捨てられ姫は身投げした滝に棲む龍神様に溺愛される
日も暮れなずむ黄昏時に、流れ激しき滝の上にて、ひざまずき念仏を唱える女がいた。
姿は白無垢、顔には化粧。
どこからどうみても花嫁姿。
しかし、その顔は悲しみに満ち、涙に冷たく凍てついていた。
女の名前は、八重という。
この日は、彼女の祝言である。
それなのに、夫となるはずの松彦が、物陰で自分の妹と抱き合っているのを見てしまったのだ。
『あん、松様ぁ、いけませんわ、こんなところで』
『よいではないか。九夏、お前は本当にかわいいな。あの八重などとは比べ物にならん。私が真実愛しているのは、お前だけだよ、九夏姫』
『うふふ、あたしも松様が好きです。それにしても、窮屈な掟。姉が未婚のうちは、まだ妹は嫁いではいけないなんて』
『その掟がなければ、迷わずお前を娶っていたとも』
『松様、好き。……ね、もしも八重姉様が亡くなれば、私が松様に嫁ぎますわ』
『ああ、そうしよう、そうしよう。八重はいつも顔色が悪いし、毒など飲めば、すぐだろう』
八重は、耐えきれず、その場から逃げた。
そうして、今、滝の上にいる。
八重と九夏は、母親の違う姉妹である。
父は地主。前妻であった八重の母は、地主にあまり愛されなかった。後妻の九夏の母のほうが、男の愛を得るのが巧みで、その差がそのまま、娘たちの待遇の差に繋がった。
八重は、家主の娘であるのに、ほとんど下女のように働いた。毎日早起きして飯を炊き、掃除に洗濯、薪まで割って、深夜遅くにくたびれて眠る。
実家での冷遇に耐えに耐え、代官の息子・松彦との結婚話が決まったときは、ようやく自分も人並みの幸せが手に入る、と思った。
まさか、それさえ、妹にかすめ取られるとは。
かくなるうえは、死ぬよりない。
松彦と九夏も、それを望んでいる。
肝臓を病んで昨年逝った九夏の母が存命であれば、彼女も八重に死ねと言っただろう。
八重は、誰にも望まれぬのだ。
「……羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」
念仏の最後の一説を唱え終え、八重は、ふらりと立ち上がった。
お母様、八重も今から御元へゆきます。
うなる滝壺を眼下に見据え、ほんのひととき、八重の足は立ち竦んだ。
その耳元で、何かがそっとささやいた。
『おや、美しい花嫁だ。なのに、死のうとしているのかね』
八重は、びくりと振り向いた。
しかし、そこには人影はない。
『無駄よ、無駄。それより娘、答えぬか。そなた、これから身投げするのか?』
「……は、はい」
『もったいないのう。せっかくだ、それならば我の妻にならぬか? 我も独り身、そろそろ所帯を持て持てと、周りもなかなか口煩いでな。そなたはヒトのおなごであるが、氏子とあらば申し分無し』
姿無き声だけがする。
物の怪かなにかだろうか。
恐ろしい。
だけど、死ぬ身だ。
八重は、捨て鉢でうなずいた。
「……私などを、お望みならば……」
『決まりだな! さすれば、我が宮へゆくとしよう。輿を呼ぶにも時間がかかる、早道でゆくぞ、そうら、飛べ!』
途端に、体が宙に浮いた。
滝壺めがけて、真っ逆さまだ。
「えっ!? い、いやあああっ!!」
死のうと覚悟を決めてはいても、急に落ちるとは聞いていない。
八重の悲鳴が、空に響いた。
そして、どぼん、と消え失せた。
水面にぶつかる衝撃は、思ったよりはひどくなかった。
それでも八重は、水に沈んで、とっさに目を閉じ、呼吸を止めた。
必死に口を押さえていると、耳元でまた声がした。
『ああ、そうか。鱗を飲ませておらなんだ。我としたことが、浮かれていたな。ほれ、人の姫、これを飲み込め』
唇に何かが触れて、無理やり中へ押し入った。
流れ込む水と一緒に、ごくりと喉へ下っていく。
『もう息を止めずともよいのだぞ。試しにひとつ吸ってご覧』
ここまできたら、どうにでもなれ。
八重は、溺れてしまうつもりで、口にも鼻にも息を吸った。
……そして、思わず目を見開いた。
(呼吸が、できる? 水底なのに?)
ぱちぱちとまぶたをまたたかせた八重は、広がる景色にも驚いた。
翡翠に珊瑚に白蝶貝。白、金、黒の真珠玉。
清き真砂に、丹塗りの柱。つやりと輝く屋根瓦。
実家があばら家に見えるほどの、掛け値なしの大宮殿だ。
「我が龍宮へようこそ、姫よ」
隣にかすかな足音を聞き、八重ははっとして顔を上げた。
金糸で織られた鬱金の沓に、銀糸で織られた月白の衣。
滝の流れに似た白銀の豊かな髪をさらりと伸ばし、眼は深き水底に似て落ち着き払った瑠璃の星。
人ならざる色彩をまとった、輝く美丈夫がそこにいた。
ぽかんとしている八重を抱えて、男は宮へ歩いていった。
そして、あれよあれよと言う間に、杯交わし、夫婦となった。
八重姫がようやく我に返ったのは、初夜の寝床に着いてからである。
いざ手に触れた相手の熱に、彼女はあわててこう言った。
「あの、ところで、あなた様はいったいどのような」
「おお、そうだ。真名を交わしておらなんだ」
こう見えて、何かとうっかり者らしい。男は笑んで、八重に尋ねた。
「先にそなたの名を聞こうかの。我が妻よ、そなたの名前は何という」
「……八重、です」
「そうか、八重姫か。うん、良い名だな。そなたに似合う。それでは、我も名乗るとしよう」
そして、ぐいっと身を乗り出して、八重の耳元に唇を寄せた。
「神の真名だ。一度しか言わぬ、よく聞けよ。……我は、多岐早瀬水分命。この地を治める、龍神である」
八重は、心臓が止まるかと思った。
つい先ほど、身投げしようとした滝は。
その滝は、早瀬滝というのだ。
「お許しを……。私は、あなた様の滝を、卑しき私の死で穢そうと……」
水の神、早瀬は、震えて涙する八重にほほえみ、優しく言った。
「なあに、未遂だ。怒っておらぬ。……ところで、我は神の中でも嫉妬深いと有名なのだ。真名を知り、杯交わした身となれば、二度とここから逃してやらぬ。覚悟はよいな、我の八重姫」
くるりと寝かされ、手をとらわれて、乙女の八重はどきりとひるんだ。比類なき美貌の神の両目には、隠しもしない情熱があった。それは熱病のように八重にも伝染り、体の芯が甘くしびれた。
物心ついたときから望まれぬ娘だった八重は、この夜初めて、求められる喜びを知った。
地上には、暗雲が立ち込めていた。
代官屋敷は、誰も彼もが大騒ぎ。
松彦の花嫁が消えたのだ。
「ご報告申し上げます! 八重さまの悲鳴を滝で聞いたという者が……」
下男の報告に、代官夫婦は青ざめた。
古くから竜神が棲むという早瀬の滝は、激流だ。
滝壺に落ちれば、生きてはいまい。
花嫁の生死は絶望的だ。
にもかかわらず、場違いな甘い声が響いた。
「松様ぁ。それなのでしたら、あたしが松様の花嫁になりますわ」
「おお、それはよい。父上、母上、いかがでしょう。もとよりこれは、代官と地主の家を結びつける目的の婚姻なのですから、九夏はふさわしい娘です」
「それに、せっかくの式のお支度も、あたしが嫁げば無駄になりませんわ」
「おお、まっことその通り。九夏はほんに賢い姫よ」
九夏の父である地主さえ、うんうんそうだとうなずいている。実の娘の八重が死んだというのに、信じられない態度である。
松彦の親、代官夫妻は、自分たちの失敗を悟った。
(なんという人でなしの一家であることか。それに、松彦、我が息子ながら、なんと愚かであることか)
代官には、松彦の下に、竹彦という息子もいる。
しかし、この国の掟によって、年功序列は絶対だ。
兄と弟がいるならば、跡継ぎは必ず兄とする。
姉と妹がいるならば、姉が必ず先に嫁ぐこと。
家督相続の流血を防ぐために定められた掟が、もっともおぞましいなりゆきで、愚妻と愚夫を生んでしまった。
(近く、この郷に、災いが起こるやもしれぬ……)
雷が、代官屋敷の近くに落ちた。
稲妻は雨の勢いを増し、川の水量は増してゆく。
早瀬の名を持つ滝の流れは、黒く泡立ち、ごう、とうなった。
さて、早いもので、一年が経った。
龍宮で、八重は二人の子を抱いていた。
「おお、よしよし。時雨はお腹いっぱいになった? 澪、お前はまだ足りないの?」
生まれた赤子は、双子であった。
夫の早瀬が龍神なので、卵で生まれるのではないかと、八重はびくびくしていたのだが、なんのことはない、人の子と同じように生まれた。
それを聞き、早瀬は呆れて笑っていた。
『我は神だぞ。蛇ではない』
可愛い双子は、今日も元気だ。
男児の時雨は、静かで控えめ。
女児の澪は、食いしん坊だ。
二人にお乳を与え終わった八重に、侍女たちがほほえんだ。
「それでは八重様、わたくしどもがお二人を寝かしつけますね」
「琴引、止水魚、ありがとう。いつも本当に助かります」
「なんの、これが仕事ですから。それに二人とも、とてもよい子です」
子どもを任せてひと息ついた八重に、後ろから抱きつく者がいた。
無論、夫の早瀬であった。
「さあ、八重よ。ようやく二人の時間ができた」
ため息一つこぼした後に、八重の裏拳がごつんと鳴った。
容赦のない一撃を食らって、早瀬は「ぐおお」と悶絶する。
「なぜだ、八重……」
「早瀬さま。あなたといえば、日がな一日、私の後をひっついて回るばかりではありませんか! 他にすることはないのですか!」
「いや、あるとも。勿論あるぞ。神として、氏子の田をうるおしているとも」
「その他は!」
「無い! ……いやいや、勘違いするな。日々穏やかに過ごすことこそ、我の一番の務めなのだぞ。水が荒ぶれば、人が死ぬでな。……本当なのだ、八重よ、怒るな!」
おろおろと言い訳をするその姿は、とてもではないが、威厳に欠ける。八重は、再びため息をついた。
この男、早瀬は、本人の言うとおり、どろりと重い愛の持ち主だ。
というか、とんだ好色家だった。
朝方は、目覚めの口づけを逃すまいと、いつも隣で待ち構えている。日中も、どこへ行くにも八重と一緒で、常に手を取るか、肩を抱いている。日が落ちて、夕餉を終えて身を清めれば、愛はより直に交わされる。そのまま八重を抱えて眠り、また次の朝、「お早う」とともに口づけをする。
地上の暮らしで深く傷つき、乾ききっていた八重の心も、今ではすっかり早瀬から与えられる愛で満たされていた。
いや、満ちるどころか、氾濫している。
それで、とうとう最近は、べたべたしすぎの旦那を鬱陶しがる余裕まで出てきたという具合であった。
「いや、それにしても、我らの子らは、まこと八重によく似ておる! 八重よ、そなたもそう思うだろう」
必死に話題をすり替える夫に、あきれながらも、八重は答える。
「そうですか? 髪も眼も、早瀬さまと同じ色です」
「しかし、どちらも瞳が丸い。我は縦長だ。つまり二人は、八重に似たのだ!」
「……人の瞳は、私でなくても、みんな丸ですっ!」
適当なことを言う早瀬に怒り、八重はその部屋を出ていった。のしのし歩く妻の背中を、夫があわてて追いかける。
「ま、待て、八重よ、頼む、怒るな。……おお、この庭の花は見頃だ! 八重よ、花見だ、花見をしよう!」
袖を引き、「な? 八重、な?」と懇願する形振り構わぬ早瀬の姿に、八重はしぶしぶ付き従った。
こういうところが、ずるい男だ。
凛々しいくせに甘え上手で、いつもついついほだされる。
縁側に座った早瀬は、その膝をぽんぽん叩いて八重に笑った。八重はもじもじと膝に座った。
水底に咲く不思議の花を眺めつつ、早瀬はしみじみこうささやいた。
「すまんのう。我も子を得るのは初めてなのだ。この宮は家来が大勢おるがゆえ、何とかなると高をくくっておったのだが、……いざ我が子らを目の前にすると、おのれの手でしてやれることが、いかにも少なく、悔しいのう」
「早瀬さま……」
「せめて、そなたを労りたいが、どうにも邪魔をしてしまう。許せ、八重姫」
「わ、私も、本気で怒ったりしていません」
「そうか、そうか。八重、我の子を産んでくれてありがとうな」
八重は、くすぐったくなった。
胸の中で、泡がぽこぽこはじけるように、愛しさが湧き上がってくる。
早瀬の胸に背中を預け、八重はぽそりとつぶやいた。
「早瀬さまとの子に恵まれて、私もとても幸せです。時折、ふと思うのです。もし、松彦さまの子を産んでいれば……毎日、虚しかっただろう、と……」
「八重。それは誰のことだ」
唐突に、冷えきった声が放たれた。
八重はびくりとおびえた。
氷の刃で心臓を刺されたように、彼女は震えた。
早瀬の手が、八重の顎をぐいと掴んだ。
縦に割れた瑠璃色の目が、ぎろりと八重を射抜いていた。
「我の前で、他の男の名を呼んだな」
「あ、あの、それは、申し訳」
「思えばそなた、地上のことはほとんど話さぬ。洗いざらい吐け、松彦とはどこの誰だ。そなたと恋仲だったのか? そやつの子を生むはずだったのか? 今もそやつは生きておるのか? 八重、まだその男が好きなのか?」
「早、瀬、さま」
「答えよ、八重。……答えよ!」
顎を掴む手の力におびえ、震える声で、八重は話した。
自分が、地主の前妻の娘であること。
後妻の娘の九夏だけを、誰もが可愛がったこと。
代官の息子である松彦に、あの日、嫁ぐはずだったこと。
だけど松彦も、本当は九夏を愛していて、いずれ自分を殺そうとしていたこと。
「だ、だから、もう好きではありません。あの人だって、私などより、妹の九夏のことが……」
龍の瞳孔がぎらりと細まる。
「なるほどな。それゆえそなたは、白無垢まとって死のうとしたか」
顎を掴む手が離れた。
無言で膝からおろされた。
早瀬は衣を翻し、ひとり、その場から去っていった。
おびえてがたがた震える八重を、ぽつんとその場に残したままで。
その夜、早瀬は白蛇に身を変え、地上にある代官屋敷を見に行った。
代官の跡取り息子松彦と、その妻である九夏とが、乳繰り合っているのが見える。
「松様ぁ。あの女が滝に落ちて死んでから、本当にいいことづくめですねぇ。川の水は豊かで穏やかだし、邪魔者が消えて結婚できたし。あとは、あたしたちに子どもができれば最高ですぅ」
「うんうん、そうだ。本当にそうだ。あの滝には、龍が棲んでいると言われているから、八重を生贄に受け取って、喜んでくれたのかもしれんなあ」
早瀬は、静かに激怒していた。
妻と子を得た幸福から、地をうるおしてやったのは事実だが、それは、八重の死を喜ぶような、性根の腐った者どもに、恵みを与えるためではない。
(卑賤で矮小な人間どもよ。目にもの見せてくれようぞ)
あんなにも鬱陶しいほどべったりだった早瀬が、まったく姿を表さなくなった。
ひとりきりで目が覚めた朝、八重は初めて、この水底の宮を肌寒いと感じた。
子育ては、御殿の頼もしい侍女たちが、何くれとなく手伝ってくれる。
だが、ともに子を撫でて笑う声や、「子も可愛いが八重も愛い」と後ろから抱きしめる腕が無い。
それが、こんなにも孤独なのかと、八重はぼうぜんとうつむいた。
(私のせい?)
(早瀬さまの前で、松彦さまの名を出したせい?)
(あんなに愛してくださった早瀬さまは、もう私のことがお好きでない?)
(いずれ私は、また捨てられる?)
悪い想像は記憶と混ざり、八重の視界に、恐ろしい幻覚の像を結んだ。
妹の九夏が、早瀬の胸の中で、八重を嘲笑い、舌を出す。
――姉様なんかには、もったいないわ。
八重は、ふらりと床に倒れた。
龍宮の奥深くに設けられた神廟の扉を、家僕の石伏は、おおあわてで打ち鳴らした。
「我が君、我が君! 急ぎお報せしたいことが!」
しばらくして、扉は内から開かれた。
現れたのは、早瀬である。
しかし、彼の出で立ちは、普段通りのものではなかった。
黒き衣に、黒き沓。
指には、呪術の灰の跡。
呪いの儀式のさなかであった。
光のささぬ暗い眼で、早瀬は石伏を見下ろした。
「……何用か」
「恐れながら申し上げます。火急の報せでございましたので」
「前置きはよい。手早く申せ」
「八重姫様が、お倒れになりました!」
かっと両目を見開いて、早瀬の顔に感情が戻った。
神通力が、瞬きの間に穢れを祓う。
蛇がその皮を脱ぎ去るように、衣は黒から月白に変わる。
数十日も続いた儀式を放り出し、早瀬は、飛ぶように寝所へ急いだ。
褥には、真っ青な顔の八重がいた。
医師や薬師に取り囲まれて、か細い息で寝かされていた。
「早瀬さま……」と、消え入りそうな声を吐き、八重は目元に涙を浮かべた。
「何日も会ってくださらないから、もう、私など、お嫌いになったかと……」
「そんなはずがあるものか、八重! 我の心は、そなたのものだ!」
「よかった……」
ぽろぽろと泣く八重の隣に、早瀬はひざまずいて寄り添った。何度も口を重ねる二人を、家来たちも泣いて見守った。
やがて、八重姫がいつものように、人目を恥じる元気が出てから、早瀬は低く声をひそめて、これまでのことを打ち明けた。
「このところ、我がひとりで籠っていたのは、そなたを虐げた愚か者どもを、この手で誅するためだった。呪詛がそなたや子どもたちに、わずかでも降り掛かってはならぬと、廟から出ぬようにしていたのだ。
もう寂しい思いはさせぬ。……それに、呪いも仕上がっている」
不安げな妻の頬をそっと撫で、龍神は酷薄に笑った。
「せっかくだ、八重にも見せてやるとしよう。そなたを苦しめた下郎どもが、どのような目に遭うかをな」
地上は荒れ果て、病んでいた。
田をうるおしていた水が枯れて、急な旱が村々を襲った。
かと思えば、激流が堰を押し流して、人里を舐め、疫病が広がる。
これでは、租税を納められない。
人々は救済を求めて、あるいは山野に逃散し、あるいは代官に強訴した。
代官屋敷で、農民たちのひとりは、このように叫んだ。
「昨年の豊かな実りが、地主の娘を龍神の生贄にして得たものならば、もうひとりの娘も滝壺に落とせ!」
青ざめた九夏に急かされて、代官屋敷の松彦は、刀を抜いて、庭先で騒ぐ農民たちを脅しつけた。
そこに、天から響く声。
「やれ愚かしや。苦しむ民に食らわすものが、米ではなくて鋼とな」
早瀬滝の激流が、みるみるうちに逆巻いて、龍の姿をかたどった。
人々を天から見下ろす、その威容。
声を裏返し、松彦は言った。
「も、もしや、あなたは、この滝に棲む龍神か!?」
「いかにも、昨年、我は乙女を受け取った」
月白の鱗を輝かせ、白銀のたてがみをなびかせて、早瀬は重々しく応じた。
「八重姫は、我が妻となり、我が子を産んでくれもした。その八重の故郷と思えばこそ、我はそなたらに、水の恵みをさずけたのだぞ」
龍の背に乗る人影を見て、民は指差し、あっと叫んだ。
龍と揃いの月白の衣に、紅梅の領巾、蘇芳の裳。
髪には珊瑚の簪を挿す、華奢な娘の姿があった。
ざわめく民の声が広がる。
松彦の背に隠れた九夏は、姉の姿に歯ぎしりをした。
(何よ、あれ。いつもみじめな八重姉様が、あたしより上等な衣を着て、あたしには無い子宝まで得たっていうの? いったい何様のつもり?)
龍におびえた松彦は、そんな九夏を、必死で庭へと押し出した。
「では、いま一度、贄をお受け取り下され! これなるは八重の妹、九夏姫と申す者!」
「ちょっと、松様!?」
「よいではないか! ほれ、八重もあのように生きておる。村々のためだ、聞き分けよ!」
「嫌よ、こんな薄汚れた連中のために、なんであたしが! 松様、あたしを愛しているんじゃなかったの!?」
醜く争う二人の姿に、早瀬は、怒りの吼え声をあげた。
「汚れた売女を、我が滝に落とすな!
すでに聞いたぞ。代官の息子よ、貴様は八重を裏切って、祝言の夜、そこの売女を抱いていたそうではないか」
「な……」
民のざわめきは弥増した。
後から遅れてやって来た代官夫婦も、青ざめた。
「松彦! お前、よりにもよって、そんなふざけた真似をしたのか!」
「ちが、違う! 九夏がむりやり俺にすり寄って……」
「松様!?」
「ええい、見苦しいわ!」
龍神の吼える声に呼ばれて、天に稲妻が轟いた。
それは、あやまたず松彦を打ち、その身を黒く焼き尽くした。
人々は、悲鳴をあげて逃げ惑った。
ぶすぶす焦げる夫の屍を前にして、九夏は、涙目で八重をなじった。
「あの女が、逆恨みで呪いをかけたのよ! 村の渇きも、疫病も、あの女が龍をそそのかしてやらせたに違いないのよ!
何様よ! 負け犬のくせに、絹などまとって、子まで得て!」
早瀬は、あきれてつぶやいた。
「神につば吐く不心得者は、水鏡見ることもせなんだか。逆恨み者も負け犬も、果たしてどちらか、見れば一目瞭然であろうに。……もうよい、貴様もこの世から去ね」
再びの雷が鳴り、九夏を焼いた。
悲鳴さえ、一瞬で潰えた。
火柱を眺め、八重はただただ、ぼうぜんとした。
怒り狂った龍神に、人々は震え、ひれ伏している。
代官夫妻も、村人たちも。
八重はあわてて早瀬にすがった。
「早瀬さま、どうかもうおやめください。私にとっては、どちらも過去の人でした。
それに、ご覧くださいませ。みながあなたにおびえております。どうか慈悲深き水神に戻ってください。人々の田畑に実りを与えてください。病を癒やしてあげてください」
早瀬は、龍の姿のままで、ぐるぐると喉を鳴らしてうなずいた。
「……そなたに免じて、そうしよう。案ずるな、旱も加減はしてあった。病も死者はまだ出ておるまい。我が龍の血で、みな治そうぞ」
そして、人々にこう告げた。
「氏子らよ、ゆめゆめ忘れることなかれ。妻がありながら不貞をはたらくな。他人を妬み物を奪うな。身内の不幸を喜ぶでない。人の道から外れるなかれ。
地の道の正しく続く限りにて、我が水もまた正しく満ちる。……ゆめ忘れるな、地の人の子よ……」
龍はひと声大きく鳴くと、身を横たえて、滝に戻った。
白くささやかな雨が降りだし、残り火をそっと消し止めた。神に罰された愚者たちさえも、泣いて哀れむかのように。
龍神が宣言したとおり、旱に苦しんでいた村々は、豊かな水が再びうるおした。
病に苦しんでいた村には、正体不明の道士たちが現れて、「龍の血」なる薬を飲ませて、一人残らず治していった。
米の出来高は下がるだろうが、昨年の蓄えもある。代官が税を加減してやれば、みな暮らしていける範囲であった。
八重姫と九夏姫の父である地主は、娘二人を失い、失意のままに仏門に入り、杖のみを手に、村から去った。
跡継ぎの松彦夫妻を亡くした代官は、その弟の竹彦を、新たな跡継ぎと定めた。この男は、色に溺れることもなく、堅実に村々を治めた。そして、この地の水源である早瀬滝に社を建てて龍神を祀り、その周囲に、たくさんの桜の木を植えたという。
地崩れを防ぎ、景色を彩るその木々は、その土地に住まう住民たちから「八重姫桜」と呼ばれている。花は、荒ぶる龍をなだめて、毎年、春に咲き誇る。