装備し直して、半年の間で通い慣れた、カールハイツの執務室へ向かう。
エリリアナ・デオ・トゥルク。
トゥルク女伯爵を義姉とする伯爵家の次女。
前伯爵が領地視察の際に手を付けた村娘を母に持ち、トゥルク一家が義姉を残し事故で亡くなった後、正式に伯爵家の次女として引き取られた。
十六で城に入り、半年後には第三王子イシュワルトの王子付き侍女を任され、以後六年間、半年前にイシュワルトが隣国に婿として出向くまで勤め上げる。
現在は宰相であるカールハイツ・ルノ・ドナウアー侯爵の秘書のようなものを拝命している――というのが、『エリリアナ』の設定である。
『エリリアナ』は、アラサーの日本人女性である『彼女』が二つの世界の接触面に偶然位置し、この異世界に『流された』ことに端を発する。
トゥルク伯爵家の敷地で、当主であるアリナーデに発見された『彼女』は、王都での情報収集とコネ作りの取っ掛かりとして、伯爵家に迎え入れられた。
異世界へと渡った副作用で、どの位かは不明だが若返ってしまった外見も、アリナーデにとって好都合だったらしい(逆に年を取る場合もあるのだとか)。
女伯爵アリナーデは、家族から唯一残された伯爵の座を守る術を、貪欲に求め続けていた。そんなアリナーデには、階級意識のない異色な考えと雰囲気を持つ『彼女』は、格好の人材だっただろう。
エリリアナという名を授け、読み書きや貴族としての教養や作法を躾け、一年後には王城に送り出した。
それが、『エリリアナ』の始まりである。