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第8話:コルネイユ王国・第3王女ケイト(14)

 10年前・王の御殿―――。


「はぁ⁉︎ 縁談を申し込んでる⁉︎」


 当時14歳になったばかりのケイトは、国王と執事を前にして大声を出した。腰がキュッとしまった濃い深い緑のドレスの裾は、曲線美を描きはじめたお尻から太もものしなやかなラインに沿って広がる。大きく開いた肩から健康的な肌が顔を出し、薄いレース生地で残りの腕から手首をやわらかく包んでいた。耳のうしろでひとつにまとめられた、ウェーブのある繊細な髪の毛が、小さな片胸をふわりとおおう。


「おまえも来年は15になる。これも、この国の未来を考えてのことだ」


 国王は、コルネイユ王国の夕日に染まる丘が見渡せる大きな窓に向い、ゆったりとひじかけ椅子に腰をかけていた。部屋着姿で、左手にワイングラスを持ち、スパイスの効いた赤をたしなんでいる。


「この国の未来? 父上のあとは、だれが継ぐのですか? 姉たちが大国に嫁いで、わたしまで出て行ったら、王家の血筋が途絶えてしまいます」


 ケイトは、広々とした部屋の真ん中で、国王の横顔を見ながら意見する。


「王家の血筋が途絶えるかどうかは別として、どうやら、この縁談がいいらしい」


 国王は、ワインを口に含み、遠くの黄金に輝く景色を眺めて言った。


「いいらしいって・・・また直感ですか。申し訳ありませんが父上、これが、コルネイユ王国の未来のための決断とは到底思えません。そもそも、わたしは嫁ぐよりも、この国に残って、王女としての務めを果たしたいと考えています。父上は、姉やわたしが嫁いだ先の大国に、この国が吸収されてしまってもいいとお考えなのですか?」


 ケイトは、肩を尖らせて、腹の底からしっかり声を出して言った。


「ケイトよ。おまえは吸収されることが、すでに決まっているように申すのだな。今回、縁談を申し込んだところは、大国だが、その王子ではない」


 国王は、ワイングラスをまわしながら、グラスに映る自分の顔を見つめて言った。


「でも、結局その方がお務めになる国に、我が国が奪われていくのでしょう? どなたですか?」


 ケイトは、細い眉をゆがませて言った。


「ガーネット王国・コールマン家の長男レナード・コールマン殿だ」


 国王は、ワインの最後の一口を流し込み、グラスをサイドテーブルに置いた。


「あの有名な、騎士の学舎を営む、由緒正しき貴族・・・ですか」


 ケイトは、大きな窓の景色に目を移して言った。



 しばらくの間、沈黙が流れる―――。



「父上、わたしがコールマン家に嫁いで、本当に国のためになるのか、よくわかりません。ですが、父上のお顔を潰すわけにもいかない。そこで、ひとつお願いがあります」


 ケイトは、落ち着いた声で、国王をまっすぐ見て言った。


「申してみよ」


 国王は、両手をひじかけに置いて、横目でケイトを見て言った。


「わたしを、コールマン家の学舎で1年ほど学ばせてください。この国でずっと剣術を学んでいますが、大陸が認めるコールマン家の訓練を受けてみたい。その間、お相手の方やご家族とも交流ができるし、そこで学んだことをこの国に活かすこともできる。幸い、ガーネット王国とは、よい関係が築けているので可能かと思います。いかがでしょう?」


「ふむ。通常、コールマン家の騎士の養成課程は3年になっているが、聞いてみてもいいだろう。姉たちとは違い、小さいころから男勝りなおまえらしいお願いだな」


 国王は、太い眉からシャープな瞳を光らせて、ケイトを見つめて言った。


「ありがとうございます。父上」


 ケイトは、目を伏せ、軽くひざを曲げて退出した。




 数日後―――。


 貴族の屋敷が立ち並ぶ馬車道に沿って、優雅にそびえるオレンジがかったレンガの塀が広大な敷地を囲む。その始点となる正面の黒い龍がうねるような鉄の門は、ガーネット王国・コールマン家の紋章がピッタリ合わさり、固く閉ざされていた。それは、歓迎された高貴な貴族だけに開門され、無理に飛び越えようとするおろか者は血に染まる。敷地内に入ると、長さのきっちりそろった芝生が青々と生命力をみなぎらせ、正面玄関に続く舗装された道を際立たせる。馬車に乗る者はもちろん、歩く者からも一面が見渡せる低い花壇は、虹のように映え、その先に、湧き水があふれ出すオアシスが、ロータリーの真ん中で堂々とたたずんでいた。余裕で3台の馬車が停車できるそのスペースは、厳かな屋根で丁寧におおわれ、オアシスからの冷んやりとした風を感じながら、豪華絢爛な玄関の扉までエスコートする。


「・・・貴族のお屋敷というより、まるで一国の王宮だな」


 ケイトは、自分を乗せた馬車が、白を基調とした3階建ての建物に近づいてきたところで思わず口にした。明るい茶色の髪は高い位置でひとつにまとめられ、ふわりと背中を包む。深い緑のリボンがついた襟つきの白いシルクのシャツは、肩から二の腕をゆったりとおおい、ひじから手首にかけてピッタリとラインを出していた。赤みを帯びた茶色のスカートは、胸のすぐ下からしぼり、裾が腰から高いブーツを隠してふわりと広がる。


 ケイトは、中に2〜3歩入ったところで360度見渡した。


 高い天井から吊るされた繊細なシャンデリアが、大理石のフロアに光彩を与えながら、ケイトを迎える。澄み切った大海原のような青みある緑色の絨毯が敷かれた中央の大階段。それは、ピカピカに磨かれた紫混じった藍色の手すりと共に、底なしの富を見せつけてくるが、同時に、天井に近い窓から差し込む光で、まるで海底の洞窟が青く輝くような神秘的な世界に引き込んでいく演出をしていた。


 シャンデリアの下で、直立している背の高い壮年の男がいる。つやのある漆黒の長い髪を耳にかけ、襟足を無造作に流している。きれいに通った鼻筋に、整った眉、まつ毛の長いエレガントな明るいブラウンの瞳は、一般の執事の様相をはるかに超える。左手を胸に当て、右手をうしろに回して一礼をしている。ケイトは、ホールの真ん中あたりで、持参した皮のスーツケースを足元に置いた。


「お待ちしておりました。コルネイユ王国・第3王女ケイト・ヴァレンティーナ・コルネイユ様。わたくしは、ガーネット王国・コールマン家の執事・エリオットと申します」


 広い空間に、透明感のある声が響き渡る。エリオットは、頭を下げたまま微動だにしない。


「エリオット殿。この度は無理を言ったにも関わらず、わたしを騎士の学舎に受け入れていただき感謝しております。陛下に代わって、お礼申し上げます」


 ケイトは、スカートの両裾を軽く上げ、ひざを曲げて挨拶をした。


「ご案内いたします。こちらへどうぞ」


 エリオットは、ケイトの荷物を持って大階段の方へ歩を進めた。


「ケイト様の寝室は、この建物、本館の3階になります。騎士の学舎は、2階の通路を渡った別館になり、1日の大半は、そこで過ごしていただきます。訓練の階級は年齢ごとにわけられており、ケイト様は14歳であられますので、レナード様とごいっしょです」


 エリオットは、台本を読むように淡々と言った。大階段を上り切って、2階の長い廊下の真ん中を進む。大海原の絨毯が続き、柱から伸びるアーチがかかった天井にシャンデリアが等間隔に顔を出す。


「承知した。ただ、訓練生と指導者には、わたしの素性を伏せておいていただけないだろうか。みなと同じように扱ってほしいと思っている」


 そう言ってケイトは、エリオットの髪の襟足が、歩くリズムに揺れているのを見ながらついていく。


「かしこまりました」


 エリオットは、横顔をケイトに見せて答えた。


「ありがとう」


 ふと、ケイトは、3階に続く階段あたりで、太陽が差し込む大きな窓の方に視線を送った。そして、割りそうになるほどの勢いで、窓ガラスに額を押し付ける。


「エリオット殿、あそこでだれか倒れている!」


 ケイトは、1階から吹きぬけになっている部分を見下ろして言った。12組ほどが優雅に社交ダンスを踊れるスペースにも関わらず、別館から完全に死角になる空間となっていた。チェス盤のような模様の白と濃い青の大理石が敷かれているだけで、屋敷にそぐわない殺風景な場所。その真ん中に、うつ伏せになってピクリとも動かない少年がいる。剣が手から離れ、乱れた髪の毛の隙間から、かろうじて見える横顔は、遠目からでも青白かった。


「ああ。彼は、コールマン家の次男であられるクリス様です。現在は13歳の階級にいらっしゃいます」


 エリオットは、ケイトの窓の枠に入って冷静に言った。


「そうじゃなくて、だれも助けないのか⁉︎」


 ケイトは、首がもげるほど、真横のエリオットを見上げて言った。


「ご心配なく。いつものことです。彼には、通常のメニューに加え、特別な実地訓練が課せられています。コールマン家の人間が、他の訓練生と同じ力量や技量だと話になりませんからね。もちろん、レナード様も同じように訓練されています。例外はありません」


 ケイトは、エリオットの静かな笑みを見て、ごくりと唾をのみ込んだ。すると、ひとりの体格のよい男性が倒れるクリスに近づき、頭上からコップの水を乱暴にかけた。すべてをおののかせる鬼神の面をかぶったような様相で、クリスの反応を待っている。


「彼は、クリス様専属の指導者です。あらゆる国の戦法や武器、技術に対抗し勝利できるよう、育て上げるのが仕事です」


 ケイトは、腹の底で深海のように、暗く冷たい海流がうねるような恐怖を覚える。しばらくして、クリスの目がパチっと開いたと思ったら、手元の剣を拾い、素早い踏み込みで指導者に立ち向かっていった。13歳とは思えない柔軟な身のこなしと、剣の扱いに、ケイトは目を見張る。先ほどかけられた水が、彼の髪の毛の先端から大量の汗が噴き出すように飛び散る。濡れた皮膚が、差し込む太陽の光で繊細に輝き、整った顔立ちを一層持ち上げていた。正面からの打ち合いが続き、スペースの端から端まで使いながら技を繰り出していく。真剣を使用しての特訓は、これ以上にない緊張感と迫力で、ケイトのうぶ毛を逆立たせ、電気が走るように皮膚をビリビリと刺激する。とうとう、クリスの表情に陰りが見え、動きが荒く、鈍くなってきたところで、背中に硬いブーツの底で蹴りを入れられた。クリスは、大理石の上を跳ねるように転がり、うつ伏せになって倒れた。ケイトが見つめる締め切った窓を通過して、息を吸うことが許されないような、クリスの連続した咳が聞こえる。そして、小さなからだを震わせ、上半身を起こし、立ち上がろうとしていた。


「さあ、そろそろ参りましょう。ケイト様は、騎士の学舎のみでの訓練になりますので、関係のないことです」


 エリオットは、ふたりの様子に吸い込まれていくケイトに言った。はっと我に返ったケイトは、廊下を歩きはじめるエリオットを追いかけ、うしろ髪を引かれるように、視線だけ窓枠に残す。クリスは、その場で力尽き、氷山が砕けて海底に沈んでいくように、大理石に倒れ込んだ。指導者は、剣をおさめ、入れ違いで担架を持った人間がクリスを囲う。すぐに仰向けにされ、脈拍をはかられながら、シャツのボタンを大きく外される。それは、まるでシェフが肉のかたまりを調理するかのように手慣れたものだった。




 本館3階―――。


「こちらが、ケイト様の寝室になります。今日のご夕食は、レナード様といっしょに召し上がっていただきます。またお迎えにあがりますので、それまでご自由にお過ごしください」


 そう言って、エリオットは胸に左手を当て、一礼して去っていった。


 部屋でひとりになったケイトは、エリオットが出ていった扉をしばらく見つめる。ゆっくり部屋を視線だけで一周した。玄関や、廊下とは違って、磨き上げられた木の床があたたかい。中央に両腕を真横に広げても余るほどの大きさのベッドと、それを囲むように並ぶ、木製の家具たちが大人しく輝く。書き物をする机を明るくしている白い格子の窓から、コールマン家の広大な敷地に、あらゆる訓練ができる設備と建物が一望できた。ケイトは、これから1年間共にする寝室に浸るどころか、腹の底で煮えたぎる真っ赤なマグマが、自分を支配しているのを感じていた。


 ケイトは、そおっと扉を開けて、エリオットが指をさして教えてくれた、同じ階の小さなベランダに足を運んだ。長い廊下のどんつきの壁のアーチを超えると、ガーネット王国が一望できた。ケイトは、自分の胸の高さまである白い手すりにもたれ、傾きはじめる太陽を斜め前から浴びる。その光は、他の貴族の屋敷の屋根という屋根に反射する。そして、空との境界線をはっきり描き、まるで、あたり一帯が光の草原のように映った。ウェーブのかかった前髪が、長いまつ毛に触れても瞬きをせず、しばらくやわらかい風に身をまかせてマグマを鎮める。


「きれいだ」


「へ?」


 ケイトは、背後からの声に、勢いよく振り向いた。


 そこに、先ほど、下で倒れていたはずのクリスが立っている―――。


 薄い紫のシャツの襟から胸元にかけて施されたフリルが、白いベランダに流れ込む風に揺れていた。光沢のある黒のパンツが、高い腰からスラリとした足を包み、足元の磨かれた革靴まできれいなシルエットで魅せていた。


「うそ・・・」


 ケイトは、手すりからからだを浮かせ、息をするのを忘れたようにクリスを見つめた。


「隣、ごいっしょさせていただいても?」


 クリスは、微笑みながら言った。


「あ、ああ。っていうか、もう、動いていいのか?」


 ケイトは、横に近づいてくるクリスを、まやかしを見るかのような目で追った。


「ん? なんのこと?」


 クリスは、手すりにもたれながら、蒼いダイアモンドの瞳を細めて言った。


「さっき、下で倒れてただろ? 無理するんじゃない」


 ケイトは、胸にさざ波を起こして言った。


「エリオットは、よっぽどじゃないとあの場所を案内しない。ということは、君は、コールマン家の大事なお客様?」


 クリスの薄い氷のような微笑みは、ケイトの腹の底のマグマを煮えくり返す。


「・・・質問に答えないんだな。ならば、わたしはこれで失礼させてもらう。すまなかった。おまえのお気に入りの場所を取ってしまっていたようだ」


 そう言ってケイトは、眉を尖らせて、自分の部屋に戻っていった。


「ふっ。嫌われてしまったかな」


 クリスは、ケイトのツンとしたうしろ姿を見て、微笑みながら言った。




 本館2階・客の間―――。


「お初にお目にかかります。コルネイユ王国・第3王女ケイト・ヴァレンティーナ・コルネイユと申します」


 ケイトは、レナードの前で、頭のてっぺんから足のつま先まで意識を通し、お辞儀をする。


「こちらこそ、お初にお目にかかります。この家の長男、レナード・コールマンです。どうぞよろしく」


 そう言ってレナードは、ケイトをテーブルの席に連れて行き、スッと椅子を引いた。灰紫の水晶の瞳が、少し毛先にウェーブのかかった白銀の前髪からやさしく光る。レースで装飾された立襟から、つやのあるフリルが優雅に広がる。細身ながらも、引き締まったバランスのいい筋肉は、着こなした淡いオレンジのベストから垣間見えた。


 ケイトは、レナードのなめらかで隙のない所作に心地よく身を任せる。落ち着いたアイボリー色のテーブルクロスの中に、きっちり足がおさまり、背筋が喜んだ。4人がけのテーブルに磨かれた銀のカトラリーと、白い食器が贅沢にセットされ、悠々とふたりをもてなす。すぐ横の壁には、咲きこぼれる花の大きな油絵が飾られていた。画板に重ねられた何層もの絵の具は、真上のシャンデリアの繊細な光に反射して、鮮やかな色をより立体的に浮き立たせる。


 ふたりがナプキンをひざにかけ、使用人が右上のグラスに水を注ぎ、左上の小さな皿にパンを乗せたのを見届けて、エリオットは退出した。


 ふたりだけの空間になったところで、ほわっとやわらかい分厚いスープの湯気がテーブルをあたためる。同い年のふたりは、大人の目をよそに、ざっくばらんに会話をはじめた。


「へ? 双子の弟がいるかって?」


 レナードは、突拍子な質問に、スープを運ぶ手が口元で止まった。


「ふっ・・・!」


 レナードは、我慢できずに吹き出してしまった。一旦、スプーンを皿の縁に置く。


 ケイトは、皿を斜めにしてスープをすくい、大真面目な顔でレナードを見る。


「いや、失礼。弟は、クリスだけさ。会ったのかい?」


 レナードは、ナプキンで口の周りを押さえ、笑いをこらえながら言った。


 右側からスッと手が伸びてきて、スープの皿が消える。バトンをつなぐようにして、4切れにスライスされた、上品なロゼ色の牛肉が、水を弾く元気な緑のリーフといっしょに整列して入ってきた。


「会ったもなにも、まるで異国人としゃべっているかと思うくらい、話が通じなかった」


 ケイトは、ナイフとフォークを手にして、険しい顔をして言った。


「それは申し訳なかった。あいつは、めったなことがない限り、心の内を人に見せないからね。代わりに謝るよ。許してやってほしい」


 レナードは、逆立った子猫の毛をなでるように、おだやかな笑顔を見せて言った。


「まっ・・・まあ、あんな訓練を毎日やってたら、そうなるかもな」


 ケイトは、レナードの笑顔にごまかされるように素直になった。カトラリーを一旦置き、小さなしずくの形をした器を持ち上げて、ずっしりとしたソースを肉に落とす。


「そうだ、1年間、騎士の学舎で学ぶって、本当?」


 レナードは、子猫のご機嫌を見逃さず、次の話題に移る。フォークとナイフをリズムよく交互に使い、広がったままのスライスを、口に入る大きさに折りたたんだ。


「ああ、本当だ。母国のために、わたしができる限りのことをしたいと思っているから。少しでも、いい国にして、民の期待に応えたい」


 ケイトは、真剣な眼差しで答えた。いまにもボタっと落ちそうなソースを包むようにして、口に運ぶタイミングを図る。


「それで、王女様が騎士の訓練を受けるって、普通ならないと思うけど、なんで?」


 そう言ってレナードは、フォークに刺さった肉を塩だけで口にして、込み上げてくる笑いに栓をするようにのみ込む。


「おかしいか? 国も、自分の身も守れる王女がいてもいいだろ?」


 ケイトは、レナードの質問を、肉汁からはみ出すソースの酸味と共に噛み砕く。すぐに、緑のリーフに埋もれていた赤いプチトマトを放り込んで、甘みを口の中にひろげた。さらに、左上のパンに手を伸ばし、丸のみするようにして、舌を落ち着かせた。


「守られるのはダメなの?」


 そう言ってレナードは、美しい輝きを放つクリスタルのグラスを持ち上げ、透明な水を唇にすべらせた。


「弱い王女はいやだ」


 ケイトは、ナイフで2枚目のスライスに乗せたソースを静かにはがす。


「周りの人は、君が弱いから守るんじゃないと思うよ」


「ん? どういうことだ?」


 ケイトは、噛みきれなかった肉のかたまりを、のどに詰まらせながらゴクリとのみ込んだ。そして、澄ました顔で、最後の一切れを、みずみずしい野菜に包んで流し込む。


「君が美しいから守りたいと思うんだ」


 レナードは、グラス越しに屈折して映るケイトの顔を見て言った。


「へ・・・?」


 ケイトは、難しい顔をしながら、目の前で入れ替わる皿のように、レナードの言葉を自分の言葉に置き替えて解釈しようとする。


「ふふっ。いや、気にしないで」


 そう言ってレナードは、上に置かれた、ひとまわり小さい繊細なフォークを手にした。そして、黄金のボートのように優雅に浮かぶ、切れ目の入ったメロンに刺して、その会話を終わらせた。




 1年後・コルネイユ王国―――。


 王の御殿の大きな窓は、今日も夕日に染まるコルネイユの美しい丘を魅せる。


「レナード殿より、正式に縁談をお断りするとの連絡が来た」


 いつものように、ひじかけ椅子に座る国王は、直立するケイトに向かって言った。その横でワインを注いでいた執事は、一瞬ブレる手をなんとかごまかす。


「も・・・申し訳ありません、父上」


 ケイトは、しとやかにたたずむも、国王と目を合わせず、気まずい顔で言った。


 無数の小さな針が、からだ中に刺さるような空気が部屋全体に広がる―――。


 国王は、無言で、ゆっくり背もたれに身を置いた。


「つきましては、父上。わたしを騎士団か警備団に配属していただけませんでしょうか?」


 ケイトは、無理やり本題に入るように、ワイングラスを片手にした国王を見て言った。


「警備団に騎士団か・・・。どうやらレナード殿は、おまえをしっかりみてくれていたようだな」


 そう言って国王は、いつもよりスパイスの効いた赤ワインをのどに通す。


「そ、そうみたいですね・・・」


 ケイトは、赤ワインが流れていく国王ののどのラインを見ながら、いっしょに唾をのみ込んで言った。


「他になにかありそうだが・・・まあいい。しばらくは、警備団でおまえがこの国のためにできると思うことをしてみなさい」


 そう言った国王の瞳は、コルネイユの丘を超えた先を見つめていた。


「ありがとうございます、父上」


 ケイトは、軽くひざを曲げてそそくさと退出した。自分の部屋に帰る通路で、小さな窓から差し込む夕日が、じりじりと胸をくすぶらせる。




 数週間前―――。


 その日も、西陽が白いベランダをオレンジ色に染めていた。


「なあ、クリス。もし、な〜んでも好きなことをしていいって言われたら、なにをしたい?」


 ケイトは、手すりにもたれながら、クリスに手を伸ばすようにして言った。


「おもしろい質問だな。君だったらなにをしたいんだ?」


 クリスは、光の草原の中でスキップするケイトを、遠くで見つめてたたずむ。


「そうやって、おまえはいつもわたしの質問に答えない」


 ケイトは、目を伏せて、伸ばした手をすっと下ろす。


「ふっ。また嫌いになったか?」


 そう言ってクリスは、笑みを浮かべながら、ケイトの顔をのぞき込む。


「嫌いにはならない。最初から好きじゃないんだから」


 ケイトは、真面目な顔をして、クリスの目を見て言った。


「そうか。でも、いつもこうやって会ってくれてる」


 クリスは、落ち着いた声で、ケイトから目をそらさず言った。


「・・・っ!」


 ケイトは、胸がキュッと締まって固まる。そして、ほおを赤に染めた熱を冷ますように、ふうっと息を吐いて仕切り直す。


「わたしはな、クリス。行ってみたい場所がある。昔読んだ本に書いてあったんだけど、西の最果てから船に乗って、何日も航海してたどり着く、小さな島なんだ」


 ケイトのきめ細かい肌のトーンが、無限に広がる光に溶け込んでいくように、明るくなっていく。


「そこは、身分や立場に関係なく、毎日ワクワクしながら起きて、周りで起こること、すべてを美しいと感じながら、日が沈むまで楽しいことをする。それでいて、みんなが幸せに暮らせるんだって」


 ケイトは、どんどん早口になって、目を輝かす。


「どうだ、最高だと思わないか? わたしは、いつかそこへ―――」


 ケイトがクリスの顔を見て言葉をのみ込んだ。そのまま、じっと蒼いダイアモンドを見つめ、ゆっくり彼のほおに手を伸ばす。


「クリスおまえ・・・泣いているのか?」


 ケイトは、クリスのこぼれ落ちる涙をそっとぬぐいながら言った。


 クリスは、魂を抜かれたようになって、ぼう然としていた。ケイトのあたたかい手のぬくもりが、クリスの意識を呼び戻していく。クリスは、おもむろに、自分の手でほおを触った。



 濡れている―――。



 クリスは、言葉を失ったまま、水滴がついた指先を見つめた。


「くっくっくっ・・・、あっはっはっはっ!」


 ケイトは、静かに混乱しているクリスを見て、たまらなくなって吹き出した。


「クリス、なんだ、その顔―――」


 すると、とつぜんクリスの顔が至近距離で飛び込んできた。あごを持ち上げられ、口をふさがれたと思ったら、唇にやわらかい感触がした。


「・・・・・・っ!」


 ケイトは、とっさにクリスの胸を押して突き放す。


「なっ・・・なにをする!」


 ケイトは、顔を火照らせながら、唇を袖で押さえる。心臓の鼓動が高まり、息の乱れが止まらない。


「ふっ。なにって、君がとても美しいと思ったからキスをした」


 クリスは、微笑みながら、ケイトの瞳をまっすぐ見つめて言った。


「・・・・・・っ!」


 ケイトの胸が焼けるように熱くなり、からだ中の細胞は騒ぎ立てるのに、のどがそれを押さえつけ、一向に言葉が出ない。


「ケイトの行ってみたい場所、おもしろそうだな」


 そう言い残して、クリスは自分の部屋に戻って行った。



 ひとり残されたケイトは、手すりからずり落ちるように、ひざを抱え込んで座り込む。しばらくの間、背後で色濃くしていく夕焼けのように、真っ赤になった耳だけ出してうずくまり、火照り続ける顔を鎮めていた。

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