二人だけの世界
ある日の、一時間目の授業が終わった後の休憩時間。
珍しく、美晴が福太郎の教室を尋ねて来た。
普段、福太郎が美晴の教室を尋ねる事はあっても、その逆はあまりない。よって、福太郎と玄吾はもちろんの事、福太郎たちのクラスメイトまでもが意外そうな顔を美晴へと向けた。
「ねえ、福太郎。ちょっといい?」
「はい、構いませんよ」
いつもの如く、柔らかくにっこりと微笑む福太郎。それだけで教室の片隅から小さな歓声が聞こえるが、いつもの事なので福太郎も玄吾も美晴でさえも気にしない。
「実は夕べ、ウチのお父さんから連絡があってね。タランドゥスのペア、それもオスが八十ミリオーバーの個体が入荷したそうよ」
どうする? という美晴の言葉は、形式だけのものでしかなかった。なぜなら、タランドゥスの八十ミリオーバーと聞いた福太郎の瞳が、眼鏡の奥で鋭く光ったのだから。
「もちろん、買います。カワラタケ系の菌糸ビン……できればポリビンは『すたっぐ・B』で取り扱っていますか?」
右手の中指で眼鏡を修正しながら、いっそ鋭いと言っていい眼光で福太郎が逆に尋ねる。
「うん。確かカワラのポリビンは扱っているはずだけど……珍しいわね。福太郎って菌糸ビンはガラスビン派でしょ?」
「ええ。幼虫を育てるための菌糸ビンはガラス派ですが、今回のタランドゥスは菌糸ビンに直接産卵させてみようかと思いまして」
「菌糸ビンに直接……? マット産みや産卵木じゃなくて?」
「はい。産まれた時から幼虫が菌床を食べれば、それだけ大きな成虫になる可能性が高いと聞きまして。丁度いいので今回のタランドゥスで試してみようかと」
「なるほどね。それで幼虫が取り出し易いようにガラスビンじゃなくてポリビンなのね」
「ええ。ポリビンならナイフで簡単に切れますからね。幼虫を傷つけずに菌床から取り出すのには向いています」
ぽんぽんと飛び交う「二人だけの会話」。周囲で彼らの会話にそれとなく耳を傾けていた者たちは、ぽかんとした表情で二人を見ている。
唯一、こんな会話に慣れている玄吾だけが、二人を生暖かく見守っていた。
美晴が自分の教室へ戻ると、席が近い男子のクラスメイトの一人が、呆れた顔で福太郎へと声をかけてきた。
「おい、幸田。おまえって、自分の彼女とあんな会話ばっかりしているのか?」
「もちろん普通の会話だってありますよ? ですが、お互い趣味が共通していますからね。どうしても趣味の会話になる機会は多いですね」
「……にしたってよぉ……」
そのクラスメイトは、先程の福太郎と美晴の会話を思い出して苦笑する。
席が近かったので聞く気がなくてもその会話は聞こえてきたのだが、はっきり言って何を話しているのか全く判らなかった。
それに、曲がりなりにも「恋人同士」の会話なのだ。教室の中で甘い言葉を囁けとは言わないが、もう少しそれらしい雰囲気があってもいいのではないだろうか。
呆れ顔のそのクラスメイトに、玄吾が更に呆れ返った顔で無駄だと告げた。
「コウフクと美晴ちゃんはいつでもあんな感じだからさ。二人の会話を聞いていると完全に『二人の世界』だもんな。もちろん、良くない意味での『二人の世界』だけど」
得てして、マニア同士の会話とはそんなものだろう。
マニアにしか判らない専門用語を用いた会話は、それに興味のない者からすれば未知の言語にも等しい。
その日の放課後。
福太郎は美晴の家を訪れていた。
あの日……福太郎が美晴への想いを告白したあの夜以来、福太郎は初めてここを訪れる。
「これは……」
その福太郎の目が、再び鋭く光る。
美晴のアパートのリビングに使っている部屋の真ん中に置かれたローテーブル。そのローテーブルの上に、中型のプラケースが置かれていた。
ケースの下側三分の一ほどを飼育用のマットを敷き、その上に転倒防止用の止まり木と、底の浅い平たいプラスチックの皿に入った餌のゼリー。そのゼリーを、黒々とした生物がブラシ状の口で一心不乱に吸っている。
「ホンドヒラタですか」
「うん。この前、いつもより朝早く目が覚めちゃって。ついでに近所を散歩していたら、道路の上をのこのこ歩いているのを見つけたの。それでつい……」
偶然見つけたクワガタを、つい拾ってしまったのだろう。
今日、福太郎がここを訪れたのは、美晴がヒラタクワガタを拾ったと聞かされたためだ。
結構大きな雄だと聞き、それこそ彼のマニアの血が騒ぎ、現物を見せてもらうために美晴の部屋を訪れたのである。
「しかし、本当に立派な雄ですね。七十ミリは確実に超えていますよ」
今の季節は秋。カレンダーで言えば九月の下旬。
本来ならクワガタが野外で活動するような季節ではない。
おそらく、このクワガタはどこかで飼育されていたものが逃げ出したのだろう。
意外と思われるかもしれないが、飼育下ではこの季節でもクワガタは活動している。
特にオオクワガタやコクワガタ、ヒラタクワガタなどの成虫での越冬が可能な種類は、九月一杯ぐらいまでは活発に活動し、そして成虫のまま越冬する。特に大型のヒラタクワガタやオオクワガタなどは、三年から四年ほど生きる場合もあるのだ。
もちろん、これは飼育されている時に限ってであり、野外では八月の下旬になると姿を見かけなくなるし、成虫のまま越冬するのは稀である。
「それで、このヒラタを飼うのですか?」
「うん、そのつもり。今の季節に外へ逃がしたら、間違いなく死んじゃうからね。だから、ここで冬を越させてあげようと思う」
ローテーブルに頬杖を付き、きらきらとした目でケースの中のクワガタを見詰める美晴。
そして、福太郎はそんな美晴を優しげな眼差しでずっと見ていた。
その後、美晴の部屋は間違いなく「二人だけの世界」だった。
とはいえ、それは決して甘いものではない。
二人がこれまで飼っていたクワガタの数や種類、その大きさなど、福太郎と美晴は心行くまで互いに語り合った。
思えば、福太郎も美晴もここまでクワガタの事を話し合えた相手はいなかった。
美晴は父親がクワガタマニアだったので、まだこのような会話をする事はあったが、それでも同年代でここまで話せる相手は貴重である。
福太郎もまた、こうして普通にクワガタの会話ができる相手は初めてだ。
男友だち──それも小学生時代なら一緒に虫取りにいった友人もいたが、それも年齢を重ねると共に少なくなった。
一人でクワガタを飼っていても、確かに楽しい。
だが、こうして同じ喜びを分かち合える相手がいれば、その楽しさは倍増する。
その事を、福太郎も美晴も実感していた。
そして楽しい時間はあっという間に過ぎ、ふと気づけば窓の外が赤く染まっている。
「おや? いつの間にかこんな時間ですか。そろそろ、お暇しなければ」
「あ、うん……」
腰を上げた福太郎。そんな彼に美晴はどこか残念そうな顔を見せる。
「………………いいから」
「はい?」
小さな、小さな美晴の声。上手く聞き取れなかった福太郎が彼女の方へと振り向けば、美晴は顔を赤く染めてじっと下を見ていた。
「……福太郎さえ良ければ、いつでもここに来ていいから。だって……だって、私たちはそ、その……」
美晴の顔は更に赤くなり、今では耳までが朱に染まっている。
自分で自分が言っている事が恥ずかしくて、美晴はとてもじゃないが顔を上げられない。
そんな美晴の耳に、ささっと何かが近付くように床を滑る音が届く。そして、自分のすぐ近くに人の気配。
思わず顔を上げる美晴。すると、福太郎がいつものような優しげな笑みを浮かべて立っている。
考えてみれば、今この部屋にいるのは美晴と彼のみなのだ。その状態で人の気配があれば、それは当然福太郎なのだが、今の美晴にはそこまで考えがおよばない。
「はい。美晴さんさえ良ければ、僕はいつだってここへ来ます」
笑みを絶やすことなく、そっと伸ばされた福太郎の手が美晴の頬に優しく触れた。
美晴の目は、じっと自分を見る福太郎の目を見たまま動かない。いや、動けない。
福太郎も、同じように美晴の目をじっと見詰めたまま。
どれくらいそうしていただろうか。
やがて互いの顔がどちらからともなく、徐々に距離を詰めていき。
窓から差し込む赤い光が、部屋の中に多くの影を生み出す中で。
その影の内の二つが──より正確に言えば影の一部が──そっと重なるように一つになった。
『魔法のコトバ』更新。
本当ならもう少し後日に更新する予定でしたが、なんかすらすらと進んだので更新します。
うん。こんな日もあるんだね!
そして、内容的には少しばかり恋人らしい福太郎と美晴の描写も。これまで、付き合っているのに全然恋人っぽくない二人だったので、少しぐらいはこういうのもいいのではないかと。
この『王子と付き合う魔法のコトバ』の番外編も、後一話か二話で終わる予定です。
もう少しだけ、お付き合いください。
では、よろしくお願いします。