【第15話:魔獣ラグナス】
夜明け前。東の空がまだ藍色に沈み、霧のような靄が山の中腹を覆っている。八十郎とリーナは、村を出て魔獣の巣に近い大岩の前に立っていた。背負った袋には、魔導薬品の小瓶、布切れ、焚き火の灰、そして魔力感知装置に記録されたデータ。全てが「人間が魔獣の巣を荒らしている」証拠だった。
八十郎は目を閉じ、山風に身を晒す。湿った空気の奥から、獣とは思えぬ重い気配がじわりと迫ってくる。
「……来るぞ」
地面が低く唸り、空気が震える。森の奥から、翼を広げた巨大な影が現れた。黒曜石のような鱗に覆われ、雷を孕んだ瞳が二人を射抜く。先日の飛翔魔獣だ。しかしその眼差しは、敵意よりも、こちらを試すような光を帯びていた。
「……また来たか、人間」
その声は低く、雷鳴の余韻のように空気を震わせる。八十郎は一歩前に出て、頭を垂れた。
「約束通り、証拠を持ってきた。あなたたちの巣を脅かしているのは、この村の者ではない。外から来た者たちだ」
八十郎は袋の中身をひとつずつ取り出して見せる。魔導薬品の小瓶、布切れ、焚き火の灰、感知装置に記録された魔力痕跡。
「これがその証拠です。見てください」
魔獣は巨大な爪でそっと布切れを摘み、鼻先に近づける。鱗の間から微かな光が走った。
「……確かに、こやつらの匂いだ。巣の卵に残っていた痕跡と同じ」
リーナが息を飲む。
「私たちの村は、あなたの巣を荒らしてなどいません。どうか、村を襲わないでください」
魔獣は長い尾をゆっくりと地面に叩きつけた。雷鳴のような音が響き、空気が張り詰める。しかし、その瞳の奥にあった怒りの光が、少しずつ薄れていくのが分かった。
「……ふむ。見事だ、人間。お前たちは戦うのではなく、調べ、考え、そして話しに来た。我が名を明かそう」
その瞬間、空に薄い稲光が走り、霧が渦を巻く。魔獣の声が、山全体に響き渡った。
「我は《ラグナス》。雷翼を持つ守護の魔獣。この山と巣を護る者だ」
リーナが小さく息を呑む。「ラグナス……」
八十郎は静かに頭を下げた。「私は八十郎。この村に暮らす者だ。あなたと敵対する意思はない。共に、巣を脅かす人間たちを探し、止めたい」
ラグナスは翼をたたみ、低く八十郎を見下ろす。その目は、先ほどまでの獣のものではなく、知性ある者の目だった。
「良かろう。人間八十郎よ。お前が持ってきた証拠、そしてその態度、気に入った。我と共に“敵”を追うがいい。ただし——」
「ただし……?」八十郎が顔を上げる。
「人間の狡さ、欲深さを侮るな。我は敵の匂いを知っているが、人間の嘘は嗅ぎ分けられぬ。お前の知恵が必要だ」
八十郎はゆっくりと頷き、リーナと視線を交わした。
「もちろんだ。私たちの力を合わせれば、きっと止められる」
その言葉に、ラグナスの喉の奥で低い笑い声が響いた。雷鳴のようでいて、不思議と温かみがあった。
「では決まりだ。人間八十郎、そしてリーナよ。我が巣を護る戦いに、お前たちの知恵を貸せ」
山の霧が晴れ、初日の光が三人の間に差し込んだ。人と魔獣が肩を並べる、その始まりの瞬間だった。
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