第2話:ローレンス(12)とクリス・コールマン(16)
7年前―――。
「おれは騎士になりたい! どうやったらなれる⁉︎」
突如、コールマンの目の前に、湖畔に輝くまぶしいヘーゼルの瞳が飛び込んできた。
その数時間前―――。
コルネイユ王国、王宮から南、最果てのダリー村。サトウキビが収穫時期を迎え、広大な土地が黄金色に輝く。その村は、深い森を背に、石造りの平屋がポツポツと肩を並べ、大人の腰までの高さの石垣に囲まれていた。
当時16歳のクリス・コールマン。コルネイユ王国・騎士団に入団して2年目になる。同じ時期に入団したロイドと共に、王国中の町や村、集落を視察で訪れていた。ふたりは近い将来、王国を担っていく逸材として扱われ、任務の一環として遠征に出される。ひとつ年下のユトも新兵として同行していた。
肩に少し触れる白銀の髪が、馬に揺られるコールマンのほおにかかる。上下紺色の兵団服に、雨風をしのぐフード付きのダークグレーの外套をまとっていた。腰に差した深い紫色の鞘が鈍く光り、ひざまである黒い革のブーツが全体を引き締める。ときどき、風でなびいた外套から、金色の刺繍でほどこされた左胸の王国の紋章が顔を出し、存在感を示していた。
サトウキビが、馬上のコールマンたちと同じ背丈に育っている。それらは、両脇に途切れることなく立ち並び、一斉にお辞儀をするように訪問客を出迎える。王宮周辺の乾燥した気候とは対照的に、湿気で汗ばむからだが服にまとわりつく。外套をまとえば熱がこもり、フードを取れば太陽が皮膚を焼く。そして、村に近づくにつれ、湿った土と草に加え、甘い匂いが鼻をついた。ユトは、まるで砂糖を溶かした生ぬるい泥水を、無理やりのまされたように、気分が悪くなる。
「あぁ! 暑いっす! なんなんですか、この匂い! 鼻がもげそうです! 頭が痛くなってきたぁ!」
ユトが、コールマンとロイドの後頭部に向かって、ヤカンが沸騰して水蒸気が飛び出すように、思ったことをすべて吐き出した。てっぺんのうねった濃い茶色の髪はしなり、短く刈り上げた部分から、汗が滝のように流れていた。深い藍色の瞳は幼さを残し、健康的な黄色い肌は、太陽の熱で赤く騒ぐ。
「黙れ。フードはかぶっとけよ。西陽でも日焼けするぞ」
ユトのすぐ前を行くロイドが、冷ややかな視線を送りながら言った。
「それに、この匂いはサトウキビを発酵させてるからだ。今夜はおまえ好みの酒が飲めるかもな。だから文句言うな」
ロイドは、重苦しい荷物を、なんとか軽くする。
「おお! そうなんですか!」
ユトは、前のめりになって胸を躍らせた。コールマンは、静かにふたりの会話を聞きながら前だけを向いて進む。
黄昏の空の下、3人は、石垣のゲートを入ったすぐのところで、熟年の男と、その両脇に立つふたりの壮年の男に出迎えられた。彼らの何層にも重なった日焼けした皮膚は、畑仕事で鍛えられた丈夫なからだを甲冑のようにまとう。
「ようこそ。遠いところ、よくお越しくださいました。わたしは村長のマルコと申します」
村長は、目にかかる長い眉毛の隙間から、馬上のコールマンを見上げて言った。しっかり肩幅に開いた足が、曲がりはじめた腰を支える。
「マルコ村長。わたしは、コルネイユ王国・第1騎士団兵のクリス・コールマンです。今夜はお世話になります」
コールマンは、馬から降り、外套のフードをとって挨拶をした。村長のひび割れた指先に赤茶色の土が染み込む分厚い右手が、コールマンの白く細長い手を包む。続いてロイドとユトも、両脇の村民と握手をした。
「こちらです。どうぞ」
息つく暇もないまま、腰に差した剣以外の荷物を村民に預け、一番明るく灯された家に案内された。
底上げされた木のフロア。木の梁がむき出しになった天井。石壁が外の過酷な暑さを冷んやりさせる。入り口で外套を脱いで兵団服の姿になり、この村が凝縮された部屋に入る。コの字になったテーブルを囲って椅子に座る約30人の村の男たちが、心の盾をかざし、視線の矛でコールマンたちを一斉に突いた。コールマンは、それらを避けることなく、終始、貴族の気品を漂わせながら凛とした態度で村長のあとに続く。ろうそくの火が香ばしく炒めた山菜の色合いを演出し、早朝から石窯に入っていた絶妙な赤みが残る羊のローストは、卓上のメダリオンとして主役の座を任されている。そして、それを取り出す直前に投入した、外側がカリッと焼き上げられたパンは、内側のしっとりした熱を見事に封じ込めていた。それらは各テーブルに大皿で盛り付けられ、皿の縁が重なり合うほど所狭しと並んでいた。コールマンたちは、あたたかい鶏ガラのスープの湯気と、ピリッとスパイスの効いた、男たちの盾と矛が混じり合う空間を通り切って、みなからよく見える、一番奥の席に座った。
「ロイドさん、うまそうっすね」
ユトの目がとろけ、よだれが出る。
「うるさい。まだ静かにしてろ」
ロイドは、吹きこぼれた鍋にすかさず蓋をするように、ユトを黙らせる。
「こちら、ラム酒という、サトウキビからつくった、この村自慢のお酒です」
そう言った村長は、コールマンが木のカップを手にする前に酒を注いだ。ロイドとユトも、同じように村民から注がれる。それは、カップの中で、ダークゴールドに輝き、匂いだけでも、のどが焼けるようだった。
コールマンは、ずっしりと重くなったカップを右手で持ち、スッと椅子を引いて起立した。まだまだ育ち盛りで、背丈は隣にいるロイドより頭ひとつ分低い。しかし、彼の隙のない所作に、壮年の働き盛りの男たちは吸い込まれ、酒を注ぎ合う手が止まる。
コールマンは、目の前に並ぶ料理から立ち込める熱と、男たちのスパイスで充満する空間を、動かない氷山のように堂々とした態度で中和する。
部屋の緊張が最高潮に達した。裏で配膳の準備をしていた女たちも手を止め、扉の隙間から固唾をのんで見守る。
「我々に、このようなもてなしをありがとう。きっと、朝早くから準備してくれていたのでしょう。わたしは、コルネイユ王国・第1騎士団兵クリス・コールマン。王国を代表してお礼を言いたい。そして、わたしたちは、この村のことをもっと知りたいと思う。よろしく頼む」
魂が吸い込まれるような甘い声―――。
コールマンの性別を超えて魅了する微笑み、かつ、まっすぐで力強い瞳に、男たちの胸は高鳴った。きめ細やかで美しい肌を持った若い貴族に、構えていた思い込みの盾は見事に下ろされる。おもちゃをぶつけるような、裏の配膳準備の音も、軽やかな弦楽器のものに変わる。
「はっはっはっ! 騎士様の訪問と、コルネイユ王国、我が村の発展を願ってかんぱーぁい!」
威勢のいい男の声と共に、場の空気が炭酸のように弾けた。そして、目で突いていた矛も、ラム酒によって甘く溶けていった。
コールマンにとって、この村でもこれまでと同じように時間が流れていく―――。
王宮の北から東、そして南へ1か月かけて何十という集落を視察した。隣に座る村長から、村の現状、かかえる問題、国への要望などを刻々と聞く。平民出身でお調子者のユトは、村民と意気投合し、酒を交わしながら口いっぱいに料理をほおばる。ロイドは、貴族でありながら、持ち前の明るさと親しみやすさで村民から人気があった。
やはり、これまでと同じ時間が流れていく―――。
あたりはすっかり暗くなる。森から運ばれてくるしっとりした風が、日中、熱を浴び続けた大地を静かに冷やす。黄金色のサトウキビ畑は、星空の下で漆黒の海に変わっていた。そして、ろうそくの火がより明るく感じられたころ、ミルクのような甘い香りが部屋に広がる。村民の女たちが、すべての料理を出し切ってテーブルに加わった。不様に酔っ払った夫に呆れかえる妻。リズムを無視した打楽器のように、まだ起きていた子供たちが裸足で床の上を走りまわる。その光景を見て、戦場で天を仰いでいたコールマンに笑みがこぼれた。
「いい村だな、クリス」
ロイドは、氷が溶けた騎士に話しかけた。
「ああ。やっとこの村のことが知れた」
コールマンは、目にかかる横髪の間からロイドを見て言った。
そのときだった―――。
コールマンの正面をめがけて走ってきた少年が、勢いよくテーブルに手をついた。皿という皿が宙に浮き、その隙間をめがけて声を投げる。
「おれは騎士になりたい! どうやったらなれる⁉︎」
正面からの突風で白銀の髪が乱れ、蒼いダイアモンドに、ヘーゼルの瞳がガチッと合わさった。さすがのロイドも、いままで見たことのない光景に目を丸くして、酒の入った木のカップを落としそうになる。
「こら! バカ! ローレンス!」
力強い声をしたかっぷくのいい女性が、少年の首根っこをつかんで、雑草を根こそぎはがすように、そのまま外に連れ出した。
「申し訳ありません、コールマン様」
横にいた村長が、仕方なさそうに言った。ロイドは、久しぶりに凍結するコールマンの顔を見て、たまらず吹き出した。
「彼は?」
コールマンは、乱れ上がった髪が整う間もなく村長に聞いた。
「12歳のローレンス・エドワードです。去年、王宮の騎士団の新人戦を、父親と観戦しに行ってからというもの、ずっとあの調子なんですよ。もう一人前の騎士になって国のために戦っているつもりでいます。特に、決勝戦でひとまわり大きい相手をもろともせず倒したあなたのお姿が、彼の脳裏にずっと焼きついているようです」
コールマンは、村長の話を、外で抵抗する少年の叫び声を背景に聞いた。
「そうですか。まあ、その決勝の相手は横にいるこいつでしたが」
コールマンは、ロイドを親指でさしながら言った。ようやく整った髪の毛が、微笑むコールマンをやわらかく包む。
「るせーよ」
ロイドは、背中を丸めて腹をかかえている幼馴染に満悦して言った。
酒が入った大きな木のピッチャーが好き放題に倒れ、テーブルは戦のあとのようになっていた。村人たちは、ポツポツと席を離れていく。
「ユト! 起きろ! そろそろ行くぞ」
ロイドは、すっかりいい気分で寝落ちしているユトを揺すって言った。3人は、先ほど少年を引っ張り出した女性に連れられ、敷地内の離れに案内される。
「今日はお疲れになったでしょう。ゆっくりお休みくださいね」
それぞれの部屋に、荷物が運ばれ、ベッドが用意されてあった。
「ありがとう」
コールマンは、やわらかい笑みを見せて言った。その横でロイドは、肩で担いでいたユトを部屋に放り込む。
「先ほどは、息子が粗相をして申し訳ありませんでした。あのあと、ふてくされて眠ってしまいました」
母親は、眉と肩を落とし、おでこにシワを寄せて言った。
「ふっ、子供のしたことです」
コールマンは、部屋に向かって歩きながら答えた。そして、横顔だけ見せて続ける。
「もし、彼が本当に騎士になりたいのなら、15歳になる収穫の時期に、王宮の門を叩くといい。素質があるのなら、問題なく入団試験も合格するでしょう」
そう言って、コールマンは母親の返答を聞かず部屋に入っていった。
どこまでも続く静かで真っ暗な夜。甲高い鳥の鳴き声だけが響いていた。コールマンは、それに心地よく耳を傾け、窓からこぼれ落ちそうな星空を見つめて眠りにつく。
翌朝―――。
ゆらゆら揺れる朝焼けの太陽が、深い霧を持ち上げる。コールマンは、離れのデッキにもたれかかって、その中に身をうずめていた。まるで黄泉の国につながっているかのように、足元の感覚を持っていかれそうになるが、鼻をつく甘い匂いがこの世に引き戻す。すると、コールマンの皮膚が騒いだ。反射的にそばに立てかけていた剣に手をかける。鋭いつららのような目であたりに注意を向けた。
一瞬、小さな影が目の前を通過する―――。
「・・・ふっ」
コールマンの口角が上がる。そして、そのまま手をかけていた剣を腰に差し、大きく前のボタンを外した白い襟付きのシャツのまま、勢いよくデッキから飛び出した。
影は、ゲートを通らず、両手を石垣につき、宙を舞って飛び越える。足元しか見えない視界をくぐりながら、サトウキビ畑のあぜ道を全速力で駆けてゆく。少し丘になった草っ原。そのままスピードをゆるめず、森に入るところで小さな木の枝を拾い、勇ましく深い霧に向かって振りまわす。まるで頭の中で壮大なストーリーを描いているかのように、すべての敵を倒すまで枝をおさめない。さらに、休む間もなく、ひざまである湿った草をかきわけ、小川に沿う岩場という岩場をジグザグに素早く飛び移る。そして、一番高く、大きい岩の上にたどり着いた。内臓を震わせながら轟々と落ちる滝を背に、腰に手を当てて仁王立ちをした。そこは、手が届かないほど高く茂った木々も、低いところで視界をはばんでくる霧も、すべてを手中にできる唯一の場所だった。登ってくる朝日に向かって目を輝かせる。
影の主は、何度も着こなした麻の半袖の上着に、七部丈のズボン、泥だらけになった靴を履いていた。くせっ毛で好き放題に跳ねたライトブラウンの髪の毛は、倒してきた白い敵の水分を吸って膨れ上がっている。彼の左肩には、漆黒のからだから浮かぶ、まばゆい青の蛍光色の羽を持った、一匹の蝶がくつろいでいた。
「またおまえか」
そう言って、彼はやわらかい笑顔で話しかけた。いつもは話が弾むのに、今日はすぐに羽をひろげ、その場を去っていく。
「あ・・・おい!」
フラフラ離れていく姿に手を伸ばす。
「すまない。わたしがおまえの友達を怖がらせた」
ゾワっと足のつま先から虫唾が走り、頭のてっぺんを突き抜けた。
「だっ・・・だれだ!」
振り返ってバクバクする心臓を口から出して言った。あぐらをかいて、太ももに片ひじをついた白い氷上の騎士がいる。行き止まりの滝を背にしていたのに、いつの間にか背後に回り込まれていた。
「おっ・・・おまえは、昨日のコーマン!」
目をこすりながら、言葉の記憶を引っ張り出して叫んだ。
「コー『ル』マンだ」
コールマンは微動だにせず、冷静に訂正した。
「コールン!」
新しく入ってきた音だけ出して叫ぶ。
「クリスさんと呼べ」
コールマンは間髪入れずに言った。
「クリスさん!」
頭にスッと入ってきた。
「よし。おまえの名は?」
「おれは、ローレンス!」
ローレンスは、滝から降りてくる風を正面に受けながら言った。そのピッチの高い声は、滝を真っ二つに割ったように歯切れよく聞こえる。
「あれだけ走って、息は上がってないのか?」
コールマンは、さっそく未知の生物の解剖をはじめた。
「別に」
ローレンスは石ころのような無表情で答えた。
「さっき、枝を振り回していたが、剣術はどこで学んだ?」
コールマンは、水がしたたるように次の質問に移る。
「そんなの学んだことない」
ローレンスは、すでに会話に飽き、枝を振り回しはじめる。
「やはりその動き・・・」
コールマンの目が見開き、片ひじが太ももから浮いた。
「もしかして、昨年の新人戦で観た、わたしの動きをマネているのか?」
「・・・?」
ローレンスの意識は、振り回す枝のみに注がれ、コールマンの質問は通り過ぎた。
「なんで騎士になりたいんだ?」
コールマンは、仕切り直すように、両手を太ももに置き、背筋を伸ばして昨夜の話の続きをする。
「う〜ん・・・。楽しそうだから!」
ローレンスの背中に朝日が当たり、小さなからだの輪郭が黄金に輝く。コールマンの内臓にじわっと熱が帯びた。
「ふっ・・・。よし! ついて来い!」
そう言ってコールマンは立ち上がり、岩場を駆け降りていく。ローレンスの全身の血が一気に騒いだ。胸いっぱいに息を吸い込み、下半身からエネルギーを爆発させて一歩目を踏み出す。いつも視界に入ってくる馴染みある草木は、コールマンの背中にかき消される。
速い―――。
腕を腰からひねってちぎれそうになるほど振った。裏の太ももから跳ねるようにひざを上げ、かかとを1ミリでも遠くに出してスピードを乗せていく。まるで、力任せに叩かれるドラムのように心臓が跳ね上がり、破れそうになる。そして、朝日に霧が吸い込まれた少し開けた場所で、見失ったと思ったコールマンのシルエットをはっきりとらえた。
右手で木の棒の先端を顔の前にかざし、左手を腰のうしろにまわして直立している。
ローレンスは、スピードを緩めず、持っていた枝を握り締め、コールマンに向かって振り下ろした。
「迷いがなくていい」
そう言ったコールマンは、スッとローレンスの横に身を置き、木の棒を彼の一振りに滑らせる。空振りをしたローレンスは体勢が崩れて地面とぶつかりそうになった。その瞬間、右足で全体重を受け止める。そして、振り返りながら左腕に螺旋状に増幅したエネルギーを乗せ、コールマンの胴体に目がけてぶつけていった。
「ほう、転ばないのか」
コールマンは、ローレンスの枝の軌道を上から断ち切り、隙だらけの右胸に向かって突いた。
「うわっ!」
ローレンスは、とっさにからだを反らし、うしろに飛び退く。
「いい反応だ」
そう言ってコールマンは、距離を一気につめ、四方八方からローレンスに攻撃を浴びせる。
「わわわわっ・・・!」
まるで、大量のつららが横から一斉に打ちつけてくるように逃げ場がない。同時に、ローレンスは、いままで使ったことのない筋肉の伸縮を経験する。眠っていた運動能力が最大にまで引き出される。いつの間にか想像を超えた、己のパフォーマンスに高揚感で満たされ、すべての細胞が活発に躍る。すると、コールマンが攻撃のスピードを上げた。
「はあっ、はあっ・・・っ!」
いよいよローレンスの息が上がる。手足に膜が張ったように、からだが言うことを聞かなくなってきた。頭まで血が行き届かず、フラッと足元のバランスが崩れる。
「くそっ・・・!」
ローレンスは、なんとか踏ん張り、最後の力を振りしぼってコールマンの脇腹を狙った。
枝は空を切り、目の前のコールマンが消える―――。
コールマンのからだは、ローレンスの頭上を扇の要にして、上下逆さになっていた。まるで氷のカーテンが弧を描くようにしてローレンスの上空を超える。なにが起こったのかわからないまま、うしろからストンと右肩に木の棒が落とされた。ローレンスは、斜めうしろに崩れ落ちるように尻もちをつき、そのままコールマンの足元で仰向けになった。これ以上になく、大きく膨らみ続ける肺に意識が支配される。
「わたしの勝ちだ」
消え入りそうな視界に、蒼いダイアモンドが逆さで入ってきた。
「はぁ・・・はぁ・・・!」
もう、ローレンスのからだは地面と接着剤で固められたかのように動かないが、ほおだけはゆるんでいた。味わったことのない充足感がローレンスを包む。ローレンスは、しばらく生い茂る草木に沈み、鼻から大きく吸った空気を肺に届けた。そして、吐く息で、まだ鼓動の速い心臓を落ち着かせる。
「はぁ・・・もっとやりたい。どうやったらこの続きができる?」
ローレンスは、首の角度だけ調整して、そばに座ったコールマンを見て言った。
「ふっ。そこまでボロボロになって、なにがよかったんだ?」
コールマンは、地面と一体になったようなローレンスを見下ろし、微笑して言った。
「すっごくワクワクしたんだ。こんなに楽しいの、はじめてだ。この続きができるんなら、なんでもやりたい」
そう言ったローレンスの瞳は、深い湖の底が見えるほど澄んでいた。そして、これ以上にない満面の笑みではぁ〜っと深い息を吐き出した。
「・・・そうか。では、王宮で待つ。そこで続きを―――って、眠ったのか」
ローレンスは泥と化して寝息を立てていた。
「ふっ、なんなんだこいつは・・・。はっはっはっ」
コールマンは、肩を震わせながら―――大声で笑った。
周りの草花がコールマンの笑い声に共鳴し、より色鮮やかなトーンになる。木々の間から突き抜ける青空に、重なり合うようにして枝葉が踊り、蝶たちがヒラヒラと舞い上がった。
しばらくコールマンと天地の舞踏会が続く―――。
「ふう、さて・・・」
コールマンは、ゆっくり腰を上げて立ち上がった。
「おーい、ロイド! いるんだろ? ローレンスを運ぶから手伝ってくれ!」
周辺に向かって声を上げた。すると、近くの草むらの陰から、同じく白いシャツを着たロイドが顔を出した。
「なんだ、知ってたのか」
ロイドは、後頭部に手を当て、気まずそうにコールマンに近づく。
「盗み聞きは、お手のものだろ?」
コールマンは、両手を腰に当て、得意気に言った。
「おまえが森に入っていくのを見て心配してついてきてやったんだよ! ・・・ったく、王国の騎士が庶民に剣術を教えるのは禁じられてるだろ?」
ロイドは、ローレンスを両手で抱き上げながら言った。
「じゃあ、なんで止めなかったんだ?」
コールマンは、村に向かって歩き出す。
「ふん、おまえらのあんな顔見せられて、だれが止められるか。バーカ」
ロイドは、晴れやかなコールマンと、健やかに眠るローレンスの顔を見つめながら言った。
「こいつは、自分ではわかってないだろうが、騎士になりたいんじゃない。ただ、心ゆくまで遊びたいだけさ」
コールマンは、ローレンスの混じり気のない、澄んだ瞳を思い浮かべて言った。
「ああ・・・。それで、最高の遊び相手になるおまえと、出会ってしまったんだな」
ロイドは、胸に微々たる詰まりを感じながら言った。
「・・・そうだな。出会ってしまった。それが望みなら相手になってやるさ。その先の世界をどう感じて、どう生きるかはこいつ次第だがな」
そう言ったコールマンの瞳に、石垣に囲まれた村が飛び込んできた。シャープな朝日が家々を照らし、光と影のコントラストを見せつける。コールマンは、腹の底からうなってくる黒い血を感じながら、それに向かってまっすぐ踏み込んでいった。
「クリスさん! ロイドさん! どこ行ってたんすか!」
ユトが、孤島に取り残されたかのように、離れに戻ってきたコールマンとロイドに向かって叫ぶ。
「ふん、置いてかれるようなことでもしたのか?」
ロイドはユトに近づき、鋭く細い目で突く。
「・・・昨夜は、酔い潰れたわたしを運んでいただき、ありがとうございました」
ユトは、すぐさま姿勢を正し、ロイドに頭を下げた。
「ったく。さっさと用意をしろ。すぐに出るぞ」
ロイドは、部屋に入って支度をはじめる。コールマンは、すでに兵団服を着て外套をまとっていた。
草花に浮かぶ真珠のようだった露が、太陽の光に吸い込まれたころ、コールマンたちは、昨日と同じ顔ぶれに見送られ、村を出発した。2〜3日分の水と食料を馬に積み、次の集落に歩を進める。ロイドは、村長たちにペコリと頭を下げ、ユトは振り返りながら大きく手を振って、コールマンのあとに続く。
「・・・村長、彼らはいままでの貴族や、騎士様とは一味違いましたね。なんというか、丸裸にされた気分です。なのに、心地がいいというか・・・」
壮年の男が、コールマンたちが去っていくうしろ姿を見て言った。
「ああ。たった一晩で我々の村の本質を見抜いていかれた。天性なのか、想像もできない鍛錬を積まれたのか・・・。どちらにしろ、コルネイユ王国を代表し、視察を任されることだけはある」
村長は、先ほど渡されたローレンスの無垢な寝顔と、コールマンの背中を無意識に比べ合わせた。
「あの若さで、恐ろしいですね」
壮年の男の目に、黒と白の羽が入り乱れるコールマンの背中が映っていた。
「まったくだ・・・」
コールマンたちは黄金の光の束のようになったサトウキビ畑の中に消え、村長の足元に落ちた羽根は、湿った赤土の色にゆっくり染まっていった。
騎士団屋舎から王宮中央へ続く2階通路―――。
「それでそれで、15になったローレンスはあなたの元へ来たのですね。さぞ、新兵の中で一目置かれた存在だったのでしょう⁉︎」
ウィリアムは、会議に向かうコールマン団長の斜めうしろを歩きながら、目を輝かせて言った。
繊細できらびやかな装飾が施された金箔の天井。それは、通路を歩く者を洗練させ、王に会う準備をさせる。等間隔で鎧をまとって直立する警備団兵。彼らが持つ長身の槍と、堂々としたアイボリーの柱が、ホコリひとつないシャープなタイルに反射して、より増幅した権力を見せていた。すると、中庭から、小鳥が、ふわりとした紫色のうすい花びらから顔を出し、コールマン団長を呼んだ。
「ああ、ひどいものだった」
そう言ってコールマン団長は、それに引き寄せられるように、立ち止まって窓から中庭を見下ろした。その呼んだ主は、美しいくちばしと黄緑色のからだを持ち、深い緑の葉っぱに浮かぶ花の中に入って、ダークグレーの羽をバタバタさせながら蜜を吸う。
「え?」
ウィリアムは、コールマン団長にぶつかりそうになって、つま先に力を入れてからだを反らした。
すると、窓と同じ高さの木の枝葉に隠れて羽を休めていた小鳥たちが一斉に飛び立つ。
コールマン団長は、青く突き抜ける空に、羽をひろげて飛んで行く姿を目で追いながら、王の御殿に歩を向けた。