【第27話:揺れる心】
町の夕暮れ。工房の煙突から上がる白い煙が茜色の空に溶け込んでいく。
八十郎は宿の窓辺に立ち、下の通りで獣魔・灼牙のたてがみを梳く青年の姿を見ていた。
(やはり、間違いない……あれは、トウマだ。だがなぜこの世界に? なぜこの姿で?)
心臓が、若返った肉体に似合わぬ速さで打つ。胸の奥に沈めていた後悔が、今になってざわめき出していた。
背後でアルマが本を閉じる音がした。
「マスター、どうしてあの青年を見ているとき、そんな顔をするのですか?」
八十郎は肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。「……昔の友に、似ていてな」
「その人に会いたいのですか?」
「会いたい……いや、本当は謝りたかった」
アルマはその言葉を静かに胸に刻み、無垢な目で八十郎を見上げた。
リーナが部屋に入ってくる。「町での生活の段取りが決まったわ。アルマは工房と図書館で学べるし、八十郎さんも研究場所を確保できそう」
「そうか、助かる」八十郎は小さく息を吐く。
「それと……」リーナは少し迷うように声を落とした。「あの青年、トウマっていうんですって。町の討伐ギルドに登録している冒険者よ。珍しいけど、獣魔を従えることができる人らしいわ」
八十郎の胸に確信が灯る。
(やはり本物のトウマ……だが、どういう仕組みでこの世界に? まさか俺と同じ……)
その夜、宿の食堂で、トウマが灼牙を連れて現れた。
「ここ、空いてるか?」
八十郎は迷いながらも席を指し示す。リーナとアルマも同じテーブルに座り、奇妙な四人の食卓が始まった。
トウマは肉を頬張りながら笑った。「あんたたち、旅人だろう? この町は情報も技術も集まる。学ぶにはいい場所だ」
アルマが小首をかしげる。「あなたは、なぜそのように戦うのですか?」
「俺は強くなりたいだけだ。力があれば、守れるものも増える」
その言葉は、八十郎の胸に突き刺さる。かつて自分が反論できずに黙ってしまったあの時の記憶が、鮮やかに蘇る。
八十郎はグラスを握りしめ、かすれた声で答える。「……力が正義だと、まだ信じているのか」
トウマが不思議そうに眉をひそめる。「あんた、俺のこと知ってるのか?」
「いや……ただ、昔の知り合いに似ていてな」
リーナが話題を変えるように微笑む。「でも、助けてもらって本当に感謝してるの。あなたのおかげで森で命拾いしたわ」
トウマは無言で頷き、肉を切り分けてアルマに渡した。「食べな。頭を使うにはエネルギーがいる」
アルマは両手で受け取り、小さな笑顔を見せる。その笑顔を見て、トウマの表情が一瞬だけ和らいだ。
八十郎はその光景を見つめながら、胸の奥で決意した。
(いずれ、必ず話そう。この青年が“あのトウマ”ならば……もう二度と、あの時のように背を向けて終わらせたりはしない)
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町の朝。市場の呼び声が石畳に反響する中、八十郎はアルマとリーナを伴って工房へ向かっていた。
アルマは、昨日の本の内容をまだ頭の中で反芻しているようで、指先をそわそわ動かしている。
「マスター、今日は人の手伝いをしてみたいです」
「よし、見学だけでなく実際に手を動かしてみるといい」八十郎は頷いた。
そこへ、背の高い影が通りに現れた。黒髪を後ろで束ねた青年──トウマだ。
「おはよう。あんたたち、工房に行くのか?」
リーナがにこやかに応じる。「ええ、アルマにいろんな経験をさせてあげたいんです」
「そうか。俺もギルドの仕事で工房に寄る。案内してやろう」
自然な形で四人は連れ立って歩き出した。
工房の裏庭では、鉄くずや木材の山が積まれている。アルマは初めて道具を手にし、ぎこちなく釘を打つ。
「こうですか?」
「もう少し角度をつけるといい」八十郎が手を添える。
トウマがその様子を見て笑った。「面白い奴だな。その見た目で、まるで子どもだ」
「わたしはまだ、学び始めたばかりです」アルマは真剣な瞳で答える。
突然、町の北門の方から悲鳴が上がった。
「魔物だ! 避難しろ!」
トウマの表情が一瞬で引き締まる。
「ここは俺が行く。あんたたちは下がっていろ」
八十郎が思わず声をかける。「危ないぞ、一人では──」
「俺には灼牙がいる」
トウマは通りに出ると、深く息を吸い込んだ。
「──灼牙っ!!」
低く地鳴りのような音がして、赤い裂け目が空間に現れる。そこから炎の獣が飛び出し、咆哮とともに炎で敵を蹴散らす。
その光景を、アルマは息を呑んで見つめる。
「呼べば、出てくる……」
八十郎は頭の中で構造を解析しようとしていた。魔法的な召喚と、何らかの媒介装置……。
トウマはあっという間に小型の魔物を退け、灼牙を消し去るように腕を振る。「戻れ、灼牙」
赤い裂け目は閉じ、町は再び静けさを取り戻した。
戻ってきたトウマに、リーナが駆け寄る。「大丈夫ですか?」
「ああ、あんな奴ら造作もない」
アルマが恐る恐る近づき、「灼牙は、あなたの友達ですか?」と聞いた。
トウマは一瞬だけ考え、短く答える。「ああ、俺が選んだ“力”だ」
その言葉に、八十郎の胸がちくりと痛む。かつての世界で交わしたあの議論、「力こそ正義だ」という信念──。
「……君はなぜ、そんなに力を求める?」八十郎は静かに問う。
トウマはわずかに笑い、鋭い目を向ける。「弱者が踏みにじられる世界で、力を持たぬ者に何ができる? 俺はそれが嫌いなだけだ」
八十郎は何も言えず、ただアルマの肩に手を置いた。アルマは小さな声で呟く。「力……正義……」
その瞳には、初めて“考える”という色が宿っていた。
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