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送り火

 すみは朝、手を洗うと、朝の涼しさに浸った水が、掌を駆け巡る様子をその日は珍しく、情に通った目で眺めた。

 蝉が遠くの山まで仲間を呼ぶように鳴く季節がやってきて、奥庭にあるすみの肩よりも小ぶりな門に宵山の日に見つけた蝉の抜け殻がくっついている事をすみは思い出した。流石に今は八月の初めの夕立があったせいか、抜け殻はもぬけの殻になっている。

 この日は母と姉のたつのと共に東山の珍皇寺へと出掛けることになっていた。

 午前のうちに番頭が運転する車に母とたつのとすみは手代の佐伯を連れて、出掛けて行った。

 街を走る市電の側を通ると、すみはふと、一度だけ、幼少の頃に母と女中と乗った市電の記憶を思い出した。混み合う車内で母と女中がすみの両手を掴み、その汗ばんだ手をすみはしばらく忘れられず、母とその女中を特別な与えられた手のように信仰したような思いで見ていたのである。

 市電はそれっきりであるが、街でその姿を見るたびに少し前までは無意識のうちにその記憶が目の前に展開されていたのだが、最近はその記憶も子供らしさが消え去るように一緒になっていたのだろうが、急に思い出したのは自分の子供らしさがまだ残っているということなのであろうかとすみは思った。そうしているうちにその市電は彼方後ろへと行ってしまい、車の残響がすみの耳に響くばかりであった。

 運転席の左に佐伯は座り、その後ろの席にたつのが座っていた。すみは後ろ席の右側に座り、母は二人の娘に挟まれて座っていた。すみは左前を見ると、佐伯の頭が目に入った。その姿がたつのにはどう見えているのだろうかとも思った。距離は近いが、その姿はよくは見えないはずであった。

 狭い場所でこんなせめぎ合いがあろうとは自分以外の人は全く思わないだろうとすみは思った。それは姉のたつのに関しても同じである。彼女はきっと自分の思いを知らないのであろうと思われた。

 珍皇寺の目の前に着くと、すみ達は運転をしていた番頭を残して、全員が車から降りた。たつのと佐伯が先を歩き、すみと母がその後を追った。

 佐伯は日傘を持ち、たつのはその下に収まって歩いていた。

 その様子はどうもすみと母までもがたつのの女中に見えるように思われた。

 珍皇寺へは高野槇を求めに来ていた。その用を済ませば、すみ達は速やかに車へと戻る予定であった。

「佐伯、あれは冥界の世界へと通じる井戸なんやて、覗いてみたら、怖いのやろうか?」

「へえ、お嬢さんみたいな方はそないな罰当たりなことはしいひんのやあらしまへんか?」

 そんな会話が聞こえ、すみは二人の言葉に混ざりたいという気持ちをただ聞くことで訴えていた。

「あてはそないな品のある子ぉとはちゃうさかいやるわぁ。すみみたいなお淑やかな子ぉとちがうのやさかい」

 たつのはすみを見て言った。すみは自身の気持ちがたつのに気づかれていないのだと知った。そしてすみは自分自身がたつのに敵わないように思えた。

 その帰りはすみは二人を見ることはなく、街並みだけを見ていた。だが、目新しいものは何もなく、その記憶に残らない風景にすみは時間の流れを思い出すことがあった。

 家に着いた時、やはり、たつのは佐伯の差す日傘の下にいた。玄関の前で佐伯は傘を下ろした。その手つきが慣れた様子であり、女の仕草によく似ていた。

 たつのはそれを見ることなく、家の中へと入った。すみは小走りで佐伯の横を通り過ぎて行った。

 佐伯の目にすみが映ったかはわからなかった。

「六道さんからかえりました」

 すみはそう言って、玄関で下駄を脱いだ。静かに音を立てぬよう、先を前にして置いたが、キツツキのような音がすみにだけ響いた。

           ・

 そしてこの日から二日後の十二日の夕方まで、御仏壇を飾る荘厳を磨き、内敷きを金襴の織物に掛け替えるおがきもんを行う。そして七色の供物、珍皇寺の高野槇、蓮の葉を浮かせ水をはった鉢、一本しきみと仏花をお供えする。そしてその十二日の夕方におちゃとうと呼ばれる熱い番茶でお精霊さんをお迎えする。

 すみは母や女中と共に供物を準備していた。夕方には父が番茶を備え、お精霊さんを迎える準備が整った。

 すみは毎年不思議と、その時だけ、雪に当たったような風が吹くような気がしていた。それは自分だけが思っているのから誰にも聞いたことがなく、わからなかった。ただ、すみはこれをお精霊さんが来た証としたかった。たつのに言ったら、可愛げに揶揄われるであろう。たつのを尊敬しているからこそすみはそのような思いを心の中にだけ留まらせた。そして翌日に、菩提寺了光院のお上人さんによるお参りがある。この日から十五日まで、毎日、お精さんのために精道料理をお供えする。お供えした料理が、そのまま家族夕餉となる。

 また精進料理とは別に、けんずいとよばれるおやつも毎日お供えする。十三日にはおはぎとすいかを、十四日にはそうめんを、十五日には蓮の葉を敷いて蒸したおこわと奈良漬けをお供えすることに決まっている。

 十六日の早朝に西条家は最後のおちゃとうをお供えし終えると、全ての供物を縁側の台の上に並べていた。一つ一つのお供え物を時には母の頼らない手を支えるかのようにすみはお供え物を持ち、息を呑むように落とさぬようにして、台の上に置いた。

 そして並べ終えると、父が線香をともし、その煙とともに家からお精霊さんを送り出していくのである。父と母の両端にたつのとすみが立ち並ぶ、その後ろに番頭や女中が並び、西条家のお精霊さんに感謝の気持ちを思いながら、じっと静かに目を閉じていた。

 それを終えると、すみは庭の先から空を見上げた。線香の煙は見えなくなっても、空まで続く、それはお精霊さんが見えなくなっていく様を表しているように思えた。

 この日の夜には五山の送り火が行われる。五山の送り火は本来、京都の家々のお精霊さんを、あの世へと導いていくために焚かれるもので、西条家の火の見橋からでもその送り火はよく見えるものであった。

 静かな午前が終わりを告げ、その流れに沿った午後を感じ始めた時、すみはお供え物を持って、片付けを一人で隠れるように行っていた。誰に言われた訳でもなし、片付けることが悪いことでもなし、ただ、すみの小さな、親切心からであった。たつのは部屋で化粧を行い、父は町内の人達と話をし、母はたつのの化粧を手伝っていた。

 すみは蔵を開け、お供物を一つ運んだ。そして、すぐにまた同じように運んでいると、すぐ近くを佐伯が通った。

「お嬢さん、手伝いまひょか?」

「いいえ、大丈夫どす。うち一人で勝手におこなってるだけどすさかい」

 すみの言葉に耳を傾けず、佐伯は一番重い物を手に取った。

「佐伯さん、ええのに、悪おす」

「いや、お嬢さんがやる仕事とちがいます」

 佐伯はすみの顔の色を見た。その白い顔が青白くなったように感じたのは彼の幻覚のようではなかった。

 佐伯はすぐに慌てた様子を見せ

「一緒にやりまひょか?」

 佐伯に気を遣わせたことにすみは申し訳ないような想いを感じたが、佐伯と話をできる機会だと知ると、すみはその悲しげな思いは無くなった。

 蔵に二人で入り、佐伯はお供物を置くと、その光の当たらない場所に目を向けた。

「奥の方はよう見えなおすなぁ」

 西条家の蔵は光が入らないようになっており、すみもたつのも幼少期はこの光の入らない暗い蔵を極端に怖がっていた。まだ蔵がどんなものか知らずにいた子供の頃はそれが地獄への入り口かのように思っていた。

「うちが子供の頃は悪さをするとお父さんにここに閉じ込められたんどす」

「お嬢さんみたいな方でも悪さをされるんどすか?」

「ようしましたわ。どんな悪さをしたかは忘れてしまったけれど、うちやってお転婆どしたもの」

「そやけど、お淑やか思うとったさかい、お姉様の方がお転婆のように思えるんどすけど」

 すみは上品に笑った。

「昔は逆どしたんえ。姉の方は物静かで。せやけど、いつのあいさにか、姉は長女やさかいか、強うあって、そないな姉の変わりようを見て畏れ多い程の敬意出てきたんどす」

 すみは少しばかりの日の光の影が佐伯の顔にかかり、佐伯の顔がはっきりと目に入った。そしてそれがお精霊さんのご加護のような思いを持った。すみはこれ以上の幸せを望まない事を誓い、これだけのことでも、すみは贅沢な気分であった。

           ・

 送り火によってお精霊さんが無事戻って行くことを、家の中で静かに念じながら過ごす。たつのとすみは今年は火の見橋からではなく、送り火をもう少し近くで見ようと思い、夜には家を出て行った。

 番頭の運転で、二人は大文字山へ行くよう指示をした。

「姉さんと二人でお出掛けなんて、久し振りやな」

 すみのその言葉は暗くなる景色の中で輝いていたようにたつのの心に届いた。たつのは扇子を仰ぎながら

「あまり姉妹一緒ってあらへんさかいな。あてはこの家を継がな行けへんようだし、あまりすみのそばにいられることも少のうなるかもしれへんしね」

「うちは姉さんといつまでも一緒にいたいわ」

「それはあても同じや」

 すみはたつのの声に不安な色を見てとった。ただならぬ責任の重みが彼女を押し付けていた。

「姉さん、うちだって、姉さんの力になる。いつでも頼っとくれやす。もう子供とちがうし」

 たつのは何も言わず、ただすみに向けて、扇子を仰いだ。その言葉のないありがたい気持ちはすみにだけ伝わるようにたつのからの気遣いであった。

 すみは夏の空が祇園祭の時よりも暗くなっていると思った。秋がそこまで来ている不安のような寂しがあった。

「今年から、八時くらいに光るらしいから、なんとか間に合うようにしいひんとね」

 たつののその言葉は彼女の持つ不安と重ね合わせているのかもしれなかった。

 送り火には間に合ったが、車を降りるとそこはもう人で溢れかえっており、二人は番頭の後ろに着いて行きながら、その送り火が赤くなるその時を時折見上げ、番頭の黒い背を見失わないよう目を尖らせ、時折、後ろを振り向く番頭と目が合うと、お互いに安心しきり、人に揉まれながら、よそよそしく歩いていた。

 時間は八時を過ぎていた。そしてそれから十分程過ぎた時、火の片隅がすみの目の中にありありと浮かんできた。やがてそれが大の字になる。

 暗闇の底に燃え上がる火の元に煙が明るく舞い上がる。それが途切れることなく続き、すみはその光景を気を取られ、一人ぼっちになってしまう事を思い、姉の肩に手を乗せた。

「どないしたん?」

「姉さんに着いていったら安心やさかい。送り火ばっかり見てるとはぐれてまうかもって」

 たつのはすみの手を握った。手の真ん中に暖かみを感じ、たつのの心中の表れかと思った。

「姉さんの手、あったかい」

 たつのの表情はよく見なかった。

「お精霊さん、これをお空の上から見てるんやろか?」

「そうやろな。空の上やったら、見上げるよりも楽なんやと思うわ」

「姉さん、子供みたいなこと言うんやな」

「あんたが言い始めたんやろ。せやけど、これでお精霊さんを送って、今年のお精霊さんの役目は終わった。今は、のんびり余韻を楽しむわ」

 悲しい程に、音があり、その音が心から鳴り響くことをすみは今になって気が付いた。蒸し暑い夜に囲まれた優しさは何者にも変え難かった。

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