序章、婚約破棄
初ざまぁです。
「レディ・ベルガモット・セーブル。貴方との婚約を破棄する」
ダージリン・マスカテル男爵には異国の血が交じる。褐色の額にはエキゾチックな黒色の眉が収まる。伏せたまつ毛も長い。
証書にサインしたペンをペン立てへ戻し、肩まで伸びる波打つ黒髪を掻き上げる。美男子の紅い瞳は冷ややかだ。
「そして……貴方の妹、レディ・リゼ・セーブルとの結婚式は半年後、で良いですね?」
上等のブラックスーツ。シャツは着崩れ、褐色の肌は胸元まで見える。たくましい胸板の上部が見えても彼は気にせず、両手を腰の前で組み合わせてソファーにもたれた。
(あの胸板も………これからは妹の物……)
ベルガモット・セーブル女伯爵は、自分の屋敷の応接間に居ることも忘れ、緊張した面持ちでローテーブルの上に視線を落とした。
天板の上に婚約破棄を示す証書、リゼとの婚約を結ぶ証書の二通がある。既に優雅な筆記体でダージリンのサインが刻まれていた。
ベルガモットは抵抗感なく彼がサインした事にとても動揺していた。
「いっそ……婚約も挟まず、式を挙げられては? 私が使うはずだったドレスがあるでしょう?」
ダージリンは長い足を優雅に組み直す。もはやこの男の方がこの屋敷の主人のようだ。低くうっとりとした声が部屋に響いた。
「ユア・レディシップ。爵位が低いとは言え、私には黒真珠で勝ち取った財産が十分にある。貴方が妹にドレスを譲らなくとも、私が半年の内に用意しますよ」
彼の自信にあふれた言葉にベルガモットは涙をこらえ視線をドレスに落とした。
「そうね………宝石商として黒真珠で成功した貴方だもの、半年あればドレスの一着や二着くらい簡単よね……」
「レディ・セーブル。半年にした理由はドレスを作るためではありません……二人の愛を確認するための大切な時間です」
ダージリンの台詞がベルガモットの心臓を貫き、濃紺の瞳を見開かせる。この一年間、二人で愛を温めたはずだったが、たった一週間で家名で呼ぶ関係に戻るとは想像していなかった。
(リゼの事……本気なの………ね)
黙るベルガモットにダージリンが追い打ちをかける。
「レディ。貴方は数ヶ月しない内に後悔するでしょう。私を愛し、貴方の妹を無垢な乙女と信じた事を」
ベルガモットは自分の指先が急に冷たくなるのを感じた。今にも涙があふれそうだ。
(そんな事を言うなんて!)
しかし女伯爵のプライドは彼女の感情を押さえ込む。彼女はローテーブルから書類を取り上げて素早く折りたたみ、男を振り返ることなく応接室から出る事に成功した。
部屋の扉を閉めて廊下に出る。途端に頬を涙が伝った。それを手の甲でぬぐい、深く息を吐くと足速に寝室へ向かう。
慌てた執事のアッサム・デンビーに折った証書を乱暴に押し付ける。
「これは届けておいて。それから許可するまで自室へ誰も入らせないで」
*
今年二十歳のベルガモットには五歳年下のリゼがいた。リゼはたった一人の肉親だった。二十歳のリゼはプラチナブロンドの髪と澄んだ碧い瞳を持ち可憐で華もあった。
『お姉様の髪飾り、私も付けてみて良いかしら?』
ベルガモットが最近評判の宝石店で新しく買った真珠の髪飾りを見て、リゼが尋ねる。
姉の物を何でも試したがるのは昔からのリゼの癖だが上目遣いのリゼに負けて、姉は髪飾りを付けてやると、妹はドレッサーにその姿を映した。
『どう? 綺麗な真珠ね……似合ってる?』
淡くピンクに光輝く真珠の髪飾り。ベルガモットのダークブロンドよりもリゼのプラチナブロンドの方が似合うのは明らかだった。
(二十歳の贈り物にしましょう)
妹の誕生日は公爵家からの夜会に呼ばれ、祝ってやる事ができない。自分が使う予定だったが妹が気に入ったなら手放す事くらい何ともない。
『気に入った? 二十歳の祝いに貴方にあげるわ』
『ありがとう! 嬉しいわ、お姉様。大好きよ!』
天真爛漫な妹リゼは十歳の時に両親を馬車の事故で亡くしている。その時ベルガモットは十五歳だった。あの時、二人きりの静養を両親に勧めていなければ、両親はまだ生きていたかもしれないと姉は考えていた。リゼはそんな姉を一度も責める事はない。
(心優しい妹。私のただ一人の家族……)
セーブル家の近しい親族は流行病や戦争で亡くなっている。そのため、ベルガモットは昔からリゼに、両親を亡くしてからは特に甘くなった。
(あれから五年後、二十歳になっても恋の噂もなく、同じ屋敷で過ごしていたのに)
「妹が、私の婚約者を愛していただなんて……」
衝撃の事実だった。読書を好み、色恋沙汰とは程遠い少女だと思っていた。自分が結婚したら早々に良い縁談を見つけ、リゼを嫁がせたいと思っていた。
*
物語の発端は一週間前の晩餐の席だった。
執事のアッサムがダイニングテーブルに手拭きをダージリンとベルガモット、リゼに配り終えたタイミングで、結婚式の話を切り出した。
結婚を告げるとリゼは猛然と立ち上がり、晩餐用のディナーナイフを自分の首に当てて叫んだ。
『ダージリン様を愛しているのは私です!……ダージリン様とお姉様が結ばれるなら、私が消えます!お父様とお母様のように!』
ダージリンが素早くリゼの手を押さえ大事には至らなかった。だがその直後、リゼの『愛している』の意味を理解するのに十分な大事件が起きた。
ナイフが床に落ち、安堵する間もなくリゼとダージリンはベルガモットの目前で、唇を重ねた。
(問題は……その深さと、長さ……)
婚約者のダージリンは抵抗せず、リゼにキスをされるがままだった。全神経をキスに集中しているかのように、身動き一つしない。ベルガモットは直視できず、晩餐も食べずに食堂を出た。
(私はあそこまで長く、深くキスをされた事は無かったのに……)
このまま無理に話を進めても、妹に寝取られた哀れな女伯爵になるのは明らかだ。そうすればセーブル家の評判も地に落ちる。
それでもダージリンからの弁明を待ち続けた。
しかし、あろう事か同じ日の夜中からリゼの甘い声が屋敷に響くようになった。
さらに、翌朝現れたダージリンは「リゼが精神不安を起こすのを見守る」と言い切って、滞在予定を伸ばす事を宣言し、自分の家に手紙を出した。
条件はそろった。ベルガモットは婚約破棄を受け入れ、リゼを元婚約者に嫁がせなくてはならない。
一週間のうちに証書を準備し、リゼに迫って署名させた。ダージリンが署名せざるを得ない状況を作って応接室へ呼んだ。
ベルガモットはダージリンが謝罪に来ること期待していた。泣きすがったら許しても良い、とさえ考えた。だが期待も虚しく甘い声は真夜中に響いた。
(私と婚約破棄する前に……なんてこと……)
経験がないベルガモットでも、その声が何を意味するのか簡単に想像できた。
そんな事が一週間続いた今、ベルガモット伯爵令嬢は婚約破棄された。そして婚約者の座に妹のリゼが座した。
*
ベルガモットは自室の戸を開けて、ベッドに臥せった。誠実で紳士だと思っていた婚約者からの裏切りが胸に突き刺さる。
「ダージリンと結ばれるのは私だったのに……!」
悲しみと嫉妬が入り混じった感情が包む。ベッドの横に女伯爵としてのベルガモットが佇んでいる。
それは彼女の自制心が見せた幻影だ。
『ベルガモット。リゼはたった一人の肉親よ。両親亡き後、貴方はセーブル家の当主。家族を第一にするのが当然の勤め。立派にやっているわ』
たまらずベッド上のクッションを乱暴に掴み、自分の幻影に向かって投げつける。
「黙って!」
ベルガモットはシーツに顔を押し付け、湧き上がる嗚咽を一人で押さえた。
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