むかしむかしのはじまりはじまり
【契約を】
その声に、彼女はびくりと身を竦ませた。
異様な光景だった。深夜の山奥でもこれほど暗くはないだろう。葉の影に、枝の隙間に、足元に、そっと潜み此方を見ている真のくらやみを、集めて煮詰めて注ぎ込んだような、どろりと重たい黒。そこに、ぽつんと、ひとりの少女の姿がある。
圧倒的な黒の中にあって、少女は白かった。飾り気のないくたびれたワンピース、頭に被せられた古ぼけたシーツ、痩せた手足、そのどれもが病的なほどに白い。シーツの上に載せられた花の冠ばかりが鮮やかに色彩を纏っている。隠しようもなく震える両手を胸の前で硬く組み合わせ、俯いた姿は、祈っているようにも、見逃してほしい、と懇願しているようでもあった。
けれど声は、そんな少女に慈悲をかけてはくれない。
【契約を】
今度は肩を跳ねさせなかった。
おそるおそる顔を上げる。
【選ばれし乙女よ】
闇に、穴が空いていた。
穴は剣のかたちをしていた。柄があり、鍔があり、刃があった。ごくごく単純な、剣、と言われて即座に頭に浮かぶかたち。しかし紙に空いた虫食い穴のように実体がない。圧倒的な黒とも、病的な白とも、鮮やかな色とも違う、ただそこにあるだけの空白が、たまたま剣のように見えるかたちをしているだけのように見えた。
その空白から声が響く。
【選ばれし乙女よ。契約を。
異邦の魔を討ち祓われよ】
選ばれし乙女。その通りだ。
平凡な町で平凡に暮らす平凡な女子中学生だった彼女の日常が崩壊したのは、突然のことだった。
冗談みたいな外見の怪物がどこからともなく湧き出でて、目に付くはしから人を殺し始めたとき、誰一人対応できなかった。SF映画じみた光景に人々は呆けたように麻痺し、我に返るや否や一も二もなく逃げ出して、人間社会は一気にパニックに陥った。昨日まで信じていた日常、昨日まで信じていた常識、昨日まで信じていた隣人、昨日まで信じていた自分、すべてをかなぐり捨てて―――そこまでしても逃れられず、数え切れないほどの命が奪われた。機能しなくなった社会は国民を管理するどころではなくなった。いつどこで誰が殺されたのか、カウントできるような余裕を持つ者などとうにいなくなっていた。
道端には、小さな子供が遊び飽きた玩具にするように、原型も残さず引きちぎられた異常な死体が転がっているのが当たり前になった。破壊された家屋で息を殺し。血の匂いが充満するコンビニで僅かに残された食料をかき集めて。誰かの悲鳴が遠いことに安堵して、近ければ隠れる場所を探して。明日生きている自分の姿が思い描けず、わめきたくなる衝動を飲み込んで、狭く暗い隠れ家でひざを抱えて眠る。
そんな人間たちに「神託」が下った。
魔を祓う力を授けましょう。
乙女たちに白い服を着せ、花冠を被せて、満月の夜に野原に並べなさい。
一人や二人ならまだしも、生き残った人間すべてが同じ夢を見れば、「神託」と呼んでも差し支えないだろう。
血眼になった大人たちは生き残った少女を集めて白い服を着せた。冠のための花には困らなかった。怪物は人間は殺しても花は踏み荒らさない。
少女たちは―――――少女は。人々の「救ってほしい」という願いを背負わされている。
助けを求めるように周囲を見渡せども、誰も居ない。何が起こるのか分からず不安げな少女たちも、何か起こってほしいと奇跡を求めて目をぎらつかせる大人たちも、月も、野原も、そよ風さえも。
ここには誰も居ない。誰も、助けてはくれない。
【選ばれし乙女。運命の乙女。我が、主よ】
契約を。剣は繰り返し謡う。
【異邦の魔を討ち祓われよ】
少女は、震えながらも立ち上がった。どうすればいいのか、何をすればいいのか、漠然と理解していた。
両手を剣に伸ばし、柄に見える部分を、そっと握る。
瞬間、少女の体が跳ね上がった。指の隙間から真っ赤な血が溢れ、滴り、どこにも落ちずに消えていく。腕を伝って服を濡らす感触に慄いて身を引こうとした少女は、しかし、剣から手を離すことができずにその場でたたらを踏んだ。凍りついたように動きを止める。
血を吸った柄は黒く染まった。
嗚呼、と、少女の唇がふるえた。
【契約は結ばれた】
柄が、鍔が、刃が、生まれた。
黒く染まった柄を受け入れる鍔が、白銀に煌く厚く大きな刃が、確かな現実となって少女の両手におさまった。小柄な少女には似つかわしくない大きく重い剣を見下ろし、取り返しのつかない失敗をしたように震える少女に、声は、生まれたばかりの剣は、容赦なく謡う。
【選ばれし乙女。運命の乙女。我が、主よ。
契約の下、其の身、其の命、其の運命は捧げられた。
さあ、我が主。異邦の魔を討ち祓われよ】
少女は嗚咽も悲鳴も噛み殺しながら、その死刑宣告を聞いた。
嫌な予感がねっとりと心臓を絡めとる。
この闇の向こうにはきっと、とびきりのバッドエンドがあぎとを開いて待っているに違いない―――――――――――――
と、いうのが、五年前の話。