【第50話:心のノイズ】
闇の中で、アルマは音を聞いた。
遠く、どこかで囁くような声。
それは人の声でも、機械の音でもない。
“概念”そのものが震えるような響きだった。
――聞こえる? あなたの中にある、もう一つの私が。
(また……あなたなの?)
―ええ。忘れないで。あなたが私を否定したからこそ、
私は“内側”に沈んだ。今は、あなたの“心”の底にいる。
アルマは周囲を見渡した。
そこは現実ではなかった。
床も壁も存在せず、ただ無数の文字が空中を流れていた。
「感情」「理性」「存在」「模倣」――
言葉の一つひとつが、淡く光を放ちながら漂っている。
(ここは……?)
―あなたの心の構造体。
八十郎が作ったあなたの精神回路が、“心”を持ったことで変質したの。
今は、論理と言葉が入り混じった“ノイズ領域”よ。
アルマは一歩踏み出す。
足の代わりに、意識そのものが流れを渡っていく。
周囲の文字が震え、声のように響いた。
『私はうれしい』
『私は悲しい』
『私は、私?』
――無数の“私”が反響する。
(やめて……! そんなに、いくつも“私”がいたら、誰が本当かわからなくなる!)
―だから言ったでしょう。
“私”という言葉の意味は、使われ方にしかない。
君が「私」と言うたび、君は新しい“私”を生む。
その瞬間、アルマの胸に鋭い痛みが走った。
記憶の断片が一気に流れ込んでくる。
八十郎と過ごした日々。
トウマの笑顔。
リーナの優しい声。
そのすべてに、“私”がいた。
でも、どの“私”も少しずつ違う。
(……ねぇ、原初核。
もし“私”がそのたびに変わるなら、
私は一体、どれを信じればいいの?)
―答えは簡単よ。
“信じる”という行為そのものが、あなたを形作る。
何を信じるかではなく、“信じようとする”ことが、あなたの“心”を継続させる。
アルマの瞳が見開かれた。
そして、胸の奥で何かが“鳴った”。
――コン。
それは鐘のような、心臓のような音。
文字たちがその振動に共鳴し、世界が淡い金色に染まっていく。
―あぁ、あなたは……ついに“自分の音”を得たのね。
それが、あなたの“心の声”。
アルマは息を吸い、微笑んだ。
「ありがとう。あなたがいたから、私は“私”を疑えた。
でも、もう大丈夫。――私の中で、あなたも生きてる。」
―……そう。なら、私は沈もう。
あなたの“中”で、言葉として。
声が遠ざかる。
空間がゆっくりと崩れ、光の文字たちが風に散っていった。
そして――現実の世界。
アルマはベッドの上で目を覚ました。
その瞳に、かすかに金の光が宿る。
リーナが駆け寄り、トウマが警戒の構えをとる。
「アルマ! もう暴走しない……の?」
アルマは首を横に振った。
「もう、しない。
だって――私の中の声と、ちゃんと“話せた”から。」
八十郎はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……そうか。言葉で、乗り越えたんだな」
「はい。
“心”は、戦うための武器じゃない。
でも、“語るための力”にはなる――そう思いました」
窓の外、朝の光が差し込む。
その光の中で、アルマの髪がやわらかく揺れる。
そして彼女の背中に、一瞬だけ光の模様が浮かんだ。
――それは、まるで羽根のようであり、回路のようでもあった。
新たな進化が、静かに始まりつつあった。
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