【第39話:精霊の森へ】
山の稜線を越えた先に、その森はあった。
昼なお暗い濃緑の世界。空気は澄み切っているはずなのに、土と苔と水の匂いが絡み合い、足元の草を踏むたびに小さな光がふっと舞い上がる。
八十郎たちは、息を飲みながらその光景を見つめた。
「ここが……精霊の森か」
トウマが思わず呟く。
その声が空間に吸い込まれるように消えると、周囲の木々がざわりと葉を震わせた。
「気を抜くな。ラグナスが“試練”と言ったんだ。単に枝を折るだけじゃ終わらないはずだ」
八十郎は手製の携帯器具──小さな方位探知機を取り出し、針の揺れを確認した。
森に入ってから、方角の感覚がすでに狂っていることに気づいていたからだ。
リーナは両手を胸に押し当てて、小さく深呼吸した。
(わたし、何もできない……でも、せめて二人の足手まといにならないように……)
そう心に言い聞かせると、彼女は足取りを速め、二人の後を追った。
森の奥へ進むにつれ、空気はひんやりと重くなっていく。
霧のようなものが漂い、周囲の景色が時折歪んで見えた。
ふと、トウマが立ち止まり、目を細める。
「今、誰かの声が……」
「聞こえたのか?」
八十郎が問い返すが、そこには何もない。
ただ、風が木々を揺らし、葉擦れの音が低く唸るように響いているだけだった。
その瞬間、霧の奥から人影が現れた。
いや、それは人ではなかった。
精霊の形を模した光の影──その姿はトウマ自身に酷似していた。
「……俺?」
トウマは驚き、思わず後ずさる。
光のトウマは、冷たい声で告げた。
『力こそが正義。おまえはそう信じてきたはずだ。ならば、弱き者を抱えて何になる?』
胸の奥に突き刺さるような言葉。
かつて、別の世界で八十郎と議論を交わし、最後はケンカ別れをしたあの日の自分の声と重なっていた。
トウマは唇を噛む。
(俺は……本当に、変われているのか?)
八十郎は横から一歩踏み出した。
「トウマ、それは“試練”だ。自分の過去が試されてるんだ。惑わされるな」
リーナも必死に呼びかける。
「トウマさん、あなたはもう独りじゃない。八十郎さんも、わたしも、ここにいます!」
その声にトウマの目が開かれ、光の影を真っ直ぐ見据えた。
「……そうだな。俺は、もう力だけじゃなく“仲間”と歩く道を選ぶ」
次の瞬間、光の影は砕け、霧がふっと晴れた。
足元に、淡く光る木の根が伸びているのが見える。
その先には、森の中心で脈打つように立つ巨大な樹──精霊の木が姿を現していた。
「見えたぞ、精霊の木だ」
八十郎が小声で言う。
リーナはその壮麗な姿に目を見張りながら、そっとトウマの腕を支えた。
トウマは深呼吸をし、静かに歩き出す。
「行こう。あの枝を、必ず持ち帰る」
精霊の木の根元に近づくにつれ、空気はさらに澄み渡り、風が頬を撫でるたびに声のようなささやきが聞こえる。
それは祝福か、それとも最後の警告か。
八十郎たちは息を合わせ、ついに“試練”の最深部へと足を踏み入れた。
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