【第18話:隣村の悪党、落とし前の夜】
月が半ば雲に隠れ、村と隣村の間に冷たい霧が立ち込めるころ、八十郎は最後の準備をしていた。小さな瓶に詰められた淡緑色の液体が机の上で静かに揺れる。リーナがそれを見つめる。
「これが、本当に大丈夫なんですか?」彼女の声には不安と期待が混ざっていた。
「害のない変性剤だ。卵の内部たんぱくを変質させて、価値を即座に失わせる。見た目は崩さず、売り物にならない匂い――そう、金の匂いだけが消えるようにする」八十郎は静かに答えた。彼の目は老練な発明者のそれで、若い肉体に宿った冷徹さが光る。
作戦はこうだ。隣村の倉に保管された卵は今夜、買い手の引き取りを待っている。八十郎たちはその受け渡しの場に「買い手」を装って紛れ込み、密かに一部の卵に変性剤を仕込む。買い手が持ち去れば、商談は成立する。しかし数時間後、受け渡し場所で卵を割れば――価値ある中身は変質し、臭いが立ち、取引は破綻。買い手は噂を拡げ、商売あがったり。更に八十郎は魔導記録を持ち、証拠を公に晒す。社会的信用を一瞬で消し去るのだ。
リーナは小瓶を抱え、夜の路地を音もなく歩く。八十郎は感知器を腰に下げ、村の数人の有志と合流した。誰もが緊張している——だが、目は鋭く、手は確かだった。
裏口から倉へ入り込むと、積まれた箱の隙間から卵が鈴なりに顔を覗かせる。あの光る殻の欠片が、闇夜にやけに不気味だ。八十郎は息を殺し、丁寧に小瓶を一つ一つの卵の下側に垂らしていく。薬は透明で、匂いもほとんどない。触れればわからない。だが、時間とともに卵の価値を消し去る。
その時だ。外から低い唸りが聞こえ、倉の戸が勢いよく開け放たれる。隣村の倉の主と傭兵たち、そして今夜の買い手が顔を合わせるため集まったのだ。男たちの金の話と下卑た笑いが暗闇に広がる。
「よし、始めるか」八十郎は小さく頷き、合図を送る。リーナがそっと倉の外へ飛び出し、用意していた小さな篝火をパッと焚く。合図は成立した。
買い手の男が少しづつ箱を開け、卵の状態を確認する。最初の一つは問題ないように見えた。彼は満足げに唇をなめる。取引はまとまる——そう思った瞬間、二つ目の卵から、かすかな硫黄に似た匂いが立ち上った。男の表情が変わる。箱の中の卵を次々に割ると、内部は白濁し、粘るような臭気が立ち上る。買い手たちの顔色が青ざめる。
「何だこれは! 腐ってるのか! 売り物にならねぇ!」一人が叫び、他の者も次々と箱を確認する。口論が瞬く間に広がる。やがて売り子の顔に焦りが走り、客は怒声をあげて倉を飛び出した。取引は一夜にして崩壊した。
そこへ、夜空から轟音が落ちてきた。黒い影が倉の上空を覆い、巨大な翼が月明かりを断つ。魔獣が降り立ったのだ。羽ばたきの風で燭台が揺れ、男たちはひときわ高い恐怖を感じて後ずさる。
「我が名はラグナス。卵を奪い、巣を穢す者よ。お前たちの所業はすでに暴露された」低く響く声が倉に満ちる。ラグナスの目は冷たく光り、鱗が稲妻のように微かに瞬いた。
その刹那、八十郎は倉の扉を開けて外へ出た。手には水晶球があり、そこには昨夜の取引の記録や物流の証拠、傭兵の顔と刻印がはっきりと映し出されている。近隣の道を通る者たちにも見えるように、八十郎はそれを高く掲げた。
「お前たちの犯罪は、ここに証拠として刻まれている。卵を奪い、森を荒らし、魔獣の命を金に変えていた。今、買い手は逃げ散った。取引先は去った。信用は失墜した。これが結果だ——お前たちの金は、今日から価値を失う」
男たちは狼狽し、財布を取り出して交渉しようとするが、噂は瞬く間に広がる。買い手が逃げ、近隣の商人も危険を恐れて手を引いた。隣村の信用は瓦解し、客は来なくなった。商売の基盤が消える音が、倉の中でかすかにする。
だが八十郎はまだ留めを刺さない。男たちが再起を図って武器を取り出す素振りを見せた瞬間、ラグナスが空へ跳び上がり、圧倒的な轟音とともに一列に並ぶ木の先端を雷光で焦がす。恐怖で傭兵たちの顔が血の色を失う。彼らは目の前の脅威に思考を奪われ、反撃どころではなくなった。
その隙をついて村の有志が入り込み、箱を押さえ、卵を回収。リーナは手早く卵の一部を確保して称賛を送られ、百姓たちが男たちの周囲に集まる。声は冷たく、非難の言葉が次々と降り注いだ。
「人の命を金に換える者に、村が生かしておけるか」長老の声が響く。隣村の人々の中には、怒りと羞恥に顔をこわばらせる者もいた。なによりも効いたのは、買い手が遠のいたことで、金が入らないことだ。彼らの言葉は虚しく、同情者は誰もいない。
倉の主は床に膝をつき、顔を覆って嗚咽する。利得の夢が一夜で瓦解したのだ。商売相手を失い、隣村全体の評判は地に落ちた。彼らは罵りと嘲笑の的になり、街道の通行人に指を差される。かつての威勢は消え、残ったのは空しい金属の音だけだった。
八十郎は静かに箱を閉じ、リーナの手を握った。リーナは肩で震え、涙をぬぐう。ラグナスは高く舞い上がり、空に向けて一声轟いた。それは勝ち誇る叫びではなく、深い鎮魂のように聞こえた。
「これでいいのだ」八十郎は低く呟く。「暴利を貪る者に、ただ恥を与えるだけで十分だ。金に溺れ、人の命を踏みにじる者たちは、自らのしたことの重さを噛みしめるだろう」
遠く隣村の路地では、彼らの子どもたちが学校へ行くことを恐れ、商人は商品を引き上げ、借金取りの影が立ち込める。悪党どもは、今日失ったものが取り返せないことを次第に悟っていった。欲が彼らを堕とし、世界は静かに報いを下したのだ。
夜の終わり、村の広場で小さな祝宴が開かれた。卵の一部は安全な場所に移され、ラグナスの巣は守られた。リーナは八十郎に熱い感謝を伝え、その頬に触れる。八十郎は笑いながら首を振る。
「俺はただ、道具を使っただけだ。正義を成すのは、君たちの勇気と、そしてこの世界の自然だ」
雲の合間から月が顔をのぞかせ、冷たい光が村を優しく照らした。隣村の人間たちは、今日学んだ“代償”を胸に刻んだだろう。――それが、八十郎たちの望んだ帰結だった。
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