15-すたっぐ・B
鳴海の婚約騒動から少しばかり時間が過ぎて。
期末試験も終わり──福太郎という存在のおかげで、美晴と真琴の成績は上昇──、学校は目前に迫った夏休みの話題一色だった。
そんなある日の昼休み。
いつもの面々がいつものように生徒会室で昼食を摂っていると、福太郎の携帯電話がメールの着信を告げた。
昼食を摂る手を休め、福太郎はメールを確認する。その内容を読み進めるうち、彼の表情がだんだんと険しくなっていく。
「どうしたの?」
福太郎の隣に腰を降ろしていた美晴が、彼の顔を覗き込むようにして問う。
あれから。
美晴が鳴海の発言を誤解し、仮病を使って学校を休んだ翌日から。
彼女は少し変わった。
今までのように髪を三つ編みにすることなく真っ直ぐ背中に流し、伊達眼鏡もやめた。
そんな美晴に、福太郎も玄吾も真琴も鳴海も何も言わなかった。
唯一、留美がどういった心境の変化かと尋ねてきたが、美晴はちょっとした気分転換だと当たり障りのないことを答えておいた。
福太郎に似合うと言われたから、などという本心は絶対に美晴は口にしない。例えどんな事があっても。
「……由々しき問題です」
携帯電話から視線を上げ、福太郎は重々しく口を開く。
「どうしたんだよ、コウフク?」
「実は、僕が馴染みにしているショップが閉店する事になりまして……」
先程のメールはそのショップの店長からで、折からの業績不振のため、今月一杯をもって店を畳むとそのメールには記されていたのだ。
「へえ、福太郎くんが馴染みにしているショップかー。で、一体何のお店なの?」
興味津々といった風に身を乗り出す真琴。
「もちろん、クワガタの生体や成虫幼虫の餌、その他産卵用の材などを取り扱っている昆虫ショップです」
「…………あーそー……」
思わず呆れた視線を福太郎に注ぐ真琴。何というか、如何にも彼らしい答えだった。
「中々品質の良い製品を手頃な値段で売っている店だったのですが……閉店とは残念でなりません。季節的に国産オオの産卵も佳境に差しかかり、これから大量の幼虫用の餌となる菌床が必要になるのに……」
福太郎が言うように、国産のオオクワガタの産卵のシーズンはだいたい八月から九月頃まで。オオクワガタはその後は越冬の準備に入り、徐々に餌も食べなくなるのだ。
彼が今年産卵させたオオクワガタは2ペア。それぞれのペアがおおよそ15から20個の卵を産卵するので、合計で40前後の菌糸ビンが必要になってくる。
「それなのに、肝心の菌床が手に入らないなんて……実に由々しき事態です」
事態の重大さに一人思い悩む福太郎。
そんな福太郎を無視して、玄吾と真琴、そして鳴海は淡々と昼食を摂る作業に戻っている。
しかし、事の重大さを理解している者が一人だけいた。
「他のショップで買えばいいんじゃない?」
美晴がもっともな提案をする。
「それが、この近所で菌床を扱っている店はあまり多くはなく、しかも品質がいいとは言えないものばかりで……正直言って、今まで愛用していた店の菌床以下なので使いたくないのです」
「じゃあ、ネット通販は? 実績のある店や有名店の菌床を取り寄せるのはどう?」
「僕は少なくとも、一度は現物をこの目で見て選ばないと納得できない性でして。ですから、いきなり通販はちょっと……」
美晴の提案を福太郎は様々な理由を設けて却下していく。
提案する美晴も半ば呆れているが、まあ、マニアとはこういうものだろうというのも判るので何も言わない。
彼女自身、いくら安いからと言っても、海の物とも山の物ともしれない物を買ったりはしないタイプなのだ。
「じゃあ……じゃあさ、幸田くんさえ良かったら、だけど……」
どこかもじもじとした様子で、美晴が提案する。
「私がお薦めのショップがあるんだけど……今度、一緒に行ってみない?」
「美晴さんの……ですか? ええ、美晴さんのお薦めなら期待できそうですね。是非連れて行ってください」
「うん。だけど、ちょっと遠いんだ。それでもいい?」
「道さえ案内してくれれば構いませんよ。どうせ帰りは荷物も増えるでしょうからバイクで行きましょうか」
こんな二人のやり取りを、残る三人は決して二人の方を見ようとはせず、内心でにやにやしながら聞き耳だけは立てている。
「それで、そのショップの名前は何というのです?」
「すたっぐ・B」
それから数日後の日曜日。
美晴が借りているアパート前まで、福太郎はバイクでやって来た。
彼いわく、「わざわざ案内してもらうのですから、家の前まで迎えに行かせてください」との理由から、こうして彼女の部屋の前まで来たのだ。
本日、「すたっぐ・B」という昆虫ショップに向かうのは福太郎と美晴の二人だけ。
玄吾や真琴たちは興味がないのか、それとも気を利かせたのか、一緒には行かないと言っていた。
そして福太郎が美晴のアパートの前に到着してから数分。美晴が部屋から出てきた。
「お待たせ。ごめんね、少し遅れて」
「構いませんよ。女性を待たせるより男の僕が待つ方が断然マシですから」
いつもの爽やかな笑顔を浮かべながら告げる福太郎。
そんな福太郎の顔を見て、美晴は自身の頬が熱を持つことを自覚する。
以前は、彼の顔を見ても、「実に整っているなー」とか「無駄に爽やかだなー」といった感想しか沸かなかったのに、最近ではなぜか彼の顔を見ると身体が熱くなる事が多い。
今日もにわかに熱を帯びた頬に片手の掌を当てて急いで冷ます。
「じゃあ、行きましょうか。時間的に途中でどこかでお昼を食べますか?」
「え? あ、ああ、そ、そうね。そ、そうしようか」
美晴は慌てて福太郎から予備のヘルメットを受け取り、バイクの後席へと座る。
幸いにも、彼が用意してくれたヘルメットはバイザーがメタルシェードのものなので、他人から顔を見られることはない。
もちろんこれは、校則で禁止されているバイクに乗っている事がばれないようにとの処置からだったが、今の美晴にはこのバイザーがとてもありがたかった。
このバイザーがあれば、誰にもこの熱を持った頬を見られる事がないのだから。
「では行きますよ。しっかり掴まっていてください」
福太郎自身もメタルシェードのヘルムを被り、バイクを発進させる。
目的地である「すたっぐ・B」の住所は予め美晴から聞いており、だいたいの下調べは事前にしておいたので、後は現地が近くなってから美晴に案内してもらえばいい。
福太郎はいつもように気軽に、それでいて背後にいる美晴を気遣いながら軽快にバイクを走らせた。
途中、適当なファミレスで昼食を摂る。食事中や道中はクワガタの話題で大いに盛り上がる二人。
昼食の間中、若い女性客やアルバイトの女性店員からの視線が福太郎に集まっていたが、すっかり盛り上がっていた彼らはそれに気づくこともなく。
そして楽しげにファミレスを後にする二人に、いつまでも視線が向けられていた事にも当然気づいていない。
ファミレスからしばらくバイクを走らせていると、徐々に背後の美晴からの指示が増え、それに従って福太郎はバイクを操る。
やがて、「すたっぐ・B」という店の看板と、店の前に展示されている巨大なノコギリクワガタのオブジェが彼らの目に飛び込んで来た。
「……これはまた、何とも判りやすい目印ですねぇ」
「でしょ?」
九階建ての雑居ビルの一階部分──店舗スペースは四階までで、5階から上は賃貸マンション──に入っている「すたっぐ・B」という昆虫ショップの前に、そのオブジェは鎮座していた。
全長2メートルほど。触れてみるとそれはコンクリート製で、重量はかなりのものがあるだろう。
半分に切断した丸太の上にノコギリクワガタがとまっている姿のそのオブジェは、良くも悪くも確かによく目立ち、判りやすい。
「幸田くんはちょっとここで待っていてくれる? 中で少し話をしてくるから」
「判りました。話が終わったら呼んでください」
そう言って、美晴は福太郎を残して店へと入って行った。
一人残された福太郎は、再び巨大なノコギリクワガタのオブジェへと目を向ける。
じっくりとそのオブジェを見詰め、ほぅと溜め息を一つ。
「いい趣味ですねぇ。僕の家にも是非、一つ欲しいところです。ですが……」
もしも本当にこんな物を家に置こうものなら、近い将来一緒に暮らす事になる鳴海が怒涛のごとく反対するだろうと想像しながら、福太郎はオブジェを熱心に見詰めた。
店の出入り口の自動ドアが開き、来客がある事を告げる。
この店の店長である明義は、棚に並べられた成虫に餌を与えていた手を休め、笑顔で来客を迎える。
「いらっしゃいま──」
しかし、客の顔を見た途端、その笑顔が凍りついた。
「………………」
入って来た客もまた、無言で明義を見詰める。
「…………美晴……? どうしておまえが……?」
ぽつりと零した明義の一言に、美晴ははにかんだ笑みを浮かべる。
「……ただいま……で、いいのかな?」
「ああ。それでいいんじゃないか? ここはおまえの家なんだから」
と言って、いまだに入り口から一歩も踏み込まないでいる美晴に、明義はにっこりと微笑んだ。
『王子と付き合う魔法のコトバ』更新。
本日はなんと『魔獣使い』に続いて二本目の更新ですよ。いや、びっくり。
何か調子が良くて筆が進む進む。
当『王子と付き合う魔法のコトバ』も気づけば十五話。そろそろ完結も見えて来ました。
おそらく、二十話から二十五話ぐらいで完結するんじゃないかと思われます。
今回、作中で出てきた昆虫ショップのオブジェですが、実在する昆虫ショップがあります。
ただし、実在する方はノコギリクワガタではなく、カブトムシですが。
自分が行きつけだった昆虫ショップだったのですが、店舗が移転してしまって行くに行けないようになってしまい、それからクワガタの飼育をしなくなりました。
作中の福太郎ではありませんが、そのショップの商品は品質が良くて安かったので、正直他のショップの商品を使う気になれなくて。
現在では最後の国産オオクワガタのオスが一匹とメスが三匹が生き残っています。
こいつらが昇天したら、本当にクワガタの飼育はおしまいになるかと。
まあ、子供と一緒にカブトムシでも捕まえに行って、ひと夏だけ飼うのもいいかなとは思いますが。
ちなみに、家の子供は女の子(現在七歳)ですが、芋虫だろうがナメクジだろうが平気で素手で触る剛の者です(笑)。