花霞
〈1〉
わたしの学校の七不思議の最後の一つ、
「花霞」
。
その存在は、わたししか知らない。
裏門のそばにある一本の大きな桜の木。樹齢二百年といわれているが、本当のところはわたしは知らない。ただ、わたしの学校にあった七不思議、紫のドレスの女性、教室の子供、夜の図書館、プールの魚、昇降口脇のトイレの話、校章。そして最後の一つがこの桜の木、
「花霞」
。それを知っているのはわたしだけだ。六不思議まではみんな知っているけど、七不思議を知ってしまうと
「何か」
が起こるらしい。
その
「何か」
はわたしも知らないけど。
〈2〉
中学のころ、その場所はわたしのお気に入りだった。暇があるといつもその場所にいたものだ。
初めて
「花霞」
に会ったときの事をまだ覚えている。
あれは、中一の春。入学して間もないころ。
中学入学と同時に引っ越してきたばかりで、友達は一人もいなかった。もちろん、クラスでは浮いてしまった。
教室にいるのもいやになって、いつも裏庭にいた。ここは人が来なくて、よく一人で泣いたものだ。
そんなとき、花霞に会った。
薄桃色の花びらを両手いっぱいに抱え、花霞は立っていた。時折風がその花びらをこぼしていく。
一面の、桜。桜。桜。薄桃色の、海。
あったかかった、花霞は。
それ以来、わたしはここに通うようになった。
夏、緑色の枝葉で強い日差しを遮ってくれた。
秋、色を変えこぼれる葉をわたしは追いかけた。
冬、花霞はわたしの上にいたずらに雪を落とす。
そして春、花霞が一番美しい季節になる。
それが一年。
時間はゆっくり、同じペースで過ぎていった。
〈3〉
二年になって友達ができても、わたしは暇があると花霞の側にいた。
そのころ、この学校の六不思議を知った。
でもね、本当は七不思議なんだよ。真帆が言う。
え?
だから、七不思議なんだけど、誰も七番目を知らないの。
どうして?
さあ、もとからないのかもしれないし、ただ、七番目を知っちゃうと
「何か」
が起こるんだって。
真帆が言った、六不思議。
一つ目、紫のドレスの女性。西校舎一階を夜、紫のドレスを着た女の人が歩いているらしい。
二つ目、教室の子供。中央校舎四階の教室を、子供が駆け抜けている。
女の子だったり、男の子だったり。とにかく、教室から教室を走っている。
三つ目、夜の図書館。夜になると図書館が変わるらしい。
何に変わるの。亜希子が訊いた。
真帆が答える。さあ、異次元かな。行くと戻れなくなるから。
四つ目、プールの魚。プールには診たこともない魚が住んでいるらしい。
・・・誰かが飼ってるんじゃないの。
馬鹿なこといわないでよ。
五つ目、昇降口脇のトイレ。
花子さん?
はずれ。なんか、水が流れなくなるんだって。
それってふるいだけじゃないの。
うーん、そうかもねえ。
六つ目、校章。
東校舎の校章の下、黒ずんでるでしょ。あそこに何か出るらしい。
何かって何?
誰も見たことがないのよ、見た人は死んじゃうって。
無理やり作ったような六不思議。
で、七つ目は?
だから、わからない。
ヒントとかないの?
確か・・・
「花」
がどうだかって・・・花に関係するらしいんだけど。先輩も探したけど見つからなかったって。
ふーん。
花。
その話はそれで終わったけど。わたしはその、
「花」
というのが、なんとなく気になった。花霞のような気がして。
〈4〉
やっぱ、そうなんだ。 次の日の朝早く、わたしは確かめに花霞に会いに行った。
七不思議の最後のひとつは、花霞だった。
知ったから、どうってことじゃないんだけど。でも、なんでみんな知らないの?
花霞は黙っていた。返事の代わりにさらさらと若葉を揺らした。
花霞、あなたが好きだからね。
そう言ったら、花霞は嬉しそうだった。
七番目の不思議を知ったら起こる何か。花霞は教えてくれなかったけれど、わたしは創造に胸を膨らませていた。
このときは、花霞と別れるなんて、思ってもいなかった。
まだ、13歳の夏。
〈5〉
先生の言葉に驚いた。
二月、引越しの準備が進んでいる最中のことだった。春、この学校は校舎を引っ越す。
花霞が切り倒される。
歳をとりすぎていて、向こうの校舎まで運べない。
わたしは急いで花霞のところまで行った。
花霞は本当だ、と言った。この前の人たちが言っていたし、何より、自分は既に枯れ始めているのだ、と。
やだよ。切られちゃうなんてやだよ。
久しぶりに涙がこぼれた。花霞の前でないたのは本当に久しぶりだった。
泣かないでって言われても、涙はあとからあとから溢れてきた。
あと、一ヶ月もないんだね。
一緒にいられるの。
花霞が動いた。
ちょっと待って。
そして、わたしにくれた。
「種」
、だった。
これ・・・花霞の・・・?
花霞は笑った。葉のない枝を揺すって。
もうすぐ、新しい芽が出そうなのに。
幹に抱きつき、わたしは泣いた。
離れたくない。
別れじゃないと、花霞は言った。その種の中に
「花霞」
はいると。
だから。
いままでにないくらい、泣いた。
別れは近づいてくる。十四の、冬。
〈5〉
そのまま、わたしは高校を卒業した。
卒業式の後、わたしは久しぶりに花霞に会いに行った。
見て、驚いた。
花。
花が咲いていた。一本だけ。若い木が、薄桃色の、桜の花びら。
おめでとう。卒業おめでとう。
そんな花霞の声が聞こえた。小さく、優しく。
胸がつまる。湧き上がるものにわたしは目を閉じ、そして開いた。
そのとき、わたしは桃色の海の中にいた。
春香、ここにいたんだ。
ふわっと、現実に戻った。目の前は桜の海はなく、ただ、まだ葉もつけていない若木が、立っていた。
どうしたの?
うん。泣いてるの。悲しいんじゃないよ。嬉しいんだ。
春香。
あのね、七不思議の最後、わたし知っていたの。
二人とも、訳のわからない顔をしていた。
わたしは笑った。とびっきりで。
花霞の話は泣いていてはできない。
あのね、桜の木なの。
六年前に出逢った、大きな木の話。
わたしに優しさをくれた、桜の話。
「花霞」
はね・・・
ありがとう。
会えて、よかった。
そう、心から思った。
わたしは今、
「花霞」
の思い出を整理するためにこの物語を書いている。
今も花霞は学校の裏庭にいるそうだ。
新しい校舎の、新しい七不思議のひとつとして。
ただ、残りの六つの不思議は、まだない。