わたしたちのおうち
「あー…………」
ぴちゅぴちゅちゅちゅいちゅい。
窓の外から聞こえる暢気な鳥の声に、導はベッドに横たわったまま深く息を吐いた。
ずいぶん懐かしい悪夢を見たものだ。どっ、どっ、どっ、と、重く鼓動を刻む胸を、服の上からゆっくりとさすり、深く深く息を吸う。こういうとき、深呼吸が一番心臓に優しい。何度見ても、それこそすべてが解決した今になっても変わらず、あの日は恐怖と絶望の象徴だった。
起き上がる気になれずにごろりとその場で寝返りを打った瞬間、
「何してんのよアンタはぁーーーっ!!!!」
怒声がほとばしった。
優雅に囀っていた朝鳥たちが警戒のダミ声を交わしながら逃げていく。
「かっぷめんに湯を注いでいる」
「そーゆーこっちゃないわよ人があくせく料理してる横で手伝いもせずなんでカップメン作り出してるのかって聞いてるのよ!!」
「三軒隣の廃屋に大量に隠してあった。鍵つきの床下収納とは恐れ入る」
「あー、結局まわりの床もまるっと削ってぶち開けてたやつねー」
「そーゆーことでもないし、アンタまで一緒になってボケてんじゃないわよ!!ってうか止めなさいよ見てたんなら!よそ様の家を!当たり前のように!破壊しない!!!」
「たまごポケットにたまご落とすとおいしいよ。はい」
「ほう」
「アンタたちいい加減にしないと魂抜くわよ」
うるせー…………と蚊の鳴くような嘆きは、当然のように騒音加害者たちには届かなかった。起きぬけに元気よく騒音を止めるための騒音をひねり出せるような人種ではないのが悔やまれる。
ぎゃあぎゃあきゃっきゃと温度差のあるコントは最低限の家具しかない質素な部屋にも容赦なく響き渡り、二度寝あるいは気絶を阻止された導はため息をついた。イラッとしたお陰で靄のような気鬱がだいぶ晴れたなどとは認めたくない。ご近所さんは存在しないからご近所迷惑とは言わないが、同居迷惑も考慮してくれないものか。
のっそりと起き上がり、のろのろと着替えてドアを押し開ける。
憂鬱ながらも平穏な、「当たり前の一日」のはじまりだった。
「おはよう、我が乙女」
目も眩むような美貌、とは彼のためにある言葉だろう。
余計なものの一切ない輪郭。きらめく銀の睫に縁取られた、青く、青く、透き通った瞳。一切の癖のない白銀の髪はさらさらと光を帯びてきらめき、彼そのものが光り輝いているような錯覚を齎す。温度のない彫刻の持つ雰囲気に通じるものがあるが、彼の美しさを寸分も欠かさず削りだせる芸術家が果たして存在するだろうか。
……そんな絶世の美の化身が、擦り切れたぼろジャージに身を包み、銀糸の髪を輪ゴムで無造作にくくって、カップめんの出来上がりを待っているこの状況。
「カオス…………」
「耳は正常に機能しているか?」
「あーはいはいおはようおはよう」
ジャージ男は投げやりな挨拶によしと頷き、カップめんの蓋をぺりぺりと剥がしはじめた。いいんかい。
ぴくりともしない無表情がどことなく満足げで、ツッコむ気力も体力も失せてしまう。ふうわり漂った美味しそうな匂いが無気力に拍車をかけた。せめて何か食べないとツッコミもままならぬ。
しかしこれだけは言っておかなければならない。
「『我が乙女』って呼ぶのやめて」
「事実だ」
「事実でもだよ馬鹿。女が皆美形に所有物宣言されて喜ぶと思うなよ「聖剣」ベルディウス」
かつて、導は「勇者」だった。
怪物と同じようにこことは違うどこかから現れた「聖剣」に選ばれ、世界中に湧いた怪物――――「聖剣」曰く「異邦の魔」――――を片っ端から殺して回る「勇者」としての役割を背負わされた。
その際、「聖剣」と導の間には契約が結ばれた。
「聖剣の担い手としてすべてを捧げる」。体も心も過去も未来も、本来辿った筈の平穏な運命もすべて、余すことなく捧げ尽くし、その返礼として「聖剣」は本来手に入れられなかった強大な力を授ける。
理不尽の只中で命の危機に晒されていた人類の希望を一身に背負ってしまったあの日の導に拒否権はなく、かくして人権を失った導は「聖剣」の所有物、「勇者」として日夜怪物退治に励むこととなり、最終的に怪物の総元締め「魔王」とドンパチやらかして世界を救ったのだが、詳細は精神衛生に最大限配慮して割愛する。
重要なのは、この世から怪物の脅威が消えうせても、契約は解除されずに続いている、ということ。
おまけに何を思ったか人のかたちをとるようになった「聖剣」は当然のように「我が主」「我が乙女」「運命の乙女」などと誤解しか呼ばないが嘘でもない呼称を憚らず、主=所有者ではなく主=所有物であると知っている導の目をしめやかに死なせるパワハラならぬ剣ハラぶり。
周囲の目など存在しないとはいえ、これに慣れたら何かが終わる。
緊急性はないが切実な危機感に突き動かされて定期的に無駄な抵抗をしている導だった。無駄と解っていても戦わねばならぬ時というものがあるのだ。ベルディウスは納得がいかない命令にはまったく従わないので今回も無駄に終わるだろう。
「はふ……あ、おはよーしーちゃん」
「え?あら、おはよう導。今日は珍しく早起きじゃない」
「朝からああもうるさく騒がれたら寝てられないでしょ普通……おはよ」
オープンキッチンからひょこっと顔を見せた二人組にむっすり告げると、「やっぱうるさかったかーごめんねー」「だからアンタはそういう事を口に出していいなさいって。無駄にボケ倒すための口じゃないでしょ」「ご飯できたら起こしに行くんだから同じことじゃない?」「まるで違うわよ反省しなさい。アタシも反省するから」「おそろだー」「反省しなさい喜ぶな」……流れるようにコントが始まった。とてもうるさい。
「みさき」
「はい、なーに?」
瞬時にコントをやめて笑顔を向ける少女は、名をみさきという。眠たそうな小動物のごとき半目と言動が特徴。ごく標準的な黒髪黒目、一目見て「優しそう」との印象を抱かせる顔立ち、ふっくらした女性らしい体つき。道端で迷子になったとき見掛けたら道を尋ねたくなるような雰囲気。
導の悪友であり、親友であり、今や家族同然に寝食を共にする存在である。
「今日のご飯当番、みさきじゃないよね」
「うん、あのね、昨夜ダンテが釣ってきてくれたおばけ魚がね、こーんなに大きくて!ぷりぷりで!」
「あー、なるほど……」
捌き甲斐も食べ甲斐もある魚なんぞなかなかお目にかかれるものではない。食道楽の気があるみさきにとってはダイヤより価値ある代物だろう。道理でなんかきらきらしている訳だ。たのしかったー!と全方位にきらきらを振りまくみさきの手から、そっと包丁を取り上げ、最後の一人がプンスコ怒る。
「こら、包丁もってはしゃがない!」
「刃物握ってはしゃがない人間はどっかしらおかしいと思うー」
「軽率にマトモな人類に喧嘩売るんじゃないわよ。いくらなんでももうちょっと段階踏んで発狂するでしょ」
「あっはっは、ダンテは人間に夢見すぎだねえよしよしかわいいかわいい」
「………………えっ、いや、違うでしょ流石に……………人間ってもっと…………えっ………………………」
そっ……と視線を斜め上に逸らした導に、彼は困惑しきりの表情を向けてくる。影の濃い深い赤の瞳が不安に揺らぎ、爪跡に似た細い瞳孔が水面の月のようにゆらめく。
白磁の肌に薔薇色の瞳の取り合わせはかえって不健全だ。少年か少女か判別のつきにくい痩身のくせに、滴るような色香がある。小柄な日本人規格の少女二人に比べれば背丈が高く、見た目的には十代後半といったところ。
黙って微笑んでいれば、国の一つも傾きそうな、蠱惑と退廃の香り漂う妖しい美少年だが……ツッコミ体質と女言葉のダブルコンボで妖しげな雰囲気も台無しである。あわれ。
それはそれとして、期待と不安の眼差しには応えられそうもなかった。みさきがにこにこしたまま言う。
「「聖剣」に選ばれたての頃おおはしゃぎして一週間寝食忘れて地獄絵図を築いてたしーちゃんに何を期待してるの?おかしなダンテー」
「うそでしょ?????」
ごめんマジです。
「いやだってあの畜生どもを抹殺できるとなったらうれしくてつい……」
「完っ全にハイ&発狂だったよねぇ。血溜まりに佇んだまま我に返って絶望するとこまでセットで完璧だったー」
「……………………………」
「しめやかに人類に絶望しないで……あれも特殊な状況だったんだって、人間ってもっとこう、もっとこう…………ね?」
「そ、そうよね、まだ希望を捨てるのは早いわよね。アンタたちが業も闇も深すぎるだけって可能性もあるわ」
「その希望は捨ててお願い」
「もー。絶望するな希望は捨てろだなんて、しーちゃんってばわ・が・ま・ま・さん!」
ちなみにこの間、導の隣からはじゅるるずぞぞぞぞぞと麺を吸い上げる音が絶えずし続けていた。
朝っぱらからカオスが過ぎる。
五年前。
たった一ヶ月で、世界はすっかり様変わりした。
一番の変化は、やはり単純に、人間の数が少なくなったこと。怪物たちは人間以外を狙わなかったが、逆を言えば、人間だけは執拗に殺しつくした。
日本では、ひとつの県単位で生き残りが10人いれば重畳、20人を超えたら奇跡だった。海外諸国ではもっと甚大な被害があったとも聞いている。生き残りはある都市の中央部に集まり、ゆるやかに営みを再開しながら復興を目指している。
導は後のことに興味はなかった。彼女の役割は既に果たされた。障害は排除したのだから、後のことは好きにすればいい。
と、ランナーズハイならぬ勇者ハイで燃え尽きていた導は思っていたのだが、人間側はそうもいかないようで、「勇者」として祀り上げられかけた。文明のどんな破壊兵器も通用しない怪物を殺せるだけの圧倒的破壊力を個人で有している導は、ゆくゆくは国家として日本を立て直したい大人たちにとって有用な「兵器」だったからだ。
『逃げよう』
そんな状況で、呆然としていた導の手を引くものがいた。
『しーちゃんを幸せにできない世界に用はないでしょう』
そう言って、彼女は、みさきは笑った。
以来、彼女たちは都市から遠く離れた日本列島の隅も隅、人の手の届かない山奥で暮らしている。
たどり着いた場所がどこか、正確な情報を導は知らないが、五年前移り住んで来て以来、身内以外を見かけたことがない。知っているとすればみさきだが、あのぼけぼけ具合で果たして覚えているかどうか。
人型をとるようになったベルディウスが加わり、ある経緯でダンテが流れ着き。四人になった暮らしは騒々しく、めまぐるしく。
そして、楽しい。
他人のいない山奥は存外導の性にあっていたらしい。以前ほどの文明レベルの生活は望めないが、それはそれ、釣りをして、狩りをして、畑の手入れをする穏やかな生活は、荒れすさんだ心を徐々に癒していった。
「ごはんですよー」
「はぁーい」
「…………当然って顔してるけど、ベル、まだ食べるの?」
「足りん」
「ソッカー…………」
「ったくもう、ちゃんとアンタ用に大盛りにしてるってのに」
「ベルベルの燃費の悪さは折り紙つきだからねぇ。いっぱいお食べー」
全体的に白い壁紙と大きな窓から入る日差しのおかげで狭苦しさはないが、間取りとして広くはないリビングは、オープンキッチンにぺたっとくっついたカウンターテーブルと、ファミリー用の大きなテーブル、椅子四つでぎゅうぎゅうだ。全員が席につくと圧迫感もひとしおである。
ベルディウス。
みさき。
ダンテ。
今はこの四人が、導の家族だ。
更新は亀です。のんびりいきます。