02-イケメンコンビ来訪
その日、伊勢美晴の気分は最悪だった。
昨日、最近一人暮らしを始めたアパートの部屋に帰ると、冷蔵庫の中がほぼ空なのに気づいた。
学校帰りに買い物してくれば良かったなぁと思いつつ、財布とエコバックを持って再び家を出た。
近所のスーパーで必要な食材と雑貨の消耗品を幾つか購入し、これから帰って夕食を作るのも面倒臭いなぁと思いつつ歩いている途中、不意に背後から響く金属音に慌てて振り返れば、自分目がけて猛スピードで突っ込んでくる自転車。
びっくりして飛び退き、背後からの自転車──運転しているのは空気の読めなさそうなおばちゃんだった──と衝突しなくて済んだものの、飛び退いた際に食材を詰め込んだエコバックがガードレールと軽く抱擁。運悪く卵が数個昇天してしまった。
軽く凹んだままアパートに戻り、卵にまみれた食材や雑貨を何とか処理。そして気づけばその時点でもう八時を回っていた。
それから夕食を作る気にもなれず、非常食として買い置いてあったインスタント食品を夕食代わりにして、それから翌日の学校の準備に取りかかる。
その際、生徒手帳の紛失に気づいた。
それでなけなしのやる気もへし折られ、そのままベッドにダイブ。
翌朝、目覚めてみれば今度は時間ぎりぎり。
朝食も摂らずに慌てて身支度を整えてアパートを飛び出し、学校に着くなり事務局へ駆け込み──そのため、いつもより早く登校しなければならなかたのだ──生徒手帳の紛失を告げた。
そこで煩雑な手続きのための用紙を貰い教室へ舞い戻る。
HRぎりぎりで教室に戻り、心身共に疲れきったまま一限目の授業に突入、そして授業が終了してようやく美晴は一息つけた。
だが、その束の間の休息はあっけなく消え去ることになる。なぜなら、とんでもない来客が彼女の元を訪れたからだ。
「いやふー。みはルーン」
美晴に声をかけて来たのは級友の堂上真琴。
背中の中ほどまである明るい茶髪を、頭の横の部分でツーテールにしている彼女は、入学してから約二ヶ月、いまだに親しい友人のいない美晴にとって数少ない接点のある級友だった。
「何か用事? 堂上さん」
ずれた黒縁の眼鏡を直しながら顔を向けた美晴に、真琴はにんまりとした笑みを浮かべる。
「もー、みはルンは相変わらず冷たいなー。私の事は真琴って呼んでって言ったのに」
「はいはい、気が向いたらね。それで? 何か用事じゃなかったの? それから私のことを『みはルン』呼ぶな」
「おー、そうだった! みはルンにお客さんだよん」
くいくいと親指で廊下を示す真琴。
同時に、クラスの中が異様にざわついている事に美晴は気づいた。
特に一部の女子が、ちらちらと自分を見ている事にも。
「ね、ね、ね、みはルンってば、一体いつの間に王子と面識ができたン?」
「は? 王子ぃ?」
「あれ? 違うの?」
きょとんとして見つめ合う美晴と真琴。
「ま、いいや。取りあえず、廊下で王子が待ってるよン。早く行った方がいいんじゃないかナ?」
と、真琴はにまにま笑いを消すことなく、美晴の手を引いて廊下へと導く。
そいて、教室の出入り口で、がんばれーと無責任な一言と共に、美晴の背中を押して廊下へと追い出した。
「とと──。一体何なのよ、もう……」
背中を押されてつんのめった態勢を整え、視線を前へと向ければ、そこには真琴の言葉通り、確かに王子がいた。
それも二人も。
「まさか、隣のクラスにそんなディープな奴がいたとは……」
今朝、教室に入るなり玄吾は、福太郎に半ば拉致するかのように連れ出され、昨日の出来事を聞かされた。
福太郎に手を引かれて教室から出る際、クラスの女子の一部が何やら黄色い声を上げていたような気がするが、きっと気のせいに違いない。
「でもよぉ、そいつは単に例の雑誌を買ってたってだけだろ? 誰かに頼まれて買ったのかもしれねえぞ?」
「ええ。その可能性ももちろんあります。だからこうして見極めようとしているんですよ。ところで……」
福太郎は隣に立っている長年来の友人を一瞥する。
「どうして玄吾までここにいるのです?」
彼らが今立っているのは一年二組の前の廊下。
福太郎は昨日拾った生徒手帳を持ち主に届けに来たのだが、それに玄吾まで付いて来たのだ。
「え? そりゃあ、そいつがどんな奴か見てみたいじゃねえか」
「要するに野次馬ですか」
「まあ、そういうこった。おっと、来たぞ。あいつじゃね?」
玄吾に促されて見れば、一人の黒縁の眼鏡をかけて髪を大きな三つ編みにした女生徒が、友人に背中を押されて廊下につんのめりながら出てくるところだった。
──間違いない。昨日の彼女だ。
その女生徒を見た福太郎は内心で頷く。確かに、昨日本屋ですれ違い、生徒手帳を落として行った女生徒に間違いない。
そしてその女生徒が崩れた態勢を立て直し、改めて自分たちの方へと視線を向けている。
──さあ、見極めさせて貰いましょうか。
今度は実際に頷いた福太郎は、ポケットの中から生徒手帳を取り出すと、その女生徒の方へと歩き出した。
廊下に立っていた二人の男子生徒。確かにその二人は揃って美形だったが、そのタイプは真逆と呼んでいい程離れていた。
二人とも長身なのは共通だが、片方はすらりとした細身なのに対して、もう一人はがっしりとしたスポーツマンタイプ。
髪も片方は柔らかそうな黒髪だが、もう片方は硬そうな濃い茶色の髪をつんつんと逆立てるようにしていた。
性格も一見しただけだが、一人は穏和そうでもう一人はやんちゃそうだった。
「伊勢……美晴さん……ですね?」
二人のうち、温和そうな眼鏡をかけた方が自分の名前を呼ぶ。
「えっと、そうだけど……あなたたちはどちらさんで、どのようなご用件?」
「これは失礼しました。僕は一年一組の幸田福太郎。こっちは友人の中山玄吾です」
福太郎に紹介された玄吾が、にっこりと笑いながらひらひらと手を振った。
「はあ、幸田くんに中山くんね。それで? 用件はなに?」
「はい。わざわざお呼び立てしたのはこれです」
福太郎は手にしていた生徒手帳を美晴の前に差し出した。
「あっ!」
当然、美晴もそれが昨日落とした自分の生徒手帳であろう事には察しがつく。
「実は昨日、偶然この生徒手帳を拾いまして。ああ、失礼とは思いましたが、最初の身分証明書の部分だけ拝見させていただきました」
「あ、ああ、うん、気にしないで。誰のものか確かめるためでしょ? 私も気にしないから」
「一応、中身の確認をお願いします。破損していたり、何かなくなっていたりすると大変ですからね」
そう言われて、美晴はその場でぱらぱらと生徒手帳の中身を確認する。
「……うん、大丈夫そう。特に破れたりはして────」
生徒手帳をめくっていた美晴の手が不意に止まる。
「……どうかしましたか? どこか破損している箇所でも?」
涼しい顔でそう尋ねる福太郎を、美晴は一度だけ鋭い目つきで見詰めるとぱたんと生徒手帳を閉じる。
「わざわざ届けてくれてありがとう。用件はこれだけよね? じゃあ私、生徒手帳が見つかった事、事務局へ報告に行くから」
踵を返し背中越しにそう告げた美晴は、足早にその場を後にした。その進行方向からして教室に戻るのではなく、先程の彼女の言葉通り事務局へと行くようだ。
そんな彼女の後ろ姿を笑顔で見送った福太郎は、少し背後にいる玄吾へと振り返る。
「どう見ます?」
「ありゃ脈ありだろ。どう見てもよ」
「ええ、僕もそのように感じました。ふふ、これは面白くなって来たと思いませんか?」
「程ほどにな。おまえは突っ走りだすとすぐに手加減を忘れるからよ」
「ええ。焦らずじっくりといきます。じっくりとね」
そう言って微笑む福太郎を見て、玄吾は心の中だけで先程の少女にこっそりと合掌した。
ずんずんと廊下を歩く美晴。
目的地は先程福太郎に告げたように事務局。だけど、心は全く別の場所に飛んでいた。
(ばれた……っ!! ばれた……っ!? ……でも、どうして判ったの……? 私、高校に入ってからあれの事は誰にも話していないのに……)
美晴の心を占めるのは、先程見かけた一文。
福太郎から手渡された生徒手帳。その白紙ページの片隅に書き込まれていた一文が、美晴の心を揺れ動かす。
(あれを書いたのはあいつら……いや、あいつらじゃない。あれを書いたのは眼鏡の方だ)
先程出会った二人の美形。そのうちの一人、眼鏡をかけた温和そうな方の顔を美晴は思い出す。
美晴にはなぜか確証があった。生徒手帳に書き込まれた一文は、あの眼鏡の方が書いたに違いないという確信が。
足を止め、美晴はポケットから生徒手帳を取り出すと、先程見かけたページを開き、そこに書かれていた一文をもう一度見直す。
生徒手帳の白紙ページ。その最後のページの下の方にその一文は書き込まれていた。
──「Dorcus hopei binodulosus」と「Lamprima adolphinae」、どちらがお好きですか?
『王子と付き合う魔法のコトバ』を更新しました。
いや、表示されたページの中で話が一話しかないのが何となく寂しくて……。つい、こちらを書いてしまいました。
そういえば前回、さっそく感想をいただきました。しかも例の魔法のコトバのうち、「Dorcus hopei binodulosus」がお判りになるそうで。いや、こんなに早く判るって人が現れるとは思わなかった。
きっと他にも判った人はいるんだろうなぁ。
もし、他にも判った方がおられましたら一言、「へへへ、判っちゃったぜー」とお知らせください。きっと作者がじたんだ踏んで悔しがる事でしょう。
それでは、次回がいつになるのか判りませんが、よろしくお願いします。