三神美奈穂
昼休みが終わり、購買部は嵐が過ぎ去った静けさに包まれていた。
用意していたパンや弁当は完売し、売り物は飲み物とお菓子程度しか残っていない上、もう授業が始まっているからなのか、食事ができるスペースは閑散としていた。
そんな中に一人取り残されたようにいる元命尚人は、購買部のカウンターに肩肘をついて天井を見つめていた。
「……ふぅ」
ため息を吐いて、
「なんで、俺がこんな事をしないといけないんだ?」
ついつい元命はぼやいてしまった。
ただ顔を出すだけだと思っていたら、先日、何人かパートの人が辞めてしまって人手が足りないからと元命が早速駆り出されたのだ。
昼休みが終わると、他の従業員は休憩を取ったため、今日来たばかりの元命が店番をする事となった。
「二十六代目 望月ばかりか、俺まで招集された案件だ。何かあるはずなんだが……」
元命尚人の本職はエージェントである。
『エージェント』といっても、スパイのような存在ではなく、あくまでも『殺し屋』に近い何でも屋である。
人殺しなど何とも思っていないエージェントが多く、利害関係によってはエージェント同士の殺し合いもある。
あるという表現は相応しくはないのかもしれない。
エージェント同士の殺し合いがよく行われているのだ。
二十六代目 望月もまたエージェントである。
戦国時代から続く忍者の家系で、諜報活動から暗殺まで裏の仕事は何でもござれといった何でも屋に等しいエージェントであると元命は耳にしている。
「……他にも何人か招集されているんだったら、バイトどころの話じゃないと思うんだが……」
エージェントである以上、こういったアルバイトは本来ならば専門外の仕事にあたる。
購買部でのアルバイトが今回の任務にとって重要な要素である可能性があるため、避ける事ができそうもないと元命は感じている。
今現在、元命は大手製薬会社である河内技術研究開発所の海外提携会社に雇用されている形になっている。
海外提携会社とは言っても実体はペーパーカンパニーであり、とある国のとあるマンションの一階の一○一号室に登記はされてはいる。
だが、その部屋は空室であるため、会社として存在していないようなものである。
不測の事態があれば、ペーパーカンパニーごと即座に切り捨てる事が可能になっている事もあり、河内技術研究開発所そのものにダメージが及ばない。
要はいつでも切り捨て可能な駒である。
元命的には、十分な報酬が出る以上、そんな事はどうでもいいとさえ思っている。
「他に来ている奴が誰なのかが分かれば……」
購買にこの学校の制服を着た少女が一人、授業中であるのにも関わらず、すうっと入って来た。
背はさほど高くはなく、百六十センチくらいだろうか。
あまり運動などはしていないのか、華奢な身体付きをしている。
特徴的なのは髪型であろうか。
ツインテールで、髪をふわふわ揺らしながら歩いている。
その少女はどことなく顔色が悪く、何か嫌な事でもあったかのような陰気な雰囲気さえあった。
「店員さん」
少女は何かを求めるかのように元命の目の前で立ち止まり、声をかけたのだが、元命は考えを巡らせているためか全く反応しなかった。
「店員さん?」
少女は身体を乗り出してそう言うが、元命は上の空だ。
「店員さん!」
ぐいっと顔を近づけて、大声で呼んだ。
「あっ!? は、はい。い、いらっしゃいませ」
元命は一瞬殺気立ち、身構えようとした。
だが、アルバイト中だと思い出して、殺気を咄嗟に隠して引きつったような笑顔を少女に向けた。
「……あれ?」
少女は元命の顔を見て、小首を傾げた。
「何か?」
殺気を出したのを悟られたのかと元命は考えた。
「……お兄ちゃん?」
その言葉を発した時、少女が纏っていた陰気さが一瞬にして霧散した。
「呆けているのかい? 俺に実の妹などいなければ、義理の妹もいない。人違いじゃないか?」
腹違いの妹がいるかもしれないが、とも言おうとしたが、確認しようがないため、あえて言わなかった。
「尚人お兄ちゃんだよね?」
少女はほんのりと頬を紅く染め、瞳を潤ませ始める。
「尚人である事は否定しない。あえてもう一度言うが、実の妹はいないし、義理の妹もいない」
元命は少女の顔をまじまじと見つめるも、誰であるのか全く思い当たらなかった。
十数年間、三園岩淵に住んでいた事はあるが、ベルフォード火山の悲劇に遭遇した事によって過去の記憶そのものを
封印したような形になっていて、それ以前の事を思い出そうとしても思い出せない事が多い。
「ふふっ、変わってないね、お兄ちゃんは」
購買に入ってきた時とは別人だと思えるほど明るい笑顔を元命に向けた。
「すまないな。記憶障害みたいなものがあって、昔の事はあまり思い出せないんだ。記憶喪失の一種のようなもんだな。昔は恋人だったかもしれないが、今の俺には見ず知らずの他人にしか見えないんだよ。困った困った」
「私の事、思い出せないの?」
その言葉と共に、当初の陰気さが少女に戻り始める。
「名前は?」
「私は、三神美奈穂。お兄ちゃんに最後に会ったのは、五年前、庵さんと珠樹さんが数年海外に行く事になった時だったかな。お兄ちゃんが夏休みの間だけでも一緒にいたいって言い出したから一緒に海外に行くことになったよね。それで、お兄ちゃん達を空港で見送った時かな……」
「……五年前、か」
元命庵と元命珠樹は、五年前に死んだ元命の両親だ。
だが、その二人は五年前のベルフォード山の悲劇の際、鬼籍に入った。
しかも、あの惨劇での被害者の多くは公表されてはいない上、国家機密扱いであるため、行方不明者扱いされている。
そのため、知らなくても当然ではあった。
美奈穂が例の悲劇を知らないと分かり、利害関係が絡むような関係にならなそうだと感じ取った。
演技とも考えられなくもなかったが、その可能性は低いと第六感が伝えている。
「庵さんと珠樹さんは元気なの?」
元命は『あの世で』と心の中で呟いた後、
「たぶん元気だろ。しばらくは会っていないが」
「なら、よかった。しばらくしたら、お兄ちゃんが昔住んでいた家なんだけど今だと借家になってるんだよ。連絡を取ろうと思っても、取れなくて……。どうしたのかなって思ってた」
ベルフォード火山の悲劇の時、二人が同行していた発掘調査団は某国の特殊部隊の襲撃を受けて、庵と珠樹は重傷を負った。
病院などが近くにない場所であった上、命の灯火が消えかかっているのを悟っていた二人は、縁もゆかりもない土地でこのまま苦しみながら死ぬのは辛いと息子の元命尚人に介錯を頼んだのだ。
逡巡の末、真人は両親の最後の頼みを聞き入れざるを得なかった。他にも、惨劇の中で起こった様々な出来事を思い出していく。
某国の機械化兵団が数百人の軍隊を虫けらのように瞬殺していく光景や大量のミサイルが降ってきて、一面焼け野原になっていく光景。
そして、空港に見送りに来た少女の姿が当時の記憶がスクリーンに映し出された写真のように脳裏に思い浮かんできた。
『おい、ポチ。泣くなよ。俺はすぐに帰ってくる。しばらくは一人で生きるんだぞ』
そう言って、過去の俺は美奈穂の頭を撫でていた。
「……ああ、そういう事か」
しかしながら、その前後の記憶は全くもって思い出せず、当時の少女の姿とあだ名が『ポチ』という事と、少女の当時の顔しか記憶の片鱗として見つける事ができなかった。
「……お兄ちゃん?」
「ポチ。そうだ、ポチか」
何故三神美奈穂に『ポチ』というあだ名をつけたのか、元命は思い出す事が当然できない。
何か忘れてはいけないような事があったような気がするのだが、思い出せないのだからやるせなかった。
「えっ!? 今、ポチって言ったの!?」
美奈穂から陰惨さが再びなりを潜め、頬を朱色に染めた。
「あだ名だけだよ、思い出したのは。他はさっぱりだ。記憶障害のせいで、記憶が失われたらしいからな。思い出そうとしても思い出せない記憶が結構あるんだ。お前の事についても大部分は記憶から欠落している」
昔の事を少し思い出しはしたが、元命は懐かしさだとかそういった感情を一切感じる事はなかった。
「記憶障害って治らないの?」
美奈穂は心底心配している様子でそう訊ねてくる。
「たぶん治らない。治さない方がいいとさえ言われたから、無理に治す気もない」
「……そうなんだ」
と、残念そうに呟いた。