白露
すみは以前、佐伯に悪さをして蔵に閉じ込められた幼少期の話をした。どんな悪さをしたかは思い出せずにいるが、光がない蔵の中の暗闇は今でもすみに恐怖を与え、すみは夜道も苦手となっていた。そんな話を佐伯は笑っていたが、すみにはそれが不服のようであった。
すみの通う学校では、下校時間には家の使用人が車で迎えを行っている。大体は番頭が行うことがほとんどだが、時折、それが佐伯であったりもする。そしてその日はその時折の日であり、佐伯が運転席から顔を覗かせ、すみは駆け足で車に駆け寄った。
「お嬢さん、駆けて来んでもええんですけど」
佐伯はすみの汗ばんだ姿が目に入ったようであった。その異様さはすみ自身のも気がつき、佐伯に対して、恥ずかしがる様子を見せた。佐伯はすみのことを思ってか、気付かぬふりをしていた。その誇らぬ優しさはすみには意図せず届いていた。
夏はまだ姿を消さずに残ってはいるが、秋風が最近はよく吹くようになっていた。蝉の声も今に聞こえなくなるのであろうと思われた。
近くに位置する平安神宮や知恩院、八坂神社などが見えはしないものの、その存在は遠ざかって行きながら、すみの心の中でその景色を色付けていた。
車を走るそばの道ですみの同級生と思われる女学生が鞄を持って悠々と歩いていた。彼女には暑さを感じられず、品のある堂々とした歩きぶりであった。
「あっ....」
すみは自分の小さな声がいつまでも響いて鳴り止まない様を思った。
「どうかされました?」
「いえ」
佐伯の言葉はすみの咄嗟に出てしまった声から少し遅れていた。佐伯もその声が響き続き、動揺していたのだろうか。
佐伯は道を歩く、女学生達に目が入った。何人もの女学生が話をしながら歩いているのだ。
「お嬢さん、今日は寄り道をしていかしまへんか?」
「あきまへんえ。父に知られたら」
「大丈夫です。この時間は道混んでること多いさかい、寄り道も道草を食うて行くんやったら」
すみは何も言うことができなかった。その不安は佐伯に対して何も言わないことが失礼に取られることの焦りが混じり合い、すみは声が出なかった。
「毎日、息を吐く暇があらへんどっしゃろ?たまにはええ思いますえ」
「ほんまでっしゃろか?」
息の混じった声ですみは聞いた。
「お姉さんもようしとったらしおすえ。番頭さんが言うてました。お姉さんは毎日言うとったらしおす」
佐伯の後ろから小さな笑い声が聞こえた。その笑い声は可憐であり、佐伯はすみよりも幼い少女の声のように思った。
「佐伯さん、うちも寄り道してみとうなりました」
すみの声は不安気な声から色づいた声へと変わった。
車は三条通へと曲がり、その先を進み、堺町通りを曲がった。近くに車を止め、佐伯はすみを連れて、喫茶店へと足を踏み入れた。
「お嬢さん、珈琲でも飲まはります?」
「へえ、それならうちは珈琲飲みます」
すみと佐伯は店の奥の間へと通された。平日のせいか、奥の間には一人の客しかいなかった。髪の長い都会風の女性であり、本を手に、すみ達にも気付かぬ様子であった。中庭が窓越しに望め、中庭に並ぶテエブルと椅子はどれもフランス風のものであった。
「お嬢さんは初めてですか?」
「へえ、友人からの話しでは聞いたことがあったんどすけど」
すみは今になって、自分が佐伯と二人だけだと気が付いた。
「うちは外出なんて滅多にしいひんし、せいぜいお正月くらいに家族でお参りに行くくらいやから」
早口に捲し立てるすみは佐伯の目を見られなかった。この時ばかりは姉よりも優位に立っているのだと思った。
二人は珈琲を頼み、佐伯はすみから学校での様子を聞いた。学校を出ていない佐伯はすみの話を幻想的に聞いていた。すみは時々、佐伯の表情を読み取ろうとし、佐伯はすみが申し訳ない気持ちにならないよう、絶えず笑った顔を見せていた。それは心を読むのが得意がすみが相手を思うあまりに話を止めてしまうのを防ぐためであった。
佐伯はすみの優しさに大きく触れ、その純真さを儚く思った。
そしていつしか、先にいた女性客はいなくなり、すみと佐伯の二人っきりとなった。それに気がついたのは、窓に風が当たった音であり、秋がこうして、近づく、物音であった。
話をしながらでも、すみはこうして、季節の変わり際を生きているのだと実感した。いつしか、紅葉が色づき始めるのだろう。その止まることのない、四季の転換期がこうして、今年も再びやってきたのだった。
細やかな風を音で思いながら、喫茶店を出た際に佐伯を見ると、その肩が撫でるようにしなり、柔らかい優しげな印象を与えた。それは今まで感じたことのないものであり、たつのですら思っていないように思えた。その憧れは改めて新しいものへと変わっていき、心臓の高鳴りは嬉しい程に興奮するものであった。
「お嬢さん、この事は内緒でおたのもうします」
「勿論どす。姉にも言わしまへん」
すみはそう言うと、惜しむかのように、もう一度、先程いた場所に目を向けた。その一瞬の、光景がもう二度と見ることができないような思いを持ち、近くであるのに、遠いその場所に別れを告げ、佐伯の背を追いかけた。そのすみよりも大きい背中にかかる服の薄い皺に佐伯の中の大きい志が切り刻むように見えた。
足を止め、すみの方を見る佐伯のためにすみは駆け足をした。風が吹き、すみのスカアトを靡かせ、その足にかかる涼しさが夏のものではなくなり、すみは川に足を入れたような冷たさを思った。
「行きまひょお嬢さん」
二人は車に戻ると、佐伯は車の扉を開け、その中にすみは入って行った。
車の中にはまだ蒸し暑さが残り、すみの額にもじわっとした汗が出てきた。その汗が額から鼻筋までを通り、唇から顎にかけて撫で通った後に時々、早くそしてゆっくりと不規則に首から服の中へと入って行った。
まだ景色は夏のものと変わらないが、すみは風と音のように変わりつつある中でこうして、夏の感覚を失っていないものがあることを肌で思い、その嬉しさを窓の外に向けた。
「まだ暑おすなぁ」
「ええ、そやけど少しばかりは涼しげどすのやで。今にきっと秋になり、気いついたら、雪降る季節になるんやろうな。一年はあっちゅうあいさ。うちがおばあさんになるのももうすぐかも知れへんどす」
「おばあさんって、せやったら私はおじいさんどすなぁ。番頭さんやお父さんよりも歳をとって」
佐伯の儚い言葉にすみは深く考えた。
「なんか、ほんまにその通りな気いするわ。気い付いたらうちはもう子供でないもの。時ダイジェストのように」
「人生っちゅうのんはあっちゅうあいさなんどすなぁ。うちらも若いうちは早いんやろうな」
その声に流されて、通り過ぎたはずの鴨川の音が幻聴ですみの耳に届いた。眩しさは優しげに光り、雲に隠れてもその映し出す影が照らしていた。