5 、『紅い瞳がみた物語』の始まり
ここからミステリー(風味)に…
「時は二ヶ月前、貴方に応接室へ呼び出された時へ遡ります」
ダージリンはそう前置きして続けた。
ダージリンは婚約者のベルガモットに応接室へ呼び出され、応接室ソファーに座った。
「ダージリン。私のために婚約を破棄し、リゼと婚約して」
「レディ・ベルガモット。本気で言っているのですか?」
「必要な書類は用意してあります」
ダージリンはローテーブルの上に置かれた証書を一瞥した。
一枚はリゼ・セーブルの婚約手続きの証書、もう一枚はベルガモットとの婚約破棄の証書。妹と姉の名が既にそれぞれ署名がされている。
(私の婚約者の意思は固いみたいですね)
「レディ。リゼに良い医者を内密に紹介する事もできますよ」
リゼ・セーブル。一週間前の晩餐の日からかなり精神的に不安定になっている。婚約を告げたとたん、リゼは猛然と立ち上がり、晩餐用のディナーナイフを自分の首に突き立てた。
来客としてリゼの隣に座したダージリンは素早く、リゼの手を押さえた。リゼがディナーナイフを取り落とし、床に落ちるナイフに一瞬だけ気を取られた隙に、リゼの唇と自分の唇が重なった。
唇を赤ワインの味が支配した。
(赤ワイン?)
テーブルの上のグラスにはまだ赤ワインは注がれていない。晩餐はこれから始まる予定だったのだ。
(妹君は酒を嗜んでいらっしゃるのか?)
そうであればリゼの前にワイングラスが置かれているはずである。しかしリゼの前にワイングラスは置かれていない。
リゼが自分のシャツの胸元を握りしめる。口付けが深くなり、身を引こうにもリゼが動いて自分の唇を塞ぎ続けるので、ダージリンは鼻で息をする。
自分の者ではない、男性の整髪料の臭いがした。
リゼの瞳が潤んでいた。突き飛ばすことはできない。突き飛ばせば妹想いのベルガモットが心を痛めるだろう。リゼが唇を解放してくれるのを大人しく待つ事にした。
長い時間が過ぎた。背後でベルガモットが立ち去る気配がしてから、ようやくリゼが唇を離した。
『レディ。どういうおつもりですか? 貴方と私はそれほど面識はないはず』
この屋敷にはベルガモットから何度か招かれていたが、リゼと会ったのは片手で指を折る程しかない。
『姉を独り占めするなんて許しません』
『なるほど。ベルガモットを奪われると思ったのですね』
ダージリンは少し口元を緩ませた。
(随分姉の思いの女性ですね。それにベルガモットも好ましく思っているようです)
少し古いデザインのドレスを見てベルガモットのお下がりを着ている事が読み取れた。リゼが思い詰めた顔で胸の前で手を組む。
『私も貴方の婚約者にしてください』
『残念ながら私にそんなシュミはありませんよ』
ダージリンは冷ややかに答えた。
(姉を独占したいのではなく、姉と同じになりたいのですか?)
『東洋では姉妹を娶る事もあると聞きましたわ』
『姉が亡くなった場合の話です。貴方の姉は健康そのものです。それに貴方の唇は他の男が触れていますよね?』
ダージリンが牽制を放つと、ぴくりとリゼの眉が動いた。
『わ……私の唇をこれから独占するのは貴方ですわ。叶わぬと言うなら考えがあります』
床に落ちたディナーナイフを取り上げようとするリゼの手首を掴む。
『愚かな事はおよしなさい。良ければ食事を摂りながら話しませんか?貴方の本当の想いを伺いたい』
あの時の話の内容でリゼが切羽詰まっている事は明らかだった。感情の起伏が激しい状態で姉と二人きりにするのも危ない。リゼの頭を冷やすためにも第三者がいた方が良い。
ベルガモットの冷ややかな声が響き、ダージリンは意識を現実に戻した。
「貴方は宝石の販売許可だけでなく、医者の免許も持っていたの?」
「持っていませんよ。ここへ呼ぶのは本業の医者、セラピストです」
「私の妹を鉄格子のついた薄暗い病院に入れるおつもり?」
「貴方のお心を守るためにも、必要があればその提案をするつもりです」
「セラピストなら貴方がすれば良いでしょ!」
ベルガモットが激しい剣幕で立ち上がった。ダージリンは目を細めた。
(良かった。私のヴィーナスは嫉妬するだけの魅力を私に感じて下さっているのですね)
ダージリンは悠然と整った顎に手を当てて思案した。ベルガモットの眉間の皺が深くなる。
(弁明したところで女伯爵は納得しないでしょう……ならば、貴方の頼みを一旦は叶えましょうか)
「分かりました。貴方の提案を受け入れる前に幾つか条件があります。よろしいですか?」
「条件? 何かしら?」
「一つ、精神的に不安定なリゼのために、この屋敷に私の部屋を用意すること。二つ、結婚式は半年後にすることです」
「随分とリゼのを大切になさるのね」
「貴方の大切な妹です。それに私の贈った黒真珠を身に付けず、大切な晩餐に臨んだからですよ」
(あんな形で私に野心の火をつけるとは参りましたよ)
ベルガモットが息を飲み、ソファーに腰掛けた。
「いいわ。条件をのみます。屋敷の客間をお使いなさい」
(冷たい顔もまた美しい……そそられます)
ダージリンはさりげなく手で首を押さえ、喉仏が下がるのを隠した。そして赤い瞳を細めて宣言した。
「レディ・ベルガモット・セーブル。貴方との婚約を破棄する」
ダージリンはそう言って、婚約破棄の書類にペンを滑らせた。これが婚約破棄の直前に起きた物語の始まりだった。
※
「詭弁だわ。それと、話の途中で私を褒める描写もいりません」
執事のアッサムが身じろぐのも気にせず、ベルガモットは目の前の紅茶を一気に飲み干す。
「褒めていませんよ。事実ですから」
「そういうの、今は必要ありません」
「それは難しいことを。私は貴方を賞賛せずにはいられないタチなんです。無意識に入れてしまうかもしれませんが、よろしいですか?」
ベルガモットが一瞬だけ、目を泳がせるのをダージリンは穏やかな心地で眺めた。
「……面倒なタチね。それにいちいち許可を求めなくてもよろしいわ」
「レディ。ありがとうございます」
「さぁ、続けてちょうだい」
お読み頂きありあがとうございます。
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