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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

捨てられ姫は身投げした滝に棲む龍神様に溺愛される

作者: たっこ

 日も暮れなずむ黄昏(たそがれ)(どき)に、流れ激しき滝の上にて、ひざまずき念仏を唱える女がいた。


 姿は白無垢、顔には化粧。

 どこからどうみても花嫁姿。

 しかし、その顔は悲しみに満ち、涙に冷たく凍てついていた。


 女の名前は、()()という。

 この日は、彼女の祝言である。

 それなのに、夫となるはずの(まつ)(ひこ)が、物陰で自分の妹と抱き合っているのを見てしまったのだ。


『あん、松様ぁ、いけませんわ、こんなところで』


『よいではないか。(きゅう)()、お前は本当にかわいいな。あの八重などとは比べ物にならん。私が真実愛しているのは、お前だけだよ、九夏姫』


『うふふ、あたしも松様が好きです。それにしても、窮屈な掟。姉が未婚のうちは、まだ妹は嫁いではいけないなんて』


『その掟がなければ、迷わずお前を(めと)っていたとも』


『松様、好き。……ね、もしも八重姉様が亡くなれば、私が松様に嫁ぎますわ』


『ああ、そうしよう、そうしよう。八重はいつも顔色が悪いし、毒など飲めば、すぐだろう』


 八重は、耐えきれず、その場から逃げた。

 そうして、今、滝の上にいる。


 八重と九夏は、母親の違う姉妹である。

 父は地主。前妻であった八重の母は、地主にあまり愛されなかった。後妻の九夏の母のほうが、男の愛を得るのが巧みで、その差がそのまま、娘たちの待遇の差に繋がった。


 八重は、家主の娘であるのに、ほとんど下女のように働いた。毎日早起きして飯を炊き、掃除に洗濯、(まき)まで割って、深夜遅くにくたびれて眠る。

 実家での冷遇に耐えに耐え、代官の息子・松彦との結婚話が決まったときは、ようやく自分も人並みの幸せが手に入る、と思った。

 まさか、それさえ、妹にかすめ取られるとは。


 かくなるうえは、死ぬよりない。

 松彦と九夏も、それを望んでいる。

 肝臓を病んで昨年()った九夏の母が存命であれば、彼女も八重に死ねと言っただろう。

 八重は、誰にも望まれぬのだ。


「……(ぎゃ)(てい)(ぎゃ)(てい)()()(ぎゃ)(てい)()()()(ぎゃ)(てい)()()()()()


 念仏の最後の一説を唱え終え、八重は、ふらりと立ち上がった。

 お母様、八重も今から()(もと)へゆきます。


 うなる滝壺を眼下に見据え、ほんのひととき、八重の足は立ち竦んだ。

 その耳元で、何かがそっとささやいた。


『おや、美しい花嫁だ。なのに、死のうとしているのかね』


 八重は、びくりと振り向いた。

 しかし、そこには人影はない。


『無駄よ、無駄。それより娘、答えぬか。そなた、これから身投げするのか?』


「……は、はい」


『もったいないのう。せっかくだ、それならば我の妻にならぬか? 我も独り身、そろそろ所帯を持て持てと、周りもなかなか(くち)(うるさい)いでな。そなたはヒトのおなごであるが、(うじ)()とあらば申し分無し』


 姿無き声だけがする。

 (もの)()かなにかだろうか。

 恐ろしい。

 だけど、死ぬ身だ。

 八重は、捨て鉢でうなずいた。


「……私などを、お望みならば……」


『決まりだな! さすれば、我が宮へゆくとしよう。輿(こし)を呼ぶにも時間がかかる、早道でゆくぞ、そうら、飛べ!』


 途端に、体が宙に浮いた。

 滝壺めがけて、真っ逆さまだ。


「えっ!? い、いやあああっ!!」


 死のうと覚悟を決めてはいても、急に落ちるとは聞いていない。

 八重の悲鳴が、空に響いた。

 そして、どぼん、と消え失せた。


 水面(みなも)にぶつかる衝撃は、思ったよりはひどくなかった。

 それでも八重は、水に沈んで、とっさに目を閉じ、呼吸を止めた。

 必死に口を押さえていると、耳元でまた声がした。


『ああ、そうか。鱗を飲ませておらなんだ。我としたことが、浮かれていたな。ほれ、人の姫、これを飲み込め』


 唇に何かが触れて、無理やり中へ押し入った。

 流れ込む水と一緒に、ごくりと喉へ下っていく。


『もう息を止めずともよいのだぞ。試しにひとつ吸ってご覧』


 ここまできたら、どうにでもなれ。

 八重は、溺れてしまうつもりで、口にも鼻にも息を吸った。

 ……そして、思わず目を見開いた。


(呼吸が、できる? (みな)(そこ)なのに?)


 ぱちぱちとまぶたをまたたかせた八重は、広がる景色にも驚いた。


 ()(すい)(さん)()(しろ)(ちょう)(がい)。白、金、黒の(しん)(じゅ)(だま)

 (きよ)真砂(まさご)に、()()りの柱。つやりと輝く屋根瓦。

 実家があばら家に見えるほどの、掛け値なしの大宮殿だ。


「我が(りゅう)(ぐう)へようこそ、姫よ」


 隣にかすかな足音を聞き、八重ははっとして顔を上げた。


 金糸で織られた鬱金(うこん)(くつ)に、銀糸で織られた(げっ)(ぱく)(きぬ)

 滝の流れに似た(しろ)(がね)の豊かな髪をさらりと伸ばし、(まなこ)は深き(みな)(そこ)に似て落ち着き払った()()の星。

 人ならざる色彩をまとった、輝く()(じょう)()がそこにいた。


 ぽかんとしている八重を抱えて、男は宮へ歩いていった。

 そして、あれよあれよと言う間に、(さかずき)交わし、夫婦となった。


 八重姫がようやく我に返ったのは、初夜の寝床に着いてからである。

 いざ手に触れた相手の熱に、彼女はあわててこう言った。


「あの、ところで、あなた様はいったいどのような」


「おお、そうだ。()()を交わしておらなんだ」


 こう見えて、何かとうっかり者らしい。男は笑んで、八重に尋ねた。


「先にそなたの名を聞こうかの。我が妻よ、そなたの名前は何という」


「……八重、です」


「そうか、八重姫か。うん、良い名だな。そなたに似合う。それでは、我も名乗るとしよう」


 そして、ぐいっと身を乗り出して、八重の耳元に唇を寄せた。


「神の()()だ。一度しか言わぬ、よく聞けよ。……我は、()()(はや)()水分(みくまり)(のみこと)。この地を治める、龍神である」


 八重は、心臓が止まるかと思った。

 つい先ほど、身投げしようとした滝は。

 その滝は、(はや)()(だき)というのだ。


「お許しを……。私は、あなた様の滝を、(いや)しき私の死で(けが)そうと……」


 水の神、早瀬は、震えて涙する八重にほほえみ、優しく言った。


「なあに、未遂だ。怒っておらぬ。……ところで、我は神の中でも嫉妬深いと有名なのだ。()()を知り、(さかずき)交わした身となれば、二度とここから(のが)してやらぬ。覚悟はよいな、我の八重姫」


 くるりと寝かされ、手をとらわれて、乙女の八重はどきりとひるんだ。比類なき美貌の神の両目には、隠しもしない情熱があった。それは熱病のように八重にも伝染(うつ)り、体の芯が甘くしびれた。

 物心ついたときから望まれぬ娘だった八重は、この夜初めて、求められる喜びを知った。




 地上には、暗雲が立ち込めていた。

 代官屋敷は、誰も彼もが大騒ぎ。

 松彦の花嫁が消えたのだ。


「ご報告申し上げます! 八重さまの悲鳴を滝で聞いたという者が……」


 下男の報告に、代官夫婦は青ざめた。

 古くから竜神が棲むという早瀬の滝は、激流だ。

 滝壺に落ちれば、生きてはいまい。

 花嫁の生死は絶望的だ。


 にもかかわらず、場違いな甘い声が響いた。


「松様ぁ。それなのでしたら、あたしが松様の花嫁になりますわ」


「おお、それはよい。父上、母上、いかがでしょう。もとよりこれは、代官と地主の家を結びつける目的の婚姻なのですから、九夏はふさわしい娘です」


「それに、せっかくの式のお支度も、あたしが嫁げば無駄になりませんわ」


「おお、まっことその通り。九夏はほんに賢い姫よ」


 九夏の父である地主さえ、うんうんそうだとうなずいている。実の娘の八重が死んだというのに、信じられない態度である。

 松彦の親、代官夫妻は、自分たちの失敗を悟った。


(なんという人でなしの一家であることか。それに、松彦、我が息子ながら、なんと愚かであることか)


 代官には、松彦の下に、(たけ)(ひこ)という息子もいる。

 しかし、この国の掟によって、年功序列は絶対だ。


 兄と弟がいるならば、跡継ぎは必ず兄とする。

 姉と妹がいるならば、姉が必ず先に嫁ぐこと。


 家督相続の流血(るけつ)を防ぐために定められた掟が、もっともおぞましいなりゆきで、愚妻と愚夫を生んでしまった。


(近く、この(さと)に、災いが起こるやもしれぬ……)


 雷が、代官屋敷の近くに落ちた。

 稲妻は雨の勢いを増し、川の水量は増してゆく。

 早瀬の名を持つ滝の流れは、黒く泡立ち、ごう、とうなった。




 さて、早いもので、一年が経った。

 (りゅう)(ぐう)で、八重は二人の子を抱いていた。


「おお、よしよし。時雨(しぐれ)はお腹いっぱいになった? (みお)、お前はまだ足りないの?」


 生まれた赤子は、双子であった。

 夫の早瀬が龍神なので、卵で生まれるのではないかと、八重はびくびくしていたのだが、なんのことはない、人の子と同じように生まれた。

 それを聞き、早瀬は呆れて笑っていた。


『我は神だぞ。(おろち)ではない』


 可愛い双子は、今日も元気だ。

 男児の時雨は、静かで控えめ。

 女児の澪は、食いしん坊だ。


 二人にお乳を与え終わった八重に、侍女たちがほほえんだ。


「それでは八重様、わたくしどもがお二人を寝かしつけますね」


(こと)(ひき)止水魚(とみよ)、ありがとう。いつも本当に助かります」


「なんの、これが仕事ですから。それに二人とも、とてもよい子です」


 子どもを任せてひと息ついた八重に、後ろから抱きつく者がいた。

 無論、夫の早瀬であった。


「さあ、八重よ。ようやく二人の時間ができた」


 ため息一つこぼした後に、八重の裏拳がごつんと鳴った。

 容赦のない一撃を食らって、早瀬は「ぐおお」と悶絶する。


「なぜだ、八重……」


「早瀬さま。あなたといえば、日がな一日、私の後をひっついて回るばかりではありませんか! 他にすることはないのですか!」


「いや、あるとも。勿論あるぞ。神として、(うじ)()の田をうるおしているとも」


「その他は!」


「無い! ……いやいや、勘違いするな。日々穏やかに過ごすことこそ、我の一番の務めなのだぞ。水が荒ぶれば、人が死ぬでな。……本当なのだ、八重よ、怒るな!」


 おろおろと言い訳をするその姿は、とてもではないが、威厳に欠ける。八重は、再びため息をついた。


 この男、早瀬は、本人の言うとおり、どろりと重い愛の持ち主だ。

 というか、とんだ好色家だった。

 朝方は、目覚めの口づけを逃すまいと、いつも隣で待ち構えている。日中も、どこへ行くにも八重と一緒で、常に手を取るか、肩を抱いている。日が落ちて、(ゆう)()を終えて身を清めれば、愛はより(じか)に交わされる。そのまま八重を抱えて眠り、また次の朝、「お早う」とともに口づけをする。


 地上の暮らしで深く傷つき、乾ききっていた八重の心も、今ではすっかり早瀬から与えられる愛で満たされていた。

 いや、満ちるどころか、(はん)(らん)している。

 それで、とうとう最近は、べたべたしすぎの旦那を(うっ)(とう)しがる余裕まで出てきたという具合であった。


「いや、それにしても、我らの子らは、まこと八重によく似ておる! 八重よ、そなたもそう思うだろう」


 必死に話題をすり替える夫に、あきれながらも、八重は答える。


「そうですか? 髪も(まなこ)も、早瀬さまと同じ色です」


「しかし、どちらも瞳が丸い。我は縦長だ。つまり二人は、八重に似たのだ!」


「……人の瞳は、私でなくても、みんな丸ですっ!」


 適当なことを言う早瀬に怒り、八重はその部屋を出ていった。のしのし歩く妻の背中を、夫があわてて追いかける。


「ま、待て、八重よ、頼む、怒るな。……おお、この庭の花は見頃だ! 八重よ、花見だ、花見をしよう!」


 袖を引き、「な? 八重、な?」と懇願する(なり)()り構わぬ早瀬の姿に、八重はしぶしぶ付き従った。

 こういうところが、ずるい男だ。

 凛々しいくせに甘え上手で、いつもついついほだされる。

 縁側に座った早瀬は、その膝をぽんぽん叩いて八重に笑った。八重はもじもじと膝に座った。


 (みな)(そこ)に咲く不思議の花を眺めつつ、早瀬はしみじみこうささやいた。


「すまんのう。我も子を得るのは初めてなのだ。この宮は家来が大勢おるがゆえ、何とかなると高をくくっておったのだが、……いざ我が子らを目の前にすると、おのれの手でしてやれることが、いかにも少なく、悔しいのう」


「早瀬さま……」


「せめて、そなたを(いたわ)りたいが、どうにも邪魔をしてしまう。許せ、八重姫」


「わ、私も、本気で怒ったりしていません」


「そうか、そうか。八重、我の子を産んでくれてありがとうな」


 八重は、くすぐったくなった。

 胸の中で、泡がぽこぽこはじけるように、愛しさが湧き上がってくる。

 早瀬の胸に背中を預け、八重はぽそりとつぶやいた。


「早瀬さまとの子に恵まれて、私もとても幸せです。時折、ふと思うのです。もし、松彦さまの子を産んでいれば……毎日、虚しかっただろう、と……」


「八重。それは誰のことだ」


 唐突に、冷えきった声が放たれた。

 八重はびくりとおびえた。

 氷の刃で心臓を刺されたように、彼女は震えた。


 早瀬の手が、八重の(あご)をぐいと掴んだ。

 縦に割れた()()色の目が、ぎろりと八重を射抜いていた。


「我の前で、他の男の名を呼んだな」


「あ、あの、それは、申し訳」


「思えばそなた、地上のことはほとんど話さぬ。洗いざらい吐け、松彦とはどこの誰だ。そなたと恋仲だったのか? そやつの子を生むはずだったのか? 今もそやつは生きておるのか? 八重、まだその男が好きなのか?」


「早、瀬、さま」


「答えよ、八重。……答えよ!」


 (あご)を掴む手の力におびえ、震える声で、八重は話した。


 自分が、地主の前妻の娘であること。

 後妻の娘の九夏だけを、誰もが可愛がったこと。

 代官の息子である松彦に、あの日、嫁ぐはずだったこと。

 だけど松彦も、本当は九夏を愛していて、いずれ自分を殺そうとしていたこと。


「だ、だから、もう好きではありません。あの人だって、私などより、妹の九夏のことが……」


 龍の瞳孔がぎらりと細まる。


「なるほどな。それゆえそなたは、白無垢まとって死のうとしたか」


 (あご)を掴む手が離れた。

 無言で膝からおろされた。

 早瀬は衣を(ひるがえ)し、ひとり、その場から去っていった。

 おびえてがたがた震える八重を、ぽつんとその場に残したままで。




 その夜、早瀬は白蛇に身を変え、地上にある代官屋敷を見に行った。

 代官の跡取り息子松彦と、その妻である九夏とが、乳繰り合っているのが見える。


「松様ぁ。あの女が滝に落ちて死んでから、本当にいいことづくめですねぇ。川の水は豊かで穏やかだし、邪魔者が消えて結婚できたし。あとは、あたしたちに子どもができれば最高ですぅ」


「うんうん、そうだ。本当にそうだ。あの滝には、龍が棲んでいると言われているから、八重を(いけ)(にえ)に受け取って、喜んでくれたのかもしれんなあ」


 早瀬は、静かに激怒していた。

 妻と子を得た幸福から、地をうるおしてやったのは事実だが、それは、八重の死を喜ぶような、性根の腐った者どもに、恵みを与えるためではない。


()(せん)(わい)(しょう)な人間どもよ。目にもの見せてくれようぞ)




 あんなにも(うっ)(とう)しいほどべったりだった早瀬が、まったく姿を表さなくなった。

 ひとりきりで目が覚めた朝、八重は初めて、この(みな)(そこ)の宮を肌寒いと感じた。


 子育ては、御殿の頼もしい侍女たちが、何くれとなく手伝ってくれる。

 だが、ともに子を撫でて笑う声や、「子も可愛いが八重も()い」と後ろから抱きしめる腕が無い。

 それが、こんなにも孤独なのかと、八重はぼうぜんとうつむいた。


(私のせい?)


(早瀬さまの前で、松彦さまの名を出したせい?)


(あんなに愛してくださった早瀬さまは、もう私のことがお好きでない?)


(いずれ私は、また捨てられる?)


 悪い想像は記憶と混ざり、八重の視界に、恐ろしい幻覚の像を結んだ。

 妹の九夏が、早瀬の胸の中で、八重を(あざ)(わら)い、舌を出す。


 ――姉様なんかには、もったいないわ。


 八重は、ふらりと床に倒れた。




 (りゅう)(ぐう)の奥深くに設けられた(しん)(びょう)の扉を、()(ぼく)(いし)(ぶし)は、おおあわてで打ち鳴らした。


「我が君、我が君! 急ぎお報せしたいことが!」


 しばらくして、扉は内から開かれた。

 現れたのは、早瀬である。

 しかし、彼の出で立ちは、普段通りのものではなかった。


 黒き衣に、黒き(くつ)

 指には、呪術の灰の跡。

 呪いの儀式のさなかであった。


 光のささぬ暗い(まなこ)で、早瀬は石伏を見下ろした。


「……何用か」


「恐れながら申し上げます。火急の報せでございましたので」


「前置きはよい。手早く申せ」


「八重姫様が、お倒れになりました!」


 かっと両目を見開いて、早瀬の顔に感情が戻った。


 (じん)(つう)(りき)が、(またた)きの間に(けが)れを(はら)う。

 蛇がその皮を脱ぎ去るように、衣は黒から(げっ)(ぱく)に変わる。

 数十日も続いた儀式を放り出し、早瀬は、飛ぶように寝所へ急いだ。


 (しとね)には、真っ青な顔の八重がいた。

 医師や薬師に取り囲まれて、か細い息で寝かされていた。

 「早瀬さま……」と、消え入りそうな声を吐き、八重は目元に涙を浮かべた。


「何日も会ってくださらないから、もう、私など、お嫌いになったかと……」


「そんなはずがあるものか、八重! 我の心は、そなたのものだ!」


「よかった……」


 ぽろぽろと泣く八重の隣に、早瀬はひざまずいて寄り添った。何度も口を重ねる二人を、家来たちも泣いて見守った。

 やがて、八重姫がいつものように、人目を恥じる元気が出てから、早瀬は低く声をひそめて、これまでのことを打ち明けた。


「このところ、我がひとりで(こも)っていたのは、そなたを(しいた)げた愚か者どもを、この手で(ちゅう)するためだった。(じゅ)()がそなたや子どもたちに、わずかでも降り掛かってはならぬと、(びょう)から出ぬようにしていたのだ。

 もう寂しい思いはさせぬ。……それに、(まじな)いも仕上がっている」


 不安げな妻の頬をそっと撫で、龍神は酷薄に笑った。


「せっかくだ、八重にも見せてやるとしよう。そなたを苦しめた下郎どもが、どのような目に遭うかをな」




 地上は荒れ果て、病んでいた。

 田をうるおしていた水が枯れて、急な(ひでり)が村々を襲った。

 かと思えば、激流が(せき)を押し流して、人里を舐め、疫病が広がる。


 これでは、()(ぜい)を納められない。

 人々は救済を求めて、あるいは山野に(ちょう)(さん)し、あるいは代官に(ごう)()した。

 代官屋敷で、農民たちのひとりは、このように叫んだ。


「昨年の豊かな実りが、地主の娘を龍神の(いけ)(にえ)にして得たものならば、もうひとりの娘も滝壺に落とせ!」


 青ざめた九夏に急かされて、代官屋敷の松彦は、刀を抜いて、庭先で騒ぐ農民たちを(おど)しつけた。


 そこに、天から響く声。


「やれ愚かしや。苦しむ民に食らわすものが、米ではなくて(はがね)とな」


 早瀬滝の激流が、みるみるうちに逆巻いて、龍の姿をかたどった。

 人々を天から見下ろす、その威容。

 声を裏返し、松彦は言った。


「も、もしや、あなたは、この滝に棲む龍神か!?」


「いかにも、昨年、我は乙女を受け取った」


 (げっ)(ぱく)の鱗を輝かせ、(しろ)(がね)のたてがみをなびかせて、早瀬は重々しく応じた。


「八重姫は、我が妻となり、我が子を産んでくれもした。その八重の故郷と思えばこそ、我はそなたらに、水の恵みをさずけたのだぞ」


 龍の背に乗る人影を見て、民は指差し、あっと叫んだ。

 龍と揃いの(げっ)(ぱく)(きぬ)に、(こう)(ばい)領巾(ひれ)蘇芳(すおう)()

 髪には(さん)()(かんざし)を挿す、(きゃ)(しゃ)な娘の姿があった。


 ざわめく民の声が広がる。

 松彦の背に隠れた九夏は、姉の姿に歯ぎしりをした。


(何よ、あれ。いつもみじめな八重姉様が、あたしより上等な衣を着て、あたしには無い子宝まで得たっていうの? いったい何様のつもり?)


 龍におびえた松彦は、そんな九夏を、必死で庭へと押し出した。


「では、いま一度、(にえ)をお受け取り下され! これなるは八重の妹、九夏姫と申す者!」


「ちょっと、松様!?」


「よいではないか! ほれ、八重もあのように生きておる。村々のためだ、聞き分けよ!」


「嫌よ、こんな薄汚れた連中のために、なんであたしが! 松様、あたしを愛しているんじゃなかったの!?」


 醜く争う二人の姿に、早瀬は、怒りの吼え声をあげた。


(けが)れた売女(ばいた)を、我が滝に落とすな!

 すでに聞いたぞ。代官の息子よ、貴様は八重を裏切って、祝言の夜、そこの売女(ばいた)を抱いていたそうではないか」


「な……」


 民のざわめきは(いや)()した。

 後から遅れてやって来た代官夫婦も、青ざめた。


「松彦! お前、よりにもよって、そんなふざけた真似をしたのか!」


「ちが、違う! 九夏がむりやり俺にすり寄って……」


「松様!?」


「ええい、見苦しいわ!」


 龍神の吼える声に呼ばれて、天に稲妻が(とどろ)いた。

 それは、あやまたず松彦を打ち、その身を黒く焼き尽くした。


 人々は、悲鳴をあげて逃げ惑った。

 ぶすぶす焦げる夫の(かばね)を前にして、九夏は、涙目で八重をなじった。


「あの女が、逆恨みで呪いをかけたのよ! 村の渇きも、疫病も、あの女が龍をそそのかしてやらせたに違いないのよ!

 何様よ! 負け犬のくせに、絹などまとって、子まで得て!」


 早瀬は、あきれてつぶやいた。


「神につば吐く不心得者は、水鏡(みかがみ)見ることもせなんだか。逆恨み者も負け犬も、果たしてどちらか、見れば一目瞭然であろうに。……もうよい、貴様もこの世から()ね」


 再びの雷が鳴り、九夏を焼いた。

 悲鳴さえ、一瞬で(つい)えた。

 火柱を眺め、八重はただただ、ぼうぜんとした。


 怒り狂った龍神に、人々は震え、ひれ伏している。

 代官夫妻も、村人たちも。

 八重はあわてて早瀬にすがった。


「早瀬さま、どうかもうおやめください。私にとっては、どちらも過去の人でした。

 それに、ご覧くださいませ。みながあなたにおびえております。どうか慈悲深き水神に戻ってください。人々の田畑に実りを与えてください。病を癒やしてあげてください」


 早瀬は、龍の姿のままで、ぐるぐると喉を鳴らしてうなずいた。


「……そなたに免じて、そうしよう。案ずるな、(ひでり)も加減はしてあった。病も死者はまだ出ておるまい。我が龍の血で、みな治そうぞ」


 そして、人々にこう告げた。


(うじ)()らよ、ゆめゆめ忘れることなかれ。妻がありながら不貞をはたらくな。他人を妬み物を奪うな。身内の不幸を喜ぶでない。人の道から外れるなかれ。

 地の道の正しく続く限りにて、我が水もまた正しく満ちる。……ゆめ忘れるな、地の人の子よ……」


 龍はひと声大きく鳴くと、身を横たえて、滝に戻った。

 白くささやかな雨が降りだし、残り火をそっと消し止めた。神に罰された愚者たちさえも、泣いて哀れむかのように。




 龍神が宣言したとおり、(ひでり)に苦しんでいた村々は、豊かな水が再びうるおした。

 病に苦しんでいた村には、正体不明の道士たちが現れて、「龍の血」なる薬を飲ませて、一人残らず治していった。

 米の出来高は下がるだろうが、昨年の蓄えもある。代官が税を加減してやれば、みな暮らしていける範囲であった。


 八重姫と九夏姫の父である地主は、娘二人を失い、失意のままに仏門に入り、杖のみを手に、村から去った。

 跡継ぎの松彦夫妻を亡くした代官は、その弟の竹彦を、新たな跡継ぎと定めた。この男は、色に溺れることもなく、堅実に村々を治めた。そして、この地の水源である早瀬滝に(やしろ)を建てて龍神を(まつ)り、その周囲に、たくさんの桜の木を植えたという。


 地崩れを防ぎ、景色を彩るその木々は、その土地に住まう住民たちから「八重姫桜」と呼ばれている。花は、荒ぶる龍をなだめて、毎年、春に咲き誇る。

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