01-学園の王子
ゴールデンウィークも終わった五月下旬。
四月にここ、神無月高校に入学した新一年生たちも落ち着きを見せ、中には所謂「五月病」に罹る者も出始める頃。
今、神無月高校では一人の男子生徒が注目を集めていた。
180cmを超える長身にすらりとした体型。短くてもさらりとした柔らかそうな髪に、優しげな雰囲気の非常に整った容貌。
温厚な性格で人当たりも良く、品行方正でスポーツ万能。入学して二ヶ月弱で同性異性問わず他生徒からの信頼もある。
縁なしの四角い眼鏡を愛用し、入試の成績も準主席。そして現在では生徒会の副会長までも務めている。
神無月高校の生徒会は会長以外は会長の指名制である。
会長こそ前年度に全校生徒の選挙で選ばれるが、会長以外の生徒会スタッフは全て会長に一任されている。
そして彼は、入学早々現生徒会長から指名され、副会長の役職に就いているのだった。
天から二物どころか五物も六物も与えられた彼の名は幸田福太郎という。
欠点らしい欠点は、外見と名前があまりにもミスマッチなところか。
彼と親しい者は彼の名字と名前を短縮して「コウフク」と呼ぶ。しかし、彼にはもう一つ、全校生徒が知る渾名があった。
それは「学園の王子」。
とある大きなグループ企業の経営者の血族でもあり、見た目と合間ってまさに「王子」と呼ぶに相応しい福太郎。
当然、彼に想いを寄せる女子生徒は後を断たない。
入学して二ヶ月も経たない内に、同級生は言うに及ばす先輩である二年生、三年生からも数多くの想いを打ち明けられる経験をした。
しかし、福太郎は今まで誰とも付き合った事はない。
なぜなら──
「──こ、幸田くんっ!! わ、私とお付き合いしてくれませんかっ!?」
顔を真っ赤にしながらも、一人の女生徒が福太郎に告げた。
その顔は俯いた際に前髪で覆われて見えない。だが、ぎゅっと目を瞑り、福太郎からの返事を待っているのだろう事は容易く想像できる。
背中の中ほどまで真っ直ぐに伸ばされた黒髪の一部が、俯いた際にさらりと流れて顔の横で下に向かって垂れていた。
「あなたは、僕に関する噂を聞いたことがありますか?」
ここは放課後の特殊教室棟、最上階の屋上へと続く扉の前の踊り場。扉は施錠されているため開かないので、ここに来る者はまずいない。
人気のない静かなこの場所では殊更良く通る低い声でそう言われ、女生徒は弾かれるように頭を上げた。
「は、はいっ!! 聞いていますっ!!」
「では質問します。あなたがこの質問に答えられたら、僕はあなたと喜んで付き合いましょう」
幸太郎の口から出た「付き合いましょう」という言葉に、女生徒の顔が期待に輝く。
そして彼の口からそのコトバが零れ出る。
「『Allotopus rosenbergi』……このコトバの意味を知っていますか?」
「え……え?」
幸太郎の口から出たコトバは、女生徒にはまるで聞き覚えのないものだった。
「あ、あの……それって……」
「知りませんか? では『Dorcus hopei binodulosus』は? 『Lamprima adolphinae』は? 『Phalacrognathus muelleri』はどうですか?」
次々と幸太郎の口から溢れ出す不思議なコトバたち。女生徒には、そのコトバがまるで魔法の呪文のように聞こえた。
だがそれは、彼女を祝福する魔法ではなく、不幸な呪いをかける魔法だったが。
「判りませんか? では、申し訳ありませんが、あなたとは付き合う事はできません」
左手の人差し指で愛用の縁なし眼鏡をくいっと押し上げると、女生徒に一礼してその場を後にする福太郎。
そして残された女生徒は、呆然としたまま去り行く彼の背中を見送るばかりだった。
何時しか、学校中にこんな噂が流れるようになった。
幸田福太郎──「学園の王子」の心は魔法で閉ざされている。王子の心を射止めるには、彼にかけられた魔法を打ち破らなければならない。
そしてその魔法を打ち破る鍵は、王子が投げかける魔法のコトバ。
魔法のコトバを理解した者こそ、囚われの王子を解放する事ができるのだ──と。
「いよう、コウフク。お勤めご苦労さん」
下校するため、1年1組の教室に鞄を取りに戻った福太郎は、そこでよく見知った人物がいる事に気づいた。
「玄吾……まだ帰っていなかったのですか?」
「おまえのことが気になってな。で、どうだった?」
彼は断りもなく福太郎の席に座り、こちらを見てにやりと口角を上げた。
彼、中山玄吾は福太郎の幼馴染みであり、親友とも呼べるような存在だ。
福太郎とは逆に硬そうな髪をつんつんと突き立て、顔つきはどちらかといえば野性的。しかし、彼もまた十分以上に整った容姿の持ち主だった。
身長は福太郎よりも若干低いが、身体の幅は玄吾の方が勝っている。
成績は福太郎よりも劣るものの、決して低くはない。逆に、運動能力は福太郎をも陵駕している程であった。
福太郎を「静」とするなら玄吾は「動」。真逆に位置するような二人だが、なぜか幼い頃より気が合い今に至っている。
「いえ、今回の女性も駄目でした。やはりあのコトバの意味が判らないようでしたよ」
「まあ、無理もないだろうねぇ。アレを聞いて意味をぱっと答えられるような奴、そうはいねぇからなぁ」
女子じゃ尚更だろ、と玄吾は続けた。
「別にアレが判らなくってもさぁ。付き合ってみればいいんじゃね? 付き合ってからでも理解して貰えるんじゃねぇの?」
玄吾の言葉に、福太郎は憮然とした眼を向ける。
誰にでも人当りのいい彼が、こんな表情を向けるのは極めて稀だ。
それだけ、目の前の人物に心を許しているという事だろう。
「僕にだって、理想の異性像というものはあるんですよ」
「理想が高いのは結構だがよ? そうそう理想の異性なんていないもんだぜ?」
「ですが、僕と付き合う女性には、やはり僕の趣味を理解して欲しい。あのコトバが判らないようでは僕のあの趣味を理解できないと思います」
「おまえの趣味を理解できる女の子ねぇ……かなり限られていると思うぜ? そもそも、あのコトバが判る奴なんて頭まで完全にどっぷり嵌り込んだ奴じゃないと無理だろう。それに別に理解して貰えなくても、文句までは言わないと思うぞ。まぁ、気味悪がられるかもしれんが」
「ええ。僕だってそれは判っています。でも、これだけは譲れないんです」
玄吾は福太郎の言う趣味が何なのかもちろん知っている。そして、その趣味を本当に理解できる女性が限られている事も。
当然玄吾はあのコトバの意味も判っている。中には玄吾と福太郎が親友である事を知り、彼にあのコトバの意味を聞いてくる者もいた。
しかし、彼は誰にもそれを教えた事はない。
それが、他ならぬ長年付き合ってきた親友の望みであるからだ。
「ま、頑張れ。俺はそろそろ帰るぜ」
「ええ。それではまた明日」
背中越しに手を振りながら教室を出て行く玄吾を見送った福太郎は、鞄を持つと僅かに残っていたクラスメイトに挨拶し、親友と同じように教室を後にした。
今日は彼が属する生徒会の会合もない。部活には所属していない福太郎は、このまままっすぐ家に帰るだけ。
だが、これから特に何の予定もない。
件の趣味に関しては、六月も間近なこの時期ではできる事は限られており、急いで帰宅してまでしなければならない事はない。
「……本屋にでも寄りましょうか。そろそろアレ関係の雑誌が出ている筈」
誰に告げるでもなく呟く福太郎。
そして彼が足を向けるのは学校の最寄り駅の近くにある小さな本屋。
彼の例の趣味に関する書籍や雑誌はそれなりに出回っているのだが、それを取り扱っている本屋はなぜか少ない。
全国展開している大型店舗の本屋でさえ、なかなか見かけない。
しかし、その本屋にはなぜか福太郎の趣味に関する雑誌の品揃えが充実していた。もしかすると、店主が同好なのかも知れない。
理由はともかくとして、その本屋の品揃えに満足している福太郎は、雑誌の発売日になるとその本屋へ足を運ぶのだ。
それに彼は通学に電車を利用しているので、駅に向かうのは帰り道でもある。
彼と同じように下校する生徒たちに紛れて、福太郎は駅へと足を向けた。
その場に偶然居合わせた女生徒たち──中にはなぜか一部の男子生徒も──の、熱い眼差しを集めながら。
それは古くて小さな本屋だった。
昔ながらの個人書店。入り口近くにカウンターがあり、その周囲には文房具やちょっとした玩具なども置いてあった。
そして書店に入った時に感じる紙と印刷インクの独特の匂い。その匂いが福太郎は好きだった。
店内には数人の客の姿がある。駅前という事もあり、小さいながらもそれなりに客足があるようで、おかげで潰れずに済んでいるのだろう。
料理関係の書籍を立ち読みしている主婦らしき婦人の後ろを通り抜け、福太郎は目的の雑誌が置いてあるいつもの一角へと向かう。
その際、本を読んでいた婦人が驚いたように福太郎を見詰め、そのままぼぅっとしていたが、福太郎は敢えてそれを無視。
だが、その福太郎の足が不意に止まった。
それは彼の目的の雑誌が置いてある一角に先客がいたからだ。
そこに佇んでいたのは一人の少女。
濃紺のブレザーにその下は白のシャツ。首元にはブレザーと同色のタイ。
膝上丈の襞付スカートもやはり濃紺で、膨ら脛までの黒のソックス。
それは間違いなく、神無月高校の制服だ。
ブレザーの襟元に留められている校章の色から、彼女も福太郎と同じ一年生だと知れた。
黙って福太郎が見詰める中、彼女は一冊の雑誌を手に取るとそのままカウンターへと向かう。
すれ違う際、道を譲りながらさりげなく彼女が手にした雑誌に眼をやると、それは間違いなく福太郎が購入しようとしていた雑誌と同じものだった。
瞬間、幸太郎の身体の中を電流のようなものが駆け抜けた。
呆然と立ち尽くしたまま、眼だけがその少女を追う。
少女はカウンターに雑誌を置き、鞄の中から財布を取り出すと、代金と商品を交換して店の外へ出た。
思わずその少女の後を追って店を出ようとした福太郎のつま先が、こつんと何かを蹴飛ばした。
「──これは……」
自分が蹴飛ばしたと覚しきものを、福太郎は拾い上げる。
「生徒手帳……ですか」
その生徒手帳は福太郎が所持しているものと同じもの。
無断で中を覗く事を心の中で詫びつつ、福太郎は生徒手帳の表紙をめくる。
そこにある身分証明書に貼られた写真は、彼が想像した通りのものだった。
あまり手入れの行き届いていなさそうな黒髪を無造作に後ろで束ね、洒落っ気の全くない黒縁の眼鏡をかけた少女の写真。
「伊勢……美晴……」
余り目立ったところの感じられな写真をじっと見詰めながら、福太郎はそこに書かれていた名前を読み上げる。
その容姿は間違いなく、先程すれ違った少女のもの。
この生徒手帳はおそらく、先程彼女が財布を取り出す際にでも誤って落としてしまったのだろう。
「どうかしたかい?」
福太郎がじっと生徒手帳を見ていると、背後からこの店の店主が声をかけて来た。
振り返れば身動きせずに突っ立っていた福太郎を、店主が不思議そうな顔で眺めていた。
「おや、それは?」
「どうやら、先程の彼女が落としていったもののようです」
「そうか。それじゃあ私が預かろうか? 店での落とし物として学校へ連絡しておくよ」
「いえ、わざわざ学校を通さなくても、これは僕が彼女に届けておきます」
「え? いいのかい?」
驚く店主に、福太郎はにっこりと人のいい笑顔を浮かべる。
「同じ学校……しかも同じ学年ですからね。そんな手間もかかりませんから」
「そうかい? じゃあお願いするよ」
福太郎の柔らかな物腰と丁寧な対応に、店主はどうやらすっかり彼を信用したらしい。
店主に頭を下げて店を出ると、福太郎は一度だけ学校の方へと目を向けた。
「もしかしたら……僕は見つけたのかもしれません……」
ぽつりと呟いた福太郎は、帰宅するため駅の改札へと向かう。
そして電車に乗り、家の最寄り駅で電車を降りた時。
彼はある事に気づいた。
「あ。雑誌買うの忘れました」
初めての方は初めまして。
過去に拙作を読んで下さった方はお久しぶり。
何をとち狂ったか、新しい連載を始めてしまいました。まだ完結していない作品があるというのに……
新しいの書いている暇があったら、未完結のものをさっさと完結させろ、という声が聞こえてきそうです。
自分でもそう思います。ですが、なぜかむらむらっと書きたくなって書いてしまいました。
他の連載の方を優先して書いていくつもりなので、当作の更新は極めてゆっくりとなると思います。
ゆったりと長い目でお付き合い願えれば幸いです。
これからよろしくお願いします。
ところで、福太郎の例のコトバですが、意味が判った方はいらっしゃいますか? 特に女性で意味が判る方って、実際にはどれくらいいるんだろう? 意味の判った方はお知らせください。どれぐらい判る方がいるのか参考にさせていただきます。