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【神崎家】(後編)

 その夜は、父親が仕事で帰宅は深夜となったため、その次の日の夜に集まってもらった。

 時間の都合が合わず、食事時間も揃わない。

 そのため一家全員が集まったのは夜の十一時すぎだった。

 先に両親がダイニングにいて、俺が悠汰の部屋をノックした。

 現れた悠汰は、昨日決意を宣言したときより気を張り詰めさせていた。ピリピリとこちらまで伝わってくる。

「懐かしいよな」

 先頭を切る形で先に階段を降りていると、後ろからそんな呟きが聞こえた。

 全員揃うのが…、と言いたいのだろう。確かに家の中でもばらばらだったから、もしかしたら三年ぶりくらいかもしれない。

 四人掛けのテーブル。

 俺と悠汰が隣に座り、父親が俺と離れた位置に座りなおしたため、俺の前は母親だった。

 母親とはあれからまともに口を利いていない。怯えきった表情で、俺を見るようになっていた。そして目線は一度も合わせない。

 父親からはそういうものは感じなかったが、座るとき距離をとられた気がした。何気に動作に現れる本音。

 当然だ。

 殺されかけたのだ。

 悠汰でさえ、一瞬陥った心理状態だ。

「俺は許してないぞ」

 まず、父親が先陣をきった。

 前にも聞いた台詞。

「今後のことなど話しても無駄だ」

「なんでだよ、話し合わないと何も始まらないし終わらねえじゃん」

 僅かに外側に体を向けるように座ったまま悠汰が弱く言う。

 それに父親が反応した。

「終わらせたいのか」

「こんな状態はもう充分だ」

「…………」

 無言で父親が悠汰を睨むように見た。

 俺は見守るつもりだったが、気づけばつい口を挟んでいた。

「悠汰の言う通りだ。もう終わらせよう」

「俺は始まらないとも言ったんだけど……」

「……………」

 同じ調子で俺に言う言葉に、少し返す言葉を失う。

 悠汰の本音が見えない。

 終わらせたいのだと思ったのに。

 もしかしたら、悠汰も迷っているのか?いや、それは不安か。

 それでおまえはどちらを気にする。終わることをか―――それとも、始まることを?

「とにかくだな、俺は許してないぞ」

 余程、念を押したい事実らしい。

 これは俺に対して言われている言葉だ。

「許して欲しいとは思いません。もう俺に殺意はないから、別の方法ではっきりさせたい」

 悠汰が弾かれたようにこちらを向いた。

 ああ、そうか。

 殺意が無いこと、言ってなかった。

 そして池田さんも玲華さんも伝えていなかったのか。

「別の方法?」

「話し合いは悠汰の希望ですが、まだ俺たちを縛るというなら、こちらもそれなりの対応を取らざるを得ない」

「縛る?それは違うな。これは教育だ。親の権利として」

「やり方がまずかったとは思わなかったんですか?」

「自分の過ちを俺のせいにするつもりか?」

「そうではない………。俺は誰のせいにもするつもりはない。自分の罪からは逃げません」

「ならば大人しく家にいることだ。これ以上経歴に傷をつけるな」

「………」

 話が通じない。違う方へ話が持っていかれる。

 あまりに異質な存在。重ならない。

「違うだろ。それじゃ今までの繰り返しだ」

「悠汰?」

 あまりに今までとは違う強い声に俺は瞠目した。

 本当に今、悠汰から発せられた言葉なのかと。

 この両親の目の前で。

「責任とか権利とか、今はどうでも良いんだよ。それより、なあ、この家がこれからどうなっていくか知りたいんだよ、俺は!」

「………」

 もう悠汰に緊張はない。

 その目は強く、吹っ切れたような………そう、殺意のあった俺に立ち向かってきたときの眼差し。

 父親も母親も悠汰を見ていた。

 悠汰は交渉術なんて持ってない、と以前言った。あの地下室で。

 だけど無視できない何かがある。

「もうやめようぜ。こんな半端な関係。気に入らないなら離れればいいし、それが嫌ならもう一度……」

 悠汰の声音が弱まった。

 継続しきれないのが弱点、か―――?

 変わりに俺が引き継ぐ。ここで惹きつけたものを手放したくない。

「わかりますか?父さん。母さん。悠汰は二人次第ではやり直すと言ってるんです。本来なら見限られても仕方ない立場なんですよ」

「なんだと?お前ら何を結託している?いくら子どもが勝手気ままに生きたいと願ってもそんなことは無駄だ!」

「わかってるよ…。嫌なくらい…」

 隣で小さく呟く声。

 もしかして、なにか思い至ったのだろうか。

 悟りを開いたのだろうか。

 たとえこの家を出てもやがて必ず行き詰ることを。

 悠汰は掌底を額に押し当て、どこか気怠(けだる)そうにしている。

 呼吸の乱れは、ない。

 俺には外側から受ける情報しかなかった。せめて、見落とさないように注視する。

「わたしは嫌よ!」

 それまでずっと沈黙を通していた母親が声を荒らげた。

「終わるなんて嫌!離れたくない!別れないわ!」

「おまえ…」

「どうして…」

 いきなり泣き出した母親に、父親も悠汰も驚いていた。

 俺にはなんとなく解っていた。

 母親は未だに父親に未練があるのだ。しかし父親にすでに愛はない。

 勝手な振る舞いをするのも、父親に振り向いてもらいたいから。

 他に男を作るのも、そう―――。

 醜悪な。唾棄(だき)したくなる。

「だったら、努力しようぜ。それしかないだろ」

「あんたに何がわかるのよ!親の苦労も知りもしないで!呑気に遊んでいたら良いんだから。楽よね、対して勉強もしてないし。恋愛に集中してたらそれで終わりなのよね!」

 ―――これが、母親の言葉だろうか。

 親というより女の台詞だ。そんなことで、子供に八つ当たりする女など母親失格だ。

「おまえは黙ってろ!」

 父親が一言で怒鳴ると、母親はそのまま泣きじゃくった。

「良いよ。話し合いなんだから。思ってること全部言えばいい」

 悠汰が、また、許した。

 泣いている母親に向かって。

(なぜそんなことが言える?)

 今までどれだけの八つ当たりを受けてきたのか、忘れたわけではないだろう。

 感情をぶつけるのは、どちらかと言えば悠汰側でなければならなかったはずだ。

 今まで押し殺してきた分を。

「偉そうなことをっ!おまえはただ黙って俺の言う通りにしておけば良いんだ!」

「!」

 言い終わらないうちに勢いよく立ち上がり、父親は悠汰の前に回り込んだ。

 右の拳を振り上げて降ろすのが目に映る。

 止めなければ、と思う前に間に合わないことを察知した。

 しかし。

 悠汰が捉えられることはなかった。

 彼は咄嗟に左手でその腕を掴んでいたのだ。

 条件反射。

 いや、それよりも予想をしていたような素早さ。父親が来ることを。

「俺はもう、誰にも殴らせないし、殴らない」

 低く、唸るような声を出すと、父親は驚きながらも腕を引っ込めた。

「言われたんだ…ある人に。暴力を解決に使うなって。………確かにそういうところ、今までならあった。殴られて、怒りが収まるなら、それで良いって。それと逆に、殴って少しでも憂さ晴らしになればって」

 本気、か。

 悠汰が本気を出せば見切ることは可能だったのだのだ。これまでも。

 いつから上回ったのは知らない。

「でも俺はもう嫌なんだ。そういう表現の仕方は。……それで分かり合えた奴もいたけど、それだけじゃ進めない。前に行けないんだ」

 凛として顔を上げた。

「だからこれからは殴らせねえよ。たとえ上のやつらに絡まれても、俺はもう喧嘩はしない。別の解決方法を見つけてやる!」

 絡まれる?

 ふと、俺は過去の悠汰を思い出していた。

 明らかに殴られた顔で帰ってきた時のことを。

「ちょっと待て。どういうことなんだ?絡まれたって」

「あ?いや、それはもう終わったことだから」

「終わったって……、確かおまえ謹慎処分うけていただろう」

「え、ちょ…、なんだよ今更」

 確認するように訊く俺に、悠汰が多少戸惑っていた。

 確かに時間は経ちすぎている。だが何も本人は説明しなかった。

(違うな、俺が聞かなかっただけだ)

 聞こうとすら、しなかった。

「あれはおまえに非があったんじゃないのか?」

「確かに俺も殴ったけど」

「何があった?」

「俺も知らないぞ!どういうことだ!謹慎だと?」 

 事情を聞こうとしている俺を遮りながらも、激昂していた。

 父親は謹慎自体を知らなかったようだ。探偵にまで見張らせておいてこれか。

 それに母親が立ち上がって叫ぶ。

「連絡したじゃない!だから帰ってきてって!メールしたじゃない!なんっかいも!」

「なんだと?メール?」

「あなた、まさか読んでもいなかったっていうの!?」

 母親がキッチンの方へ手を伸ばし、そこにあった夕食に使った皿を掴んで床に投げ落とした。

 甲高い耳障りな衝撃音が貫く。

「おい、やめろ…!」

 一枚では足らず、次々と割られていく皿をなす術も無く父親は茫然と見ていた。

 いや、父親だけではない。悠汰も俺もすぐには反応できずにいた。

 ただ忌まわしく見ていることしか出来なかった。

「まだあの女と関係があるのねっ!!あの女!病院のっ!」

「なにを言ってる?おまえ、子どもの前で」

「こういうときだけ父親面しないで!あなたはどうせこの家のことなんて、もうどうでもいいんでしょ!」

「勝手な憶測でヒステリックに陥るな!おまえだって好き勝手してるだろ!」

「そうやっていつも大事なことは何も言わないのよね!でも否定しないってことはそういうことなのよね!」

「おまえっ…!」

 両親の大喧嘩を見たのも久々ではあったが、ここまで経ってもそこに変化はなかった。進歩の兆しが見られない。

 悠汰は青ざめていた。

 この空間を作り出したのは自分だからと、無用な責任を感じているのだろう。

「もういい!」

 二人に負けないように声を鋭く放つ。

 母親が怯えた顔を見せた。口論がぴたりとやむ。

「そういう話しは二人でやってくれ!」

 話し、ではないな。

 言いながらも(あざけ)りたい衝動に駆られていた。

 俺だって同じだ。

 こういう空気が耐えられなかった。もうずっと、昔から。

 決して悠汰のせいにしてはいけない。俺は、自分が逃げ出したくて壊したかったんだ。この家を。

「そうだ。まず謹慎のことを話せ」

 父親がその隙に話を戻した。

 まずい展開だと判断する。俺も知りたいところだが、今更父親の怒りを蒸し返すことではなかったのだ。

 制止の声を挟もうとしたけれど、耐えた。

 悠汰が息を大きく吸い込み、何かしら口を開く気配を感じたからだ。

「売られた喧嘩を買ったんだ、結果的には。でも一人…主犯が謝ってきたし、もうしてこないと思う。だからこれは終わったことなんだ」

「相手は誰だ?」

 間髪入れずに父親が聞く。

「二年の、先輩」

 追い詰められたように顔を歪ませながらも、悠汰は淡白に答えた。

「何人いた?」

「四人」

「やられたのか?」

「―――ああ。結果的には」

「ふん。情けない。その上巧妙に隠すこともできなかったのか」

 愚弄する言葉を父親は投げつけた。最も悪い一面だ。

 悠汰が傷つくこと。

 知りながら、確かに俺もそうやって遠ざけていた。

 子どもの頃に残っている記憶では、悠汰は人懐こい人格だった。そうでもしないと、離れられなかったのだ。

 だから、俺にはここで庇う資格は無い。

(俺はあの時どう考えていた?)

 殴られた顔を見たとき。

 どうせ、自暴自棄に陥って鬱憤を晴らしたのだろうと。

(それしか………)

 なんていうことを。

 事実を知らず、いつもの感情に任せての結果だと、そう思っていた。

「しょうが、なかったんだ…。あれは……」

「能が無いなら初めからしないことだな」

「だったらっ…、どうしろって!気を失った俺に、どうしろって言うっ……!」

 はっとなって俺は立ち上がった。

 気を失う、ということが引っ掛かった。衝撃の事実だった。

 だがそんなことよりも。

 限界、だと思った。

 悠汰は言葉を途切らせ、胸の中心を押さえている。

 俺は支えるように腕をまわした。

 それに、大丈夫というように目だけで言ってくる。

 確かにまだ過呼吸にまでは陥っていなかった。その一歩手前でとどめている感じが見受けられる。でもどれほどの苦しさなのか、俺には判らない。

「どれくらいの謹慎だ?」

 父親はこの姿が見えないのだろうか。

 いや、昔から見ていた。見ていながら無視できる人なんだ。

「一週間……」

 それでも、悠汰も答えた。掠れた声で。

「でもその間に逃げ出したのよ」

 母親が告げ口をする。

(最悪だ―――)

 俺から傷口を開くような、余計な切り口をしてしまった。

 まだ一人座っていた悠汰をそのとき父親が立たせた。俺の腕を弾き、胸ぐらを掴んで。

 抵抗を許さない力だった。

「まだ俺から罰を与えてないな」

「やめろ!」

 あっさり離してしまった自分を悔やむ。

「おまえもだ。おまえにも罰を与える!」

「貴方にはさせない!」

 悠汰を離さないまま俺を睨みつける父親に、鋭く言い放った。

「悠汰は充分罰は受けている。だからこそ学んで変わろうとしているのに、それに気づかない貴方に裁く資格は無い!!」

「兄貴…」

 俺は強引に父親の腕を引き剥がした。

 庇うように後ろに悠汰の身を置く。

「生意気なことを!自分のことを棚にあげて…!そうやってうやむやにしようという魂胆だろう!」

「俺の過ちと悠汰のことは別だと言っているでしょう。付随させて考えるからおかしくなるんだ」

 どういう風に言えば、どんな言葉で表せば、この人に伝わるんだろう。

 根本的なところで違う方を見ているから、それは容易ではない。

 そのとき、俺の肩を悠汰が軽く叩いた。

 そして前に出る。

「ありがとう、兄貴。俺も成長ねえな。庇われてばかりでさ」

「悠汰……」

 まただ、と思った。

 また予測を超えた行動を悠汰はしている。

 言葉とは裏腹にその強い双眸は、まだ諦めていなかった。父親の理解を。

()()()

 そして、何年ぶりかに彼は父親のことを呼んだ。

「まだ、父さんの気持ちを聞いていない。こんな状態になって、これから父さんはどうしたい?どういう方向を見てる?」

 静かな声だった。

 まるで彼の方が上の立場にいるように見える。

「……おまえだって、言ってないぞ」

 唸るように父親が切り返す。

 俺も悠汰を見た。知りたくて。

「俺は……出来ることなら、やり直したい。普通の―――普通ってどういうのかわかんねえけど、それぞれ違うんだろうけど、俺たちには俺たちなりの、()()でいたい」

 一旦言葉を切った。

 探りながら伝えている感じがした。

 父親は間に何も挟まない。

「ちゃんと一個人として、見てほしいんだ。信頼してほしいって、今までなら思ってたけど。確かにまだ信頼してもらえるほどのことは何もしてないから…。だから、これからの俺を見ていてほしい。その上で叱られるんなら、俺はちゃんと受け止めるよ」

 悠汰はしっかり言い切った。呼吸を乱すことなく真情を吐露した。

 俺の役目はもう何もないのだと気づいた。

 強くなる。支えなど不要なくらい。

 独り立ちに一歩近づいたのだ。

(寂しいと思うのは俺の勝手(エゴ)かな)

 今からでも普通の兄になれたなら、と思うのは遅すぎるのか。

 悠汰を蔑み、遠ざけながら俺も見ていることしかやらなかった。

 世羅にはそう伝えたとき、良い方へ誤解をされたのだけれど…。



『そうやって貴方は守っていたのでしょう?なるべく親の機嫌を貴方が整えていた。だからこそ神崎は、今も持ちこたえている』

 ―――それはただの自己欺瞞だよ。

『しかし貴方がいなければ、彼はもっと殴られていたのかもしれない。それに貴方は置いて逃げたというが、それは両親が離れてからではないのか?』

 ―――悠汰にとってはどちらにしても同じことだ。周りを見ようとしていないと君は責めるけれど、誰も……教えてやれる人すら、いなかったんだ。それは悠汰の責任ではないから。

 彼女のように達観することなど、そうそう出来るものではない。

 とくに悠汰には。

 彼女には玲華さんがいたけれど、子供の頃の悠汰には誰もいなかった。

 自分自身を護ることで精一杯だったんだ。

『それならわかる。私も玲華と離れてからかなり辛くなった。だから今はこの計略(こと)に必死になるんだ』

 そのときは、まだ我々の野望を周りに知られてない頃。

 そう言って笑う世羅は、本当に切なかった。

 出来ることなら叶えてやりたかった(はかりごと)。彼女も、解き放ってあげたかった。

 しかし二兎追うものは一兎も得ない。



「ふん、生意気なっ」

 父親が悠汰に吐き捨てた。

 しかし顔を横に向け、躊躇っている様子が窺えた。

 そして。

「少し………考える時間をくれないか?」

 そう言うとダイニングから自室へと帰っていってしまった。

 俺は冷めた脳で見送る。

 この期に及んで逃げの体勢か。

 静寂な空間になって、母親が気まずそうに割れた皿を片付け始めた。

 それに悠汰が近づく。手伝おうと手を伸ばした。

「触らないで!」

 母親は拒絶で返した。悠汰がビクリと止まる。

 俺は変わらない両親の態度に、半ば呆れながら立ち上がった。

「行こう悠汰」

「でも……」

「ここは任せればいい」

 強引に悠汰を促す。

 そしてダイニングから悠汰の部屋に戻った。

 悠汰は何度か母親の姿を振り返り、そして一階の父親の部屋にも視線を送っていた。

 心配しているのが分かる。

「あまり、意味はなかったな」

 俺も悠汰の部屋に入り、そう切り出した。

「そう思う?兄貴は」

 悠汰はベッドの前の床に直に座り、俺を見上げた。

「悠汰にはどう見えた?」

 反問して俺も左隣に座る。

「わかんねえけど……、今までと違ったのは確かだと思う」

「違った?」

「そう、怖さのレベルが」

「それは悠汰が強くなったんだろう」

「んなことねえよ、見ろよコレ」

 そう言って左の掌を俺に見せるように広げた。

 震えていた。

 指先まで細かく。

 全く気づかなかった。見落としていた。

「怖かったのか?」

「怖い、というか、緊張だと思う。実際にはそんなに怖くなかったんだ、父さんは」

 やはりなにかしら乗り越えていたのだろう。

 本人は否定するが。

「悪かったな。俺が変なところで引っ掛かって」

 本人としては本当に収束した事柄だったのだ。

「まあ、ちょっと驚いたけど。世羅に聞いているんだと思っていた」

「彼女には…暴力事件を起こして一週間の謹慎になったと…」

「ああ、そうか。あいつはあの場にいなかったな」

 思い出すように悠汰は言う。

「気を失った、と言ったな?酷いことをされたのか?」

「べつに普通。呼吸ができなくなって…反撃出来なくなっただけ」

 かなり投げやりに答えていた。

 こんなときでも、もとを正せば両親の被虐が影響している。

「―――それも、悪かった。本来ならあの瞬間に聞くべきだったんだ。遅すぎるな」

 普通の兄としては、すべてを聞き慰みの言葉を、もしくは力づける言葉をかけてやるものだろう。

 今から案じたところで………。

 これは報いだ。

 別の罪。

「いいよ。助けてくれた人いたし…それにさ、本当にどうでも良いんだ、そのことは」

 何でもないように悠汰は首を横に振る。

 どうでも良くないことが、他に沢山あれば、人にとっては辛いことでも軽く考えるようになるらしい。

「でも嬉しいよ。今からでもそう言って貰えるのは」

「おまえ……」

「なあ。兄貴がどうしたいのか…俺、聞いてない」

 唐突に悠汰が核心を突いてきた。一瞬、反応が遅れる。

 玲華さんには見抜かれた内容を、そのまま悠汰に伝える訳にはいかなかった。

「俺はおまえが笑えているならそれで良いよ」

「なんだよ、それ」

 何故か不満そうに悠汰が呟く。

「だったら医者は本気でなりたいものか?」

「別になってもいいと思ってる。これまでその為の知識を叩き込んだから。一番身近な将来ではあるな」

「兄貴…。そのセリフ、本っ気で医者目指してるヤツの前で言うなよ」

 眉間に皺を寄せながら、悠汰はこれ以上ない仏頂面になった。

「すっげえ嫌味に聞こえると思う」

「悠汰に心配されては俺も終わりだな」

「なに言ってんの?」

 変わらない表情のまま、ぽつりと悠汰は返した。

(こうやって会話することが、当たり前だと思ってはいけない)

 罪は消えていないのだから。

 悠汰が許しているからこそ、可能となっている状態だ。それを忘れてはならない。

「悠汰は?何になりたい?」

「………言ってもいいけど、笑うなよ」

 念を押して、そして。

「刑事か探偵」

「…………」

 笑いはしなかったが、俺は返す言葉を失った。

 あまりに対極。

 そしてそれは明らかに今回のことで影響されているものだ。

「あーやっぱり呆れてるよ」

「そんなことないよ」

「嘘だろ!おまえには無理だとか思ってんだろ!」

 ベッドの高さを背凭れに利用して、俺とは反対側に身を預けた。

 そこで拗ねるから揚げ足を取られるのだということに気づいてないようだ。

 そして俺は現実的なことを告げる。

「探偵はともかく、刑事はどうかな」

「え?」

「身内に犯罪者がいたら、警察官にはなれないと聞いたことがある。―――身辺調査をされて」

 悠汰がこちらを向く。驚愕の表情で。

「まさかこんな形で俺が悠汰の足を引っ張るとはな」

「………」

 ようやく悠汰が前を向いて行こうとしているときですら、俺は力になれない。それどころか、それを止めてしまう。

 歯痒い。悔しくてたまらない。

「やめろよ、そんな言い方」

 低く唸るように悠汰が嫌悪感を表した。

 何故だ?

 責めればいいじゃないか。おまえのせいだと。

 これまでのことも全部、糾弾すればいいじゃないか。

 俺だけではなく親にも。

 おまえが(なじ)っていい人間がここにいるのだから。

「俺のなんてただの気まぐれなんだよ。最近軽く思っただけなんだよ!んな深刻に受け止めてんじゃねえ」

「確かにただの噂だ。ちゃんと調べて話すよ」

「あと、犯罪者って言葉もイヤだ」

 悠汰は胡座(あぐら)を組んでそっぽを向く。

(事実だよ、それも)

 たとえ未遂とはいえ、殺人したのと同様の罪がある。気持ちの上では同じだ。未遂に終わったのは結果論でそれが薄れることはない。

「まあ、悠汰には逆永久就職があるか」

 わざと。

 話を逸らした。

「あ、兄貴までそういうことを……」

「玲華さんとはどこまでいってるんだ?」

「うるせえ!答えるか!」

 真っ赤になって悠汰が怒鳴った。

 まだ可愛げが残っている。先に置いていかれるとそれはそれで困るから、有り難かった。

「じゃあ兄貴は世羅のことどうすんだよ」

 仕返しとばかりにそう切り返す。

「諦めんのか?」

 あまり触れてほしくなかったところだ。

 気づかれていたことに驚きはなかった。醜態を晒した自覚はある。

 しかし彼女は俺のことを()()は見ていない。それは嫌なくらい判るものだった。

「こういう会話は、普通の兄弟はするのか?」

 ぽつりと疑問をぶつける俺に、また悠汰は怒鳴る。

「自分から聞いたんだろ!いいんだよ、なんでも!普通じゃなくても!」

「そうかな」

「だから言っただろ!ここにいる全員、とっくに普通なんてわかってねえんだから。どこかの基準を真似する必要なんてないんだよ!」

「では俺が例えば…」

 俺が喋っている途中で、いきなり部屋のドアが勢いよく開かれた。

「うるさいのよ、二人とも!何時だと思ってんの!ご近所迷惑よ!」

 悠汰の怒鳴り声よりもうるさい声で、それだけで、母親はドアを閉めた。

 耳障りなものだった。いつもの金切り声で。

 俺はギリっと歯を食いしばった。

 けれど。

 はっと気づいて横を見た。

 悠汰が、右手で両目を覆い膝に顔を押しつけていた。肩が震えている。先ほどの掌と同じように。

 ―――二人ともって、言ったから、だ。

 母親がまとめて扱った。

 それは母親の中で俺の存在が格下になったからに外ならない。

 それでも、悠汰の中でそれは関係なかった。

(ああ、そうだったな………)

 対等に扱われることを、悠汰は望んでいたのだ。ずっと、長い間。

 分かっているつもりでいた。これまでの悠汰の反応から。

 でもそれは、つもりだけだったのだと、今の悠汰を見て感じた。

(例えば俺が)

 先ほど言いかけた言葉。

(いまだけ兄貴面をしても、悠汰は許してくれるのか)

 何が普通の兄で、どこからか過度のものかは判らない。

 今更そんな権利があるのかも知らない。

 だけど俺は、いまだけは素直に、泣いている悠汰を支えるように、慰めるように、頭から抱きよせた。

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