緑の学園
講堂を一歩出ると、そこは森の中だった。
建物全体を覆うように、マツや椎の木立が鬱蒼と茂り、その木々の合間から淡い青空がのぞいている。麗らかな春の日差しが降り注ぎ、少女の制服の肩にまだらな木漏れ日を作った。
「緑の学園」
篠崎塔子はぽつりと呟いた。
森に覆われたこの高校を、地元民がそう呼び慣わしていると知ったのは、つい最近のことだ。
講堂の玄関前は小さな広場になっており、そこから中央にまっすぐ並木道が続いている。
その先にある校門をくぐったのは三日前。その日から、塔子はこの私立松風館高校の寄宿生になった。
門に彫られた校章の獅子のレリーフや、西洋建築の木造校舎も見蕩れたが、やはり一番圧倒されたのはこの森だ。
鳥の声や葉ずれの音で、森がこんなに音にあふれていることも、落ち葉に敷き詰められ、不思議と暖かく柔らかい地面も、木漏れ日の濃い影も。街育ちの塔子にとっては全てが驚きだった。
今も講堂から出た途端に広がる緑の光景に、はっと胸を衝かれてしまう。なかなか慣れるものではなかった。
大きな風が吹き、頭上の緑が揺れた。遠い海鳴りのような音が辺りを包む。
塔子はぶるりと震え、両腕を抱えるようにして擦った。
四月といっても、山特有の冷涼な空気でまだ肌寒い。そのまま身を縮めていようと思ったが、左胸の新入生用のリボンが腕にあたるのに気が付き、手を解いた。さすがに、付けたばかりのリボンを曲げてしまうのは気が引けた。
塔子と同様に、講堂から出てくる新入生達も寒さに身を縮ませていた。先程入学式が終わったところだった。眠気がさめたように目を擦る人や、新しい制服の丈が合わず、肩口に手をやって歩く人、緊張に顔を強ばらせたままの人もいる。
様々な表情で玄関の階段を降りる同級生達を、塔子は脇でぼんやりと眺めて、父兄達が出てくるのを待った。新入生の列は長く、もう少し時間がかかりそうである。
水を打ったように静かだった式から解放され、生徒の声も囁きからざわめきへと、次第に大きくなっていく。同時に頭上から大きな鐘楼の鐘の音が聞こえた。入学式終了の合図である。
四月の空に、澄んだ音がこだまする。
音色に耳を澄ませながら、塔子は講堂を仰ぎ見た。講堂は木造建築で、外壁は浅緑、屋根はオリーブ色に塗られている。玄関ポーチの上には大きな光取り窓があり、さらにその上に高くそびえる鐘楼がある。どこか教会を思わせる、瀟洒な建物だ。木造の素朴さもあいまって、優しく周囲の緑に溶け込んでいる。
松風館高校は、大正時代に設立された伝統校だ。講堂をはじめ建物のほとんどは、当時に建てられたものを、補修を加えながら使用し続けている。全て西洋にならった洋風建築で、文化財としての価値も高い。
(当時は、さぞモダンな学校と、もてはやされたんだろうな)
塔子は思った。大正時代の、およそ百年前にも、塔子らのように新しい制服に身を包み、ここへ踏み入った生徒がいるのだ。期待に目を輝かせ、誇らしげだったに違いない。
そんな風に想像すると、当時の生徒達の息づかいや足音まで、この講堂から聞こえてきそうな気がする。
(そしてその後もここで、何千、何万の学生が入り、見送られてきたんだわ……。今日のわたしみたいに)
そう思うと、今まさに塔子も大きな歴史の一部に組み入れられたようで、とても不思議な心地がした。
「塔子、塔子!」
呼ばれて塔子は現実に引き戻された。鐘の音はとっくに鳴り終わっている。玄関を見やると、続々と出てくる父兄の中で、大きく手を振っている母がいた。
「ああ、よかった。見つからないかと思った」
「待ち合わせしていたじゃない。あんな大きな声をだして」
塔子はむっとして返す。母篠崎聡美は快活な性格で、何事も少し大げさにふるまうのが、塔子は嫌だった。
いいじゃないの、と聡美が華やかな笑顔で塔子を見下ろす。首にはゆるく藤色のスカーフを巻き、ベージュの上下のパンツスーツと合わせた聡美の装いは、塔子の目から見ても洗練されている。長身の聡美は、そういったパンツスタイルがよく映えた。
「入学おめでとう。似合ってるじゃない、その制服」
「ありがと」
言いながら、聡美は塔子の制服のリボンを整える。
松風館の制服は、古式ゆかしいセーラー服である。
黒地の制服とハイソックス、胸元には濃緑色のリボンを留め、セーラーカラーにもリボンと同色の一本線があしらわれている。左胸には小さなポケットがあり、そのふちの辺りに、金の校章バッジを付ける。校門で見た、獅子の意匠である。獅子は後ろ足で立ち、前足を振り上げた姿勢で、右を向いている。
この制服のデザインは、大正の開校当初から変わっていない。
暗色系で統一され、地味になりがちなデザインだが、そう見えないのは、校章バッジの役割が大きいようだった。黒地に一点金色の獅子が光ることで、ぐっと格調高い印象になる。
その校章バッジは今、新入生用のリボンと並ぶように、塔子の左胸に輝いていた。
「もう高校生なのねぇ」
そっとセーラーカラーを撫でながら、ため息をつくように、聡美はぽつりと言った。
「おとうさんも、きっと、喜んでるわね」
「おかあさん……」
「やあね、大丈夫よ」
聡美は笑った。
塔子が四歳の時に、父は他界している。父なき後、聡美は一人で塔子を育てた。製薬会社に勤務し、今では一線のキャリアウーマンである。そして二週間後には渡米し、カリフォルニア州にある大学院で三年間、研究員として働くことが決まっていた。
聡美のこの内示が出たとき、迷った末に塔子は日本に残ることに決めた。この機会に親元から離れ、生活するのも悪くないと思ったのだ。それに、聡美は仕事に熱中すると寝食も忘れるタイプだ。アメリカへ行くのであれば、塔子のことは気にせず、存分に研究漬けの毎日を送って欲しいと思ったことも理由にある。
そんな経緯もあり、塔子は全寮制のこの高校を選んだ。全寮制ならば、聡美の心配も少しは軽減できる。
「塔子がいないなんて、本当にさみしいわ。おかあさんを一人ぼっちにするなんて、親不孝者ね」
聡美は口を尖らせる。最近は母娘が逆転してしまったように、聡美は幼くなる時がある。
塔子は笑った。
「なあに言ってるのよ。仕事に熱中したらすぐ忘れちゃうくせに。あっちには叔父さん達もいるでしょう」
「そうだけど……」
「わたしのことなら大丈夫。素敵な学校でしょう? きっと、楽しく過ごせると思う」
まっすぐに聡美を見返す塔子の頭を、聡美は優しく撫でる。
「だからおかあさんも、楽しく仕事してきて」
「はいはい」
言いながら、聡美は塔子の頭をくしゃくしゃにした。
何するのよ、と声を上げると聡美の顔が眼前にある。
「あんまり、急いで大人になろうとしなくていいんだからね。早く大人になられると、こっちが寂しいんだから」
聡美は笑う。
「まあ、何かあったら、連絡しなさい。何もなくても連絡してね」
「……うん」
聡美はまた塔子の頭をくしゃくしゃにする。髪が乱れたが、今度は塔子も何も言わなかった。
「塔子、いくよぉ」
頭の後ろでよく通る声がして、振り返ると同級生の紗也加だった。
講堂から校舎にのびる林道の方で手を振っている。それに合わせて、紗也加のポニーテールの髪の先が左右に跳ねた。紗也加は聡美の存在に気づいたようで、小さく会釈してみせる。
「今いく!」
紗也加に手を振り、塔子は呼びかけた。聡美もにこやかに会釈を返す。
「もう友達ができたの? 可愛い子ね」
「うん。寮で知り合ったの。織部紗也加さん。同じクラスなの」
寮の部屋は二人一部屋であり、一年生と二年生がペアで割り当てられる。紗也加は塔子の隣の部屋に振り分けられていた。出会ってすぐに同学年という気安さもあり、意気投合していたのだ。
「友達もいるなら、安心ね。ホームルームがあるんでしょう? もう行きなさい。また、現地に着いたら連絡するわ」
「わかった。わたしも連絡する。気を付けてね」
「塔子もね」
聡美は晴れやかに笑った。塔子はしっかりと頷き、紗也加の待つ方へ小走りに駆けていく。途中でふと立ち止まり、もう一度大きく聡美に手を振ってみせた。聡美も振り返して見送る。
そのまま林道の木漏れ日の中へ入っていく塔子の背中を、聡美はずっと見守っていた。