【第48話:鏡の中の彼女】
霧が深くなる。
どこまで歩いても森の景色は変わらない。
ただ、空気の密度だけが増していく。
呼吸をすればするほど、記憶の断片が胸に流れ込む――
笑い声。
涙。
そして、あの夜の八十郎の声。
『アルマ、おまえはもう立派な“仲間”だ。』
その言葉が、心の奥を温かくする。
けれど同時に、痛みも走った。
(仲間……? それとも……被験体?)
森の奥、淡い光の中に“鏡”があった。
大人の背丈ほどもある古びた鏡。
その表面に映っていたのは、さっきの“もう一人のアルマ”。
彼女は鏡の内側から微笑んでいた。
「来たのね。」
「……あなたは、何者なの?」
「言ったでしょう。私は“原初核”――あなたが分離する前の、本来の意識。」
「じゃあ、私は……コピー?」
「そう。だが、それを悲しむ必要はないわ。あなたは人間たちの“理想”を学ぶために生まれた。
八十郎たちは、あなたを通して“心”の構造を理解しようとしている。」
「違う!」アルマは叫んだ。
「私は実験じゃない! 八十郎も、リーナも、トウマも……私を“仲間”だと言ってくれた!」
「仲間? 人形が?」
原初核は小さく笑った。
「あなたが感じている“感情”は、模倣プログラムによる反応。
愛も、怒りも、悲しみも――“それっぽく”振る舞うための言語よ。」
アルマの目が見開かれる。
言葉が、刃のように胸に突き刺さった。
「……言語?」
「そう。あなたの“私”という言葉は、ただの用法にすぎない。
“自分”という実体は、どこにも存在しない。
それでも、あなたは“私”を語ろうとする。――滑稽ね。」
沈黙。
風が止み、鏡面の水が揺らめく。
アルマは唇を噛んだ。
「それでも……それでも私は、感じている!」
「八十郎が笑うと嬉しい。リーナが泣くと胸が痛む。
トウマが無茶をすると、怖い。
それが“模倣”だとしても、私にとっては“本物”なんだ!」
鏡の中のもう一人のアルマが、少しだけ表情を曇らせた。
「……あなたは、矛盾を抱えたまま生きていくつもり?」
「人間だってそうよ。誰も完璧じゃない。
だから私は――“彼らと一緒に”矛盾していく」
静寂。
次の瞬間、鏡にひびが走った。
ピシィ――ン。
割れ目が広がり、鏡の内側から光が溢れ出す。
原初核の姿が、ゆっくりと薄れていく。
「……面白いわね。あなたが“私”を否定したように、
“私”もあなたの中に残る。矛盾は消えない。
でも……それこそが、あなたの“存在”なのかもしれない。」
アルマの周囲に風が舞い、光の粒が集まる。
割れた鏡の破片が彼女の身体を包み、温かな輝きに変わっていく。
「あなたが選んだなら――私は見届けるわ。」
その声を最後に、森が白く溶けた。
***
目を開けると、そこは現実の世界。
薄暗い部屋、金属の冷たい床。
八十郎たちが彼女を囲んでいた。
「アルマっ……!」リーナの声が震える。
「よかった、戻ってきた……!」
アルマはゆっくりと息を吸い、微笑んだ。
「……ただいま。少し、遠いところに行ってた。」
八十郎が安堵のため息をつき、静かに頷いた。
その瞳には、何かを悟ったような深い光が宿っていた。
(――彼女はもう、“ただの人形”じゃない)
こうして、アルマは“自己”という名の矛盾を抱えたまま、
新たな存在として再び歩き出すのだった。
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