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10、この物語の名前

 それでもなお、沈黙を続けるベルガモットにアッサムが顔を上げ、心痛な面持ちで続けた。


「……ベルガモット様、リゼ様に服従した私が悪いのです」


 突然、執務室の扉が開いた。正確にはダージリンがリゼを呼んでいた。『大切な話を姉とする』とだけ伝え、彼女が戸の向こうでひっそりと聞き耳を立てる状況を作った。


「違います、お姉様!私が原因ですわ。私が彼を誘ったのです。元々……庭園のコテージで密会していたの」


 突然のリゼの登場に驚きながらも、アッサムは言葉を重ねた。


「最初は一度だけでした。本当です。ですが『何もしないならダージリン様のものになる』言われてからは私から行ったのです」


「ごめんなさい。お姉様、それでも許したのは私よ。身分違いでも彼が好きなの!……愛しているのはアッサムなの!」


 ガウンを羽織ったリゼが泣き崩れ、慌ててアッサムがリゼを支える。

 沈黙を守っていたダージリンがソファーから立ち上がり、自分の座っていた場所を二人の為に空け、代わりに座る事を促した。

 彼自身は呆然としているベルガモットの横へ座る。すべてがダージリンの思い描く『物語』のとおりに進んだ。


 ベルガモットの両手をダージリンは優しく握る。


「ベルガモット」


 低く心地よい声で最愛に呼びかけ、紅い目が濃紺の瞳をとらえた。


「貴方を欺いた私は悪い男です。ですが何もせず、自分だけ幸せになるのも許せなかったのです。貴方が愛する妹と優秀な貴方の執事を祝福してやってくれませんか?」


「……でもリゼは貴方と婚約しているでしょう?」


 ダージリンは微笑み、アッサムに目配せをした。執事は背広の内ポケットから証書を二枚取り出す。

 女主人がアッサムに押し付けた証書だ。そこに承認の印はない。


「証書を届けていなかったの?」


 執事のアッサムが申し訳なさそうに視線を伏せた。ダージリンが口元を緩ませて続けた。 


「届けるも何も私のサインのスペルをよく見て下さい」


ベルガモットが証書の署名に視線を落とす。優美な筆記体でこう書かれていた。


Darjeling Muschatel


「………よく見れば『j』の後『e』が一つ足りないわ」

「そう。私は証書にサインしましたが、わざとスペルを間違えておきました。感情に呑まれて貴方は気づかれませんでしたが、優秀な執事が不備に気づき、応接室にいた私の所へ持ってきました」


「……元々、サインするつもりはなかったと言いたいのね?」

「ええ。そもそも私は晩餐の日に彼に目ぼしをつけていましたから。そして彼の恋心を焚き付けた」


 ダージリンはベルガモットの目を見つめたまま、自信たっぷりに言い切った。

 ベルガモットが頭を振った。


「署名する時に私に種明かししてくれれば良かったのではない?」

「レディ・ベルガモット。貴方の真意が見えなかったから、私も不安だったのですよ」

「真意?もしかして、貴方に妹の婚約者になれと言った事を怒ったの?」


 紅い瞳が伏せられた。


「……長年ビジネスをしていると、人前で怒れなくなるのは事実です。でも私は自分の怒りより、皆が幸せになれる手段を優先しました」


「私からの信頼をかけてまで?」

「最後には貴方は私を選ぶと信じていましたから」


 リゼが立ち上がり、執務机の上に書類と置かれた白いアスターの花を手に取って、ベルガモットに差し出した。


「お姉様、白いアスターの花言葉は………」


 ダージリンが視線で制し、代わりに差し出した花を受け取って、改めてベルガモットに差し出した。


「花言葉は『私を信じて下さい』。最初から貴方にそう言えば良かったですね。貴方の気持ちを確かめようとした愚かな私を許して下さいませんか?」

「貴方って何でも確かめないと気が済まない方なのね」


 ベルガモットが差し出された花を受け取った。勝利を確信したダージリンが続ける。


「不安だったのです。物事は上手くいくか最後まで分かりません。皆が幸せになれるかは女伯爵である貴方が判断するだけです」


 ベルガモットが白いアスターの花に視線を落とした。


「それに………貴方は随分と用意周到だわ」


 ダージリンは微笑んだ。実際、気取られぬようにこの場の為に花瓶の花の種類を指定したのは、他らならぬダージリンだった。彼の勝利は目の前にある。


「もちろん。望むものを得るための準備は厭いません」


 ベルガモットが花を持ったまま立ち上がった。ダージリンはソファーに座したまま、視線をベルガモットに向けた。


「良いでしょう。アッサムとリゼの結婚は許します」


「お姉様!ありがとう!」

「ベルガモット様、感謝致します……!」


 リゼの顔がみるみる明るくなる。アッサムに至っては泣き出しそうだった。


「そして、ダージリン」


 ダージリンがゆっくり立ち上がる。真剣な表情は崩れてかけ、その口元には微笑みがある。この物語の勝者はやはり自分であったと確信する。

 

 ベルガモットの鈴のような声が響いた。


「貴方を愛することはできません」


 赤い瞳が見開かれる前で、白いアスターの花弁がベルガモットにちぎられる。リゼの表情が一瞬固まり、慌てた様子で続けた。


「お、お姉様。ダージリン様は私のために、私を突き飛ばさず、上手い方法を考えて下さったのですよ!」


 執事のアッサムも続けた。


「ダージリン様は最初からベルガモット様一筋です!」


 擁護する二人をダージリンは手で制し、口を開こうとした。

 しかし女伯爵はするどい視線でそれを許さず、執務机からもう一枚の証書を取り出す。


 それはダージリンとベルガモットの署名と承認の印が押された、婚約を証明する証書だった。

 ダージリンにそれを見せつけると沈黙したままベルガモットはそれを破り捨てた。


 ちぎれた白いアスターの花びらの上に、ちぎられた紙が重なる様をダージリンは下唇を噛んだまま眺め、視線をベルガモットに戻した。

 絞り出したダージリンの声は低く、震えている。


「レディ……私が、お嫌いになったのですか……?」


 ベルガモッドの濃紺の瞳が虚空を見つめている。


「私は人の心をもてあそぶ方と恋した覚えはないわ。どんな理由があれ、女伯爵の私を欺いたことに変わりはないでしょう?」


「レディ・セーブル。心から謝罪致します。どうかお許し下さい」


 ダージリンが女伯爵の足元に素早く跪き、深く頭を垂れた。しかし無惨な言葉がダージリンの頭上から降り注いだ。


「貴方とは婚約破棄します」

「ならば!………もう一度貴方に好かれるように心を改めてお付き合い致します!」


 顔を上げた褐色の頰には涙が流れている。しかし濃紺の瞳は冷ややかに彼を見下ろしていた。


「心を改める? 貴方に心があるの?この二ヶ月の私の心も知らないで? 私の心も真珠のように掌で転がせると思ったでしょう!」


 ダージリンは引き下がらなかった。


「私は我が身が引きちぎられても、貴方とセーブル家を思い、皆が幸せになる方法を考えたのですよ!」


「まぁ、ご立派な演説だこと。口先が上手いのはさすが商人ね。でも私は貴方の客ではないわ!」


 ダージリンは立ち上がり一歩踏み出した。

 レディ・ベルガモットは驚きのあまり、正常さを失っているだけだ。リゼが突然ナイフを自分の首に突き立てたように。抱きしめて、優しくその口を塞げばいい。

 そうすれば二人の間には愛しかなかったと証明できる。


「ダージリン、動かないで!」


 ベルガモットの鋭い声がダージリンの足を床に食い止めた。褐色の胸板が乱れた呼吸で小刻みに上下している。

 女伯爵はダージリンと執務机をはさんで座った。彼女は引き出しを開け、もう一枚証書を取り出す。


 ダージリンの緊張した顔に安堵の笑みが広がる。


「レディ。私が悪いとはいえ、今のは心臓に悪かった。もう一度婚約の書類を書けとおっしゃるのですね……」


 そう言って執務机の上に視線を落とし、その表情が固まる。


 そこにはすでに署名が優雅な筆記体で二名分書かれていた。

 

 Bergamot Sevres

 Grey Muschatel


 ベルガモット・セーブルの名前の下にはグレイ・マスカテル公爵の名があった。もちろん承認の印も押されている。

 ベルガモットは最後通牒をダージリンに告げた。


「私は貴方のお兄様、グレイ・マスカテル公爵様と正式に婚約しました」


 ダージリンが沈黙したまま証書を確認する。スペルは間違っていない。間違いなく、兄の筆跡である。

 

 このままでは最愛の人が、兄の妻となる。兄? 何故あの男の?膨らむダージリンの疑問をよそに、ベルガモットは手元の証書を執務机の中に片付け、静かに告げた。


「時はすでに遅いのよ。マスカテル卿。この物語は『私達の愛を確かめ合う物語』ではないの」


 ダージリンが片手に目に当てて涙を押さえ、指の間からベルガモットの表情を見据える。女伯爵は冷ややかな顔はとても美しく、しかしその彼女が放つ言葉は残酷だった。


「この物語は初めから『ざまぁ見ろという物語』よ。貴方の役割は終わりました。今すぐ帰りなさい」


 ベルガモットが負う物を全てを手に入れるという傲慢なダージリンの野望。

 その勝利の火はダージリンのすぐ目の前で立ち消えた。


お読み頂きありあがとうございます。

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