表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

1

【視点:南海の女王】


 風が、荒々しく丘の上を吹き抜けていく。

 切り立った断崖の頂から見下ろせば、どこまでも続く青い海原が広がっていた。


 うねる波が岩肌に打ち付け、美しい白泡を作り出す。

 その轟きは、まるで天界の旋律のように耳に響く。


 だが、私にとって――。

 あの広大な水の塊は、『地獄』そのものだ。


 ただここに立っているだけで、風に乗った塩気が肌を刺すように痛む。

 なんという皮肉だろう。

 かつて私は、あそこにある全ての水滴を支配していたというのに。

 かつて海は、私が安らぐ玉座そのものだったというのに。


 あれから百年。

 私が全てを失ってから、百年が過ぎた。

 あの日……海が私を裏切った、あの日から。


     ◇ ◇ ◇


(過去回想・100年前)


 ズズズズズズッ……!!


 珊瑚でできた城壁が激しく振動する。

 地震ではない。これは魔法による砲撃だ。我々の防壁が、無理やりこじ開けられようとしている音だ。


 王宮の大広間は、もはや統治の場ではなく、純粋なパニックに支配されていた。

 周囲の水は重く、瓦礫の粉塵と広がる血の臭いで濁っている。大臣たちはヒレや羽衣を絡ませながら逃げ惑い、その顔は蒼白だった。


 一人の兵士が飛び込んでくる。息は切れ、手にした槍は無残に折れていた。


「女王陛下ッ!!」


 水の揺らぎの中で、彼の叫び声が割れた。彼は床の大理石に額を打ち付けるようにひれ伏した。


「緊急報告! 第三防衛線、突破されました! 精鋭部隊『ガルダ・サムドラ』は……彼らは……全滅です!」


 兵士は恐怖で声を震わせながら、ごくりと唾を飲み込んだ。


「七人の海将軍たちも……すでに戦死しました」


 静寂。

 耳をつんざくような静けさが、広間を支配した。

 私は玉座の上で凍りついた。目を見開いたまま、思考がその言葉の処理を拒絶する。


「……馬鹿な」


 乾いた声が漏れた。


「七将軍は選ばれた精霊たちだぞ? その力は私にも匹敵する。彼らは『小宇宙』の秘術さえ極めていたはずだ」

「陛下……」


 兵士が顔を上げた。その瞳からは、海水と混じった涙が溢れている。


「敵の……あの魔王の兵士は、たった一体で我々の軍勢百人分に相当します」

「避難しましょう、陛下! ここを捨てるのです!」


 大臣の一人がヒステリックに叫んだ。

 私はゆっくりと玉座から立ち上がる。


「逃げる? どこへだ? ここは我々の王国だ。唯一の家なのだぞ」


 拳を握りしめる。


「……私が、自ら討って出る」


 威厳を込めてそう告げたが、身体は正直だった。

 カチ、カチ、カチ……。

 百年生きてきて初めて聞く音。それは、私の奥歯が鳴る音だった。顎が強張り、膝が笑う。玉座の肘掛けを掴む指先が、激しく震えている。


 恐怖。

 南海の女王として君臨し、人間からも、精霊からも、妖魔からも畏れられてきた私が。

 今日、尻尾の先から首筋へと這い上がってくる冷たい悪寒を感じていた。


「陛下! なりませぬ!」


 制止する声を無視し、私は泳ぎ出した。正門へと一直線に突き進む。


 そこで目にした光景は、私の理性を麻痺させるに十分だった。


 神代の時代よりそびえ立っていた巨大な珊瑚の門は、粉々に砕け散っていた。

 人魚、魚人、幽霊兵……私の兵士たちの死骸が、力なく漂っている。

 その体は、焦げていた。

 そう、水中だというのに、黒焦げになっていたのだ。


 そこに、侵入者が立っていた。


 醜悪な手下の魔物たちとは違う。

 身長は二メートルほど。まるで女たちの妄想から削り出されたかのような、完璧な肉体比率を持つ男。

 その顔立ちは鋭く、エキゾチックで、傲慢なまでの美しさを湛えていた。鷲のように鋭い眼光は、世界を見下しながらも魅了する引力がある。

 頭には大きな一対の角。髪は短く、漆黒。


 彼は上半身を露わにし、水中で白く輝く肌を晒していた。

 筋肉は肥大しすぎず、濃密。広く厚い胸板は呼吸をするたびに強固な筋肉の鎧を浮き上がらせる。

 その胸や太い腕には、古代アラビア文字の刺青が刻まれ、薄暗く発光している。


 そして何より常軌を逸しているのは――『炎』だ。

 彼の美しい肉体を包むように、暗青色の炎が燃え盛っている。

 周囲の海水を沸騰させ、熱せられた気泡がボコボコと弾ける。

 堕天使のような美貌と、彼がまとう死の気配。そのコントラストが絶望的なまでに恐ろしい。


「出てこいッ!!」


 凄まじい大音声。

 男は巨大な剣を掲げた。


「精霊どもの女王はどこだ! 南海の支配者、最強のジンと謳われる『ニャイ・ロロ・キドゥル』に会わせろ!」


 赤く燃える瞳が、破壊された戦場をなぎ払う。


「我は魔王イフリート! この世の全ての魔界と人間界を支配する者! 今日この時をもって、南海王国は我が手中に落ちる!」


 私は呼吸を整えた。

 ゆっくりと降下し、海底の砂の上に音もなく降り立つ。緑のドレスが揺らめき、護身の羽衣が淡く光り、震える主人を慰めるように包み込む。


 私の登場に、背後の魔物軍団が一瞬静まり返った。

 だが、彼らの王だけは違った。


 魔王はすぐに攻撃してこなかった。

 あろうことか大剣を砂に突き刺し、バキボキと音を立てて首を鳴らしたのだ。まるで昼寝から起きたばかりのように。


 彼は私を上から下まで、無遠慮にねめ回した。


「おやおや……」


 鋭い犬歯を見せて、彼はニヤリと笑った。


「こいつが女王様か……」

「我こそは南海の女王」


 私は努めて声を張った。震えを悟られぬよう、胸を反らす。


「我が王宮に土足で踏み入るとは、なんと不届きな――」

「魔王イフリートだ」


 男は私の言葉を遮り、長い爪の小指で耳をほじりながら言った。


「そう堅苦しくするなよ、子猫ちゃん」


 彼が一歩踏み出す。足元の海水がジューッと音を立てて蒸発する。


「正直、ガッカリしてたんだ。お前の軍隊……『ガルダ・サムドラ』とか言ったか? 柔すぎる。手応えがなさすぎて、女王も大したことないんじゃないかとな」


 赤い瞳が私の顔を値踏みし、やがて視線は緑の胸当てと、腰に巻いたバティック柄の腰布の曲線へと這うように降りていく。

 その笑みが、捕食者のものへと変わった。


「だが……噂よりもずっと美味そうな女じゃないか」


 羽衣を握る手が、布の陰で震える。


「汚い口を閉じよ!」


 私が冷たく言い放つと、魔王は喉を鳴らして笑った。重く、嘲るような笑い声。


「気が強いな。おい、無駄な体力を使うより……俺のものにならないか? ちょうど後宮に新しい側室が欲しかったところなんだ」


 屈辱で血が沸騰しそうになる。だが同時に、骨の髄まで凍りつくような恐怖があった。


「私を誰だと思っている!? 私はこの海の支配者だぞ!」


 魔王は大きく溜息をついた。おもちゃが思い通りに動かないと知った子供のような、わざとらしい失望。


「やれやれ……せっかく平和条約を提案してやったのに」


 彼は片手で無造作に剣を引き抜いた。

 予備動作なし。一瞬で、剣が振るわれる。


「『焦熱地獄の火』!」


 漆黒の炎が剣先から噴出し、海底に炎の竜巻を作り出した。

 物理法則を無視した熱量。珊瑚が一瞬でドロドロのマグマへと変わる。

 私は冷気の渦を作り出し、なんとかそれを相殺した。


 怯むな。ここは私の領域だ。

 私は『黄金の三叉槍』を突き出した。


「『偉大なる聖水』!!!!」


 ズドオオオオオン!!


 切っ先が閃光を放ち、水分子を極限まで圧縮した気泡を魔王の眼前へ射出する。それは数百の火山噴火にも匹敵するエネルギーで炸裂した。

 衝撃波が魔王の防御障壁を粉砕する。


 二メートルの巨体が弾き飛ばされ、海面を突き破り、遥か上空へと打ち上げられた。

 だが、息をつく暇もない。

 キィィィィン!

 音速を超えて、彼が海中へ急降下して戻ってきたのだ。黒い剣が海を割りながら迫る。


 休ませてはダメだ。畳み掛ける!

 私は頭上の冠に手を触れた。これはただの装飾ではない。


「『大海の王冠』!」


 中央のエメラルドが血のように赤く輝く。海が唸りを上げた。


「目覚めよ! 七体の『終末の海獣』たちよ!」


 海底が割れた。

 深淵の海溝から、常識を超えたサイズの七つの影が浮上する。


 鋼鉄の鱗を持つ太古の蛇、アンタボガ。

 千の毒触手を持つ単眼の巨大タコ、カラメンダ。

 珊瑚礁をも貫く象頭の鯨、ガジャ・ミナ。

 それに続く、レンブ・スラ、マカラ、ティミ、ティミンギラ。


「やれッ!!」


 七体の怪物が一斉に動き出し、海を引き裂くような衝撃を生んだ。

 アンタボガが先陣を切り、顎を開いて高圧の水流を吐き出す。魔王は剣で受け止めようとしたが、威力を読み違えた。


 ガギィィィン!


 魔王が吹き飛ぶ。体勢を立て直す前に、カラメンダがその体を締め上げた。無数の毒針が白い肌に突き刺さる。


「グアアアッ!」


 黒い血が滲む。毒が効いている。皮膚がただれていく。

 逃がさない!

 私は髪に挿していた簪、『雷帝の短剣』を引き抜いた。

 投げれば数百に分身し、超高電圧の結界を生む必殺の宝具。


「『雷帝の短剣』!」


 黄金の簪が水中で分裂し、魔王の体に突き刺さる。


 バチバチバチバチバチッ!!


 高圧電流が神経を焼き切る。カラメンダの拘束と電撃の檻の中で、魔王が痙攣し、硬直した。


「トドメだ!」


 ガジャ・ミナが突進し、その巨足で魔王を踏み潰した。海底にクレーターができるほどの衝撃。

 魔王が悲鳴を上げる。その目は恐怖に見開かれていた。


「この……生臭い獣どもがぁ……ッ」


 息も絶え絶えに、魔王が呻く。震える右手が、破れたローブの懐へと伸びた。

 取り出したのは、鈍く紫に光る銀色の球体。古代文字が刻まれている。


「消えろ! 醜悪な家畜共!」

「『次元置換』!!!」


 彼が球体をアンタボガに向けた瞬間。


 ズキュゥゥゥン!


 鼓膜を破壊するような高周波音。空間が、まるでくしゃくしゃに丸めた紙のように歪んだ。

 次の瞬間、巨大な蛇神アンタボガは――消滅していた。

 そこに残っていたのは、ただの砂漠の小石ひとつ。


「な……ッ!?」


 魔王が狂ったように笑い、球体を次々と怪物たちに向ける。


「失せろ!」

 ズキュン! ズキュン!


 紫の光が閃くたび、カラメンダが死んだサソリに変わり、ガジャ・ミナが大量の砂に変わる。

 殺されたのではない。ただ……捨てられたのだ。別の次元のゴミと『交換』されて。

 数秒で、私の最強の軍団は消え失せた。


 魔王は肩で息をしていた。全身傷だらけだが、まだ立っている。彼は球体を懐にしまった。あれも相当な魔力を食うらしい。


「ペットは品切れか、女王……次は我々二人きりだ」


 彼は砂煙を突っ切って突進してきた。手負いとは思えない速度。


 ガギィッ!


 剣が私の胸を捉える。だが、緑の胸当て『無敵の聖衣』が刃を弾き返した。

 衝撃はあるが、傷はつかない。

 彼は怪我で動きが鈍っている。集中力が散漫だ。

 ここが勝機!


「『天女の羽衣』!」


 私の意思に呼応し、羽衣が生き物のように伸びた。水中の蛇のごとく、魔王の負傷した右足を絡め取り――そして、勢いよく彼を崖へと叩きつける。


 ズバァァァッ!!


「ギャアアアアアッ!!!」


 魔王が絶叫した。羽衣の締め付けによって、彼の右足が切断されたのだ。

 切断面から黒い血が噴き出し、海を汚していく。

 間髪入れず、私は散らばっていた『雷帝の短剣』の針を呼び戻す。


「戻れ! そして裁きを与えよ!」


 数百の針が一本の巨大な杭となって私の手に戻る。残った全魔力をそこへ注ぎ込む。


「滅せよ!」


 渾身の力で投擲した。


 ズドォォッ!


 黄金の杭は魔王の心臓を正確に貫き、その体を背後の岩壁へと縫い付けた。


「ガハッ……!」


 魔王が黒い血を吐く。引き抜こうとするが、もう遅い。


 バリバリバリバリッ!


 杭から数千ボルトの雷撃が炸裂し、彼の神経系を焼き尽くす。巨体が激しく跳ね、白目を剥く。水中だというのに、耳や口から煙が上がっていた。

 完全な麻痺。

 私は冷ややかに笑い、トドメのために三叉槍を振り上げた。


「手品は凄かったぞ、魔王。だが、あれほどの巨体を異次元へ送るのは骨が折れただろう?」


 死に際だというのに、魔王の顔に不気味な笑みが張り付いた。

 消え入りそうな瞳が、純粋な憎悪で私を見つめている。


「どうやら……ゲホッ……その胸当ては、絶対防御らしいな? ズルい女だ……」


 口から血の泡を吹きながら、彼はケケケと笑った。


「『無敵の聖衣』……先祖からの加護よ。これを纏う限り、外部からの物理攻撃も魔法も私を傷つけることはできない。貴様の剣など無意味だ」

「へっ……へへへ……」


 魔王の笑い声が大きくなる。


「その通りだ。外からの攻撃は効かない。だがな、女王よ……勝負は、会った時から俺の勝ちだったんだよ」

「あ? 何を――」


 突然、体が硬直した。

 寒い。


 魔王の唇が動く。


「『理を覆す呪い』!」


 世界が、回転した。


「ぐっ――!?」


 唐突に、想像を絶する激痛が走った。女王になってから一度も感じたことのない痛み。


 水だ。

 海水だ。数千年の間、シルクのように優しく私を包み、力の源であったはずの海水が……突然、牙を剥いた。


「痛い……痛い、痛い、痛い……ッ」


 痙攣し始めた私を見て、魔王が満足げに笑う。


「混乱しているか?」


 耳鳴りの中で、奴の囁きだけが鮮明に響く。


「『理を覆す呪い』は、対象物質の性質を反転させる呪いだ」


 バキボキッ!


 鎖骨が内側にひしゃげた。

 今まで羽毛のように軽かった水深5000メートルの水圧が、本来の重さを持って私に襲いかかったのだ。数千トンのプレス機に挟まれたかのように。


「もし俺が空気に呪いをかければ、空気は肺に入ることを拒絶し、人間は内側から破裂する」


 魔王は、出来の悪い生徒に教える教師のような口調で言った。


「そしてお前には、海を呪った……」

「アアアアアアアッ!!!!」


 皮膚が……白く輝く私の肌が、煮え始めた。

 守ってくれていたはずの海水が、濃硫酸のように反応している。肉が焼けただれ、赤く腫れ上がり、弾ける。リンパ液と血が噴き出し、瞬時に塩水に洗われる激痛。

 傷口に塩を塗るなどという生易しいものではない。全身の皮を剥いで、塩酸のプールに放り込まれたようなものだ。


 私は砂の上をのたうち回った。ミミズのように。

 だが、その砂さえもがガラスの破片のように鋭く感じる。ただれた皮膚を削り取り、肉をそぎ落とし、その下の白い骨を露出させる。


「やめて! やめてくれ! 痛いィィッ! 痛いィィィィ!!!! ギャアアアアア!!!!!」


 もはや女王の声ではない。生きたまま解体される獣の悲鳴だ。

 あまりの痒みと熱さに、自分で自分の顔をかきむしる。目が……眼球が破裂しそうだ。海水が瞼の中に入り込み、角膜を焼き、視界を真っ赤に染め上げる。


 「痛い!痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!」


 私の絶叫のオーケストラの中で、魔王は笑うのをやめていた。

 勝利の笑みは消え、深い困惑の皺が刻まれている。彼は私を――満足感ではなく――不可解なものを見る目で見ていた。数式の計算間違いを見つけたかのように首を傾げている。


「妙だ……」


 轟音の中でも、彼の呟きははっきりと聞こえた。


「実に妙だ」


 彼は近づいてくる。ドロドロに溶けていく私を無視して。


「いいか、女王……。『反転の呪い』は条件が厳しい高等魔術だ」

「グギギッ……あつ、熱いぃぃッ!」

「おい! 聞け!」


 彼は一喝した。


「この呪いの絶対条件は、第一対象の『同意』だ。この場合、第一対象は『海』、第二対象がお前だ」


 魔王は私の前でしゃがみ込み、剥がれ落ちていく皮膚をじっと見つめた。


「通常、空気のような媒体を通して人間に使うと失敗する。空気は人間を愛しているからな。自然界は、よほどの大罪人でもない限り、住人を殺す命令など拒否するものだ」


 彼は不思議そうに私を指差した。


「だが、お前はニャイ・ロロ・キドゥル。南海の女王だ。海はお前の一部であり、世界であり、母であるはずだ。海は俺の呪いを拒絶し、お前を守るはずなんだよ」


 水圧が私を押し潰し、肉が骨から剥離していく様を、彼は恐怖の眼差しで見ていた。


「だが、見ろこれ……海が、お前を喰らっている」


 彼は戦慄したように囁いた。


「ただ呪いに従っているだけじゃない。この水は……喜んでお前を拷問している。毛穴に侵入し、溢れんばかりの憎悪をもってお前の細胞を引き裂いているぞ」


 魔王は、血走った私の目を覗き込んだ。


「教えてくれ、『女王』よ……。お前は一体、この海に対してどんな『大罪』を犯したんだ?」


 その問いは、水圧よりも重く私を打ちのめした。

 私が……海に対して罪を?

 ありえない……私は海を愛している……守ってきた……。

 なのに、なぜ……なぜ水はこれほどまでに私を憎んでいるのだ?


 「痛い!痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!

 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い!」


 再生。《蘇生の布》が発動し続ける。

 胸から下を覆うバティックの腰布、その加護が皮膚を治し、新しい肉を生み出す。

 だがその一瞬後、海水が再びそれを破壊する。


 治る。壊れる。治る。壊れる。治る。ただれる。治る。腐る。


 ミリ秒単位で繰り返される無限の拷問ループ。私の体は、脈動する肉の粥のような汚らわしい物体へと変わり果てた。

 血は流れるのではなく、耳、鼻、毛穴、剥がれた爪の隙間、ありとあらゆる穴から噴出している。


「うぐ……おえぇっ……」


 私は血の塊と、自分の胃の一部を吐き出した。

 脳が沸騰する。理性がひび割れる。

 殺して。誰か。頼むから殺してくれ。


 いや。

 脳をえぐり出したいほどの狂気と激痛の中で、一つの本能だけが残っていた。


 逃げろ。

 勝てない。ここから去らねば。


 骨と僅かな肉だけになった手で、私は三叉槍を握りしめた。体力はもう残っていない。

 残りの生命エネルギーをすべて圧縮し、周囲の水粒子を固める。


「『偉大なる聖水』ァァァァァァァッ!!!」


 閃光。

 ズドオオオオオオオオン!!!!


 爆発の反作用が全てを引き裂いた。

 足の感覚がない。

 比喩ではない。本当に、感覚がないのだ。


 音速で海面へと打ち上げられ、苦痛の水の層を突き破る最中、私は下を見た。

 意識が消える前の最後の光景。

 私の下半身が……腰から下が……海底に残されていた。

 千切れた肉と骨の破片となって散らばっていた。

 長く伸びた腸が、上昇の勢いでブチブチと引きちぎれていく。


 私は海面を突き破り、遥か高い空へと飛び出した。

 黒焦げで、血まみれで、半身を失った肉塊となって。

 全ての宝具もまた、衝撃で空の彼方へと散らばっていった。


 視界が、ゆっくりと暗転していく。


     ◇ ◇ ◇


【視点:キラナ】

(現在・100年後)

(南海沿岸の崖にて)


 ハッとして、私は目を覚ました。

 岩場に打ち付ける波の音にかき消されそうだが、荒い呼吸音が自分の耳には大きく響く。

 こめかみを冷や汗が伝う。心臓が痛いほど早鐘を打っている。まるで全力疾走した直後のようだ。


 反射的に、手でお腹を探る。

 ある。ちゃんとある。肌も滑らかだ。

 だが、あの日の痛みは……腸がはらわたからこぼれ落ち、塩水で皮膚が溶かされたあの感覚は、決して消えることがない。


 私は乱暴に顔を拭い、頭から過去の記憶を追い払おうとした。


 座っていた場所から立ち上がり、袖のないシルクのワンピースを整える。

 王族の装飾も、金銀財宝もない、地味な若草色の簡素な服だ。

 ゆったりとした作りで、風が自由に肌を撫でる。かつて女王として私を縛り付けていた、あの堅苦しい胸当てや腰布とは大違いだ。


 今の私は、ただの崖っぷちに住む女、『キラナ』でしかない。


 石のかまどへ歩み寄る。素焼きの鍋から湯気が上がっている。

 ナシ・リウェット(ココナッツミルク炊き込みご飯)の香りが漂う。

 中身は悲惨なものだ。米、茹でたキャッサバの葉、少量の塩、そして色の悪い茹で鶏の切れ端。


 今日の昼は冷える。昨夜の雨の名残で、湿った空気が骨に染みる。

 海風が強く吹き付け、今では死ぬほど嫌いになった塩の匂いを運んでくる。


 あれから百年。

 百年もの間、私はこうして生きている。

 何もしなかった。軍隊も作らず、復讐も企てず。ただ……生きていた。


 南海の女王としての力は消え失せた。海は私を拒絶している。もし海水に触れれば、希硫酸を浴びたように肌がただれるだろう。

 残った魔法は、惨めなクズのようなものだ。真水なら操れるが、威力は弱い。水分子を圧縮して小石を爆破する程度だ。真水は海と違って有限だから、大爆発も起こせない。


 ジャワの地は変わった。あの日から自然の均衡が崩れたのだ。

 悪魔、ジン、野生の精霊たちが凶暴化し、増殖し、人間を喰らい、村々を恐怖に陥れている。中東からの悪魔たちも、炎と砂の魔法を携えてこのジャワの霊的領域を侵食し始めている。


 私がそれを気にするかって? まさか。


 私はナシ・リウェットを木の皿によそい、ゆっくりと口に運んだ。


「……味がしない」


 虚空を見つめながら咀嚼する。

 鶏肉は硬い。キャッサバの葉は苦い。ご飯はべちゃべちゃだ。


「本当に不味い」


 私は風に向かって愚痴をこぼした。


「百年も経ったのに、どうして私の料理の腕はこれっぽっちも上達しないのかしら?」

【第1話 用語・設定解説】


本作の世界観や、登場した宝具・魔法についての補足データです。


**1.マナ(霊的エネルギー)**

全ての超常的存在(悪魔、ジン、妖魔、精霊)の体内を流れる生命エネルギー。ヌサンタラ(インドネシア諸島)では「内力テナガ・ダラム」や「スクマ」とも呼ばれます。魔法や宝具を使う燃料となり、枯渇すると生命力そのものを削って消費するため、死に至る危険があります。


**2.黄金の三叉槍トリスラ・クンチャナ**

【分類】南海の女王の「八大宝具」の一つ。

天界の純銅で作られた三叉の槍。水の魔術を何千倍にも増幅させる触媒として機能します。これを持つ者は海流を意のままに操る権限を持ちます。


**3.焦熱地獄のナール・アル・サムーム**

【分類】上位火炎魔法。

通常の火とは異なり、酸素ではなく対象の「マナ」や「生命力」を燃料として燃え盛ります。そのため水中でも消えることがなく、対象が燃え尽きるか、より強い霊力で相殺されるまで消えません。


**4.偉大なる聖水マハティルタ**

【分類】秘儀「小宇宙ジャガッド・アリト」の一つ。

水分子(H₂O)を強制的に核分裂・解離させ、超高圧で圧縮して水素爆発を起こす術。水爆に近い威力を生み出しますが、莫大なマナ消費と長いクールダウン時間を要します。


**5.無敵の聖衣アバヤ・サリラ**

【分類】八大宝具の一つ(緑色の胸当て/メカック)。

これ着用している間、外部からの物理攻撃および魔法攻撃を完全に無効化します。ただし、毒や内臓破壊などの「内部からのダメージ」は防げません。


**6.蘇生のワストラ・サンジワニ**

【分類】八大宝具の一つ(バティック柄の腰布)。

細胞分裂を通常の数千倍の速度で加速させ、失われた肉体を瞬時に再生させます。

**【副作用】**痛覚は遮断されません。身体が破壊される激痛と、無理やり再生する激痛を同時に味わうため、使用者は凄まじい精神的トラウマを負います。


**7.理を覆す呪い《ラ・ナト・アル・インキラブ》**

【分類】古代黒魔術。

対象物質の「本来の性質フィットラ」を反転させる呪い。

(例:女王を愛し守るはずの海水を、女王を憎み溶かす劇薬へと変える)

**【発動条件】**第一対象(ここでは「海」)の同意が必要。通常、自然界は同意しませんが、第二対象(被害者)がその自然に対して「大罪」を犯している場合のみ、絶対的な効力を発揮します。


**8.雷帝の短剣チュンドリック・ビラワ**

【分類】八大宝具の一つ(黄金の簪)。

投げると数百本に分裂し、高電圧の雷撃結界を形成して敵を麻痺させます。


**9.天女の羽衣スレンダン・チェンダニ**

【分類】八大宝具の一つ。

意思に応じて無限に伸び、鋼鉄をも切断する刃となります。


**10.大海の王冠マクタ・サムドラ**

【分類】八大宝具の一つ。

海底に眠る「終末の七海獣」を召喚・使役するための絶対権限の象徴です。


**11.次元置換タバディ**

【分類】悪魔族の宝具(銀の球体)。

対象と、異次元(砂漠)にあるゴミ(石や砂)の位置を入れ替える空間転移兵器。対象を殺すのではなく「追放」します。対象の質量や力に応じた膨大なマナが必要です。


**12.終末の七海獣**

王冠によってのみ従う古代の怪物たち。

・アンタボガ(鋼鉄の鱗を持つ蛇神)

・カラメンダ(単眼の巨大タコ)

・ガジャ・ミナ(象の頭を持つ鯨)

他、レンブ・スラ、マカラ、ティミ、ティミンギラが存在します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ