雨情
日本の空に台風がやってきた。西条家でも、窓を閉め、台風に備えていた。
過去には奥庭の吉利支丹灯籠のある穴に雨が溜まったり、蔵の横にある部屋の前にまで水が押し寄せたことがあった。そんな事もあってか、すみは人一倍大雨に対して恐怖心を抱いていた。だが、奥の間から、覗ける四つの障子の窓からの景色がどれも別の景色のようであり、それが陽のない淀んだ景色によって、陰鬱としながらも清々しい気持ちを感じてしまうのである。
奥の間も祇園祭の際などには大書が飾られ、その見事耐えのある威圧感にすみはそのそこ知れぬ念があるのだが、普段は静かな場所なのである。
「お嬢様、お茶でもどうでしょう?」と女中が遠くからすみに話しかけた。
「へえ、是非」
女中はお盆に乗せた茶を運んで、それを丁寧にすみの前に置いた。
「最近は暇な時に茶を習うとりまして」
「どうりで綺麗な仕草で。えらい所作流れるようどすえ」
「へえ、おおきに」
屋根に打ち付ける音と、点てる音が交差し、勢いの良い雨の音に女中の点てる音が移ったかのようにすみが心配になる程、激しくなっていった。女中の後ろ髪が肩に乗り、その小さな小刻みによって一度、顔の真横に倒れ込んだ。ただ、女中はそれに気づかない程に集中していた。
すみは女中の茶を頂き、深く礼をした。その手前はすぐさま褒めてしまうとお世辞のように思え、すみはしばらく間を空け、その女中の顔に余裕が伺えた頃に、咄嗟的に言った。
すみは茶道はあまり心得てはいなかった。姉のたつのは何度か母と共に茶事に出掛けたことはあるが、すみはそんな姉を見るだけで、茶道の所作に触れるのは初めてのことであった。
いつの間にか踏んでいた自分の裾を自由にし、すみは女中の手元を美しいものだと眺めていた。
その色に動きがしなやかに風に揺れる葉のようで、すみはそれが人の手ということすらも忘れてしまうのかと思われた。
「台風はいつ過ぎ去るのやろか」
「今週のうちには過ぎ去るのではないでしょうか?」
「ほんまに、そうやとええけど」
この雨の降りようでは縁側に足を踏み入れることさえ難しかった。雨の匂いが畳に染み込むと腐ったような匂いに変わり、泥なの中で過ごしているかのような思いに耽ってしまうのだった。
すみは一人になった後、部屋へ戻ることにした。茶碗を片付けていた女中のそばを通り
「姉さんは今日はいてはるん?」
「たつのお嬢様は佐伯はんと太子山の方へ用事に行かれとります」
「そうどすか」
すみの心の中にはやはり、たつのと佐伯の事柄があった。佐伯とどれだけ同じ時間を過ごしていたとしてもたつのはそれ以上のものを当たり前のように与えられてしまう。それは長女ゆえの特権なのであろうが、すみにはそれに従うしかない理不尽さに怒りすらも感じることがあった。ただ、それはたつのが悪いということではなく、長い年月によってできた伝統に置かれた定めであるのだ。
すみは部屋に入ると、箪笥の中にしまってある幼い頃の写真を取り出した。家族写真の中に、まだ子供の頃のたつのすみが映っていた。すみはまだ子供そのものであるが、たつのはすみよりは幾らか大人であり、今の面影がそこに映し出されていた。
すみのたつのの後ろには祖父が立っていた。祖父が亡くなったのはすみがまだ二歳か三歳な時であった。
父によると、明治生まれであるのに、背が高く、中の間と奥の間の間にある欄間に頭を下げないと当たってしまうほどであったという。すみには記憶が無いが、祖父はすみを膝に抱いた時に、急に意識を失い、そのまま息を引き取ったという。今であれば病院に連れていくものだが、まだ戦時中の最中である故、そのようなことはせず、医者を呼んで祖父は看取られた。祖父の顔はすみの記憶には存在せず、写真の中にだけ、すみの記憶には祖父が映っていた。だが、そこにいる自分は子供であり、祖父の姿もそれが最期と言えど、それが祖父の全ての姿ではないのであった。
すみには祖父の声すらも思い出せず、その愛しき祖父がすみの物心が着く前に旅立ってしまったことはすみにとって悲しい事柄であった。
涙が出てくるほどの思い出もない、そんな薄情な思いにすみは自分の残酷さを時々恐れた。そんな思いは時として、姉にすら向かってしまいそうですみは常に姉に対して、敬意を払うことでその思いを無くすように心掛けていた。揺れ動くすみの心に雨の音は気にせず降っていた。
雨の音に自分の声はもちろんふとした思いすらも消されてしまうように思えた。雑音であるはずなのに、その一つ一つの雑音が混ざり合うと轟音となり、すみの心を全て流してしまうようであった。
部屋が薄暗く、すみは部屋の電気をつけた。外の景色がより暗くなり、締め切った思いに憂鬱な思いが溢れ出た。
一人っきりでいるせいか、陰鬱な思いばかりを考えてしまう。この雨では出掛けるのも一苦労である。
すみは一人で部屋にいると、ますます根暗になってしまうと、母のいる部屋へ行った。
「すみ、どないしたん?」
「いや、こないな雨やさかい、何するにも気分良うのうて。お母さんのとこに来た」
母は着物を片付けているようで、すみはそれを手伝おうとした。
「うちも手伝うわ」
「おおきに」
母はすみに着物を渡すと、床に座り込んだ。その様子にすみは驚いたが、母の表情から見て疲れていただけだと察した。
「お母さん、休んどって。あとはうちが全部やるわ」
「申し訳あらへんなぁ。お母さんは少し休んでるわ」
すみは母の姿が十年ほど変わらずにいたと思っていたが、やはり歳は取るもので、母も年相応であるのだ。
「お母さん、うちのおじいさんってどないな人やったん?」
着物を片付けながら、その手際を崩すことなく、すみは母に聞いてみた。
「お父さんに似てる人やったわ。おじいさんの先代名人って言われとった人やったさかい、先代に比べられて、あまり腕があらへんって言われとったけど、うちはそないな気はしいひんかったかな」
「うちを抱っこしたまま死んだんやろ?」
「突然な。みんな驚いとったわ」
すみはそれが幸せな最期なのかと疑問には思った。自分であるならば、孫を抱きながら死ぬのは幸せである。しかし、それを肯定してしまっては自分を棚に上げて言葉を言うことになる。その事は少し、躊躇していた。
「優しかったん?」
「お父さんよりは頑固やったで。そやけど、優しさはしっかりと持ち出せとったわ」
祖父像がまだうまくはっきりとは形作れずにはいたが、祖父の思い出話を聞くのは楽しかった。
すみは着物を片付け終えて、母と少し話している時に、たつのが佐伯を連れて、帰宅をした。
玄関に出ると、傘を片付けている佐伯と着物の濡れた裾に触れていたたつのの姿があった。しゃがむように濡れた部分を見ていて、時々漏れる声からは空模様と似たものがあった。
「おかえりなさい」
「ただいま帰ったで、外はすごい雨や。水溜まりがあちこちに」
「お疲れ様どした。家の中でも屋根を打つ雨音がすごくて」
「へえ、そうやろうな。傘よりも音が響くさかい」
たつのは履き物を脱ぎ、玄関から浴室へと真っ先に向かった。
佐伯はすみに頭を下げ、そそくさと濡れた体を震わしながら、自室の方は向かった。
たつのは佐伯の顔を見ずにいた。佐伯の方もたつのの表情を見ようとはせず、ただその背中にいて立ちすくんでいただけであった。雨がそうさせたのか、すみはたつのの着替えを持って、浴室に向かった。
「姉さん、着替えを置いとくで」
たつのは服を脱いで裸になっていた。すみよりも白い背中を向け、すみの方を振り返りながら見ていた。
「ああ、おおきに」
たつのはそう言って、すみを残して、風呂場へ行った。
すみはたつのの蕩けたような目つきをしっかりと見た。そして、情事に溺れたようなその様子は官能的にすら思える物であった。すみはたつのの赤くなった首筋を思い出した。その扇情的な情熱が重い槍を差し込んできたようであった。