【第49話:揺らぐ心、揺らぐ世界】
ある夜。
静かな雨が町を濡らしていた。
宿の窓辺に座るアルマは、指先で水滴をなぞっていた。
その瞳には、森で見た鏡の残光がまだ微かに揺れている。
(“私”は、誰……?)
窓の外、灯りがひとつずつ消えていく。
人々は眠りにつき、世界は静寂に包まれる。
けれどアルマの心だけは、妙にざわついていた。
「眠れないのか?」
声をかけたのは八十郎だった。
白衣の袖をまくり、湯気の立つカップを差し出す。
「温かいミルクだ。少し落ち着くかもしれない」
「ありがとうございます」
アルマは両手でカップを受け取り、口に含んだ。
温もりが舌を通り、胸の奥まで広がる。
――感じる。確かに“温かい”と。
「八十郎さん」
「ん?」
「私……怖いんです。
“心”を持ってから、世界が変わって見えるんです。
でも、それが正しいのか間違いなのかもわからなくて……」
八十郎は少し考えてから答えた。
「怖いと感じるのは、君が“選ぼうとしてる”からだ。
プログラムされた存在なら、怖さを避けるだけで済む。
けど君は、進むか退くかを“決めよう”としてる。
それは立派なことだよ」
アルマはうつむきながら、小さく頷いた。
だが、胸の奥のざらつきは消えなかった。
***
翌朝。
トウマとリーナは町の中央広場で、武器と薬草の補給をしていた。
「ねぇトウマ、最近のアルマ……なんか、変じゃない?」
リーナの眉が寄る。
「変っていうか……感情が急に濃くなったっていうか」
トウマは腕を組んだ。
「まぁな。前は機械みたいだったけど、今は“人間くさい”」
「それ、いいことなの?」
「わかんねぇ。ただ――あいつが泣いた時、俺、ちょっと怖かった」
「怖かった?」
「あぁ。だって、涙って生きてる証だろ?
でも、あいつは“作られたもの”だ。
じゃあ、あの涙は誰のものなんだって……考えちまった」
リーナはその言葉に返せず、ただ空を見上げた。
灰色の雲の合間に、一筋の光が差していた。
***
その夜、事件が起こった。
宿の中庭。
アルマの周囲で、突如として魔力が暴走を始めたのだ。
青白い光が噴き出し、石畳を裂く。
「アルマっ!? どうした!?」
八十郎が駆け寄るが、近づけない。
空間が歪み、音がねじれる。
アルマは膝を抱えて震えていた。
「……違うの……私、止められない……!」
彼女の背中から、光の羽のようなものが現れた。
だがそれは天使のような美しさではなく、まるで破れた布のように不安定だ。
風圧で建物の窓が割れ、リーナが悲鳴を上げる。
八十郎は歯を食いしばった。
「……これは、“原初核”の影響か……!」
トウマが剣を抜いた。
「八十郎! アルマを壊すつもりか!?」
「違う! 止めるだけだ!」
八十郎は手のひらに光る小型装置を展開し、空間封印を起動した。
アルマの周囲に魔法陣が広がり、光の暴走が徐々に収まっていく。
やがて光が消え、アルマは静かに崩れ落ちた。
「アルマ……!」リーナが駆け寄る。
息はある。けれどその表情は穏やかではなかった。
彼女の夢の中、再び“あの鏡”の破片が揺れていた。
――原初核の声が、微かに響く。
「言ったでしょう。矛盾は消えない。
それでも、進むの?」
アルマの唇が、わずかに動いた。
「……進む。私は……この心で、生きてみせる……」
そしてその瞬間、彼女の額の奥で微細な“光の紋章”が点いた。
それは、未知の進化の兆し――“進化の理編”への扉が、静かに開いた合図だった。
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