5 赤い霧とカルマ
翌朝のことである。
昨日の対人作業で疲れが出たせいか、早朝の日課である稽古もせずに寝ぼけたままで食卓へと向かった。
「……おはよ」
寝ぼけ眼の視界の先にぼんやり映った祖父へと軽く挨拶を済ませて顔を洗いに行こうとして、
「ごきげんよう。ずいぶん眠たそうですわね?」
「いやいや、我が孫ながらだらしないところを見られてしまいましたのう」
「いえいえ、こちらこそこのような時間にお邪魔させていただいて」
いるはずのない声に開きたくなくなった眼を見開き、陽の光に反射する金髪を捉えた。セシリアが運動着のようなシャツとズボンを纏い、座っていた。
「なんでいんの……」
社交辞令抜き。取り繕う気もなく、邪魔ですという念を隠しもせずにそういった。都の人はぐいぐい攻めてくる趣向でもあるのかよ。
「実は朝方のジョギング中にあなたのお祖父様とお会いしまして、朝食をご一緒にと誘われたのですわ! さあ早くあなたも顔を洗ってきなさいな! 冷めてしまいますわよ!」
「ほっほっほ。元気の良いお嬢さんだ」
他人の食卓に誘われてそれだけ図々しくいられるなら少しは遠慮というものを覚えていただきたい。言葉を胸に秘めて、流されるままに顔を洗いにいくのであった。
朝食を済ませて、一息ついたところのことである。
「こちらがわたくしオススメの茶葉ですわ。どうぞご賞味くださいまし」
「ほっほっほ。申し訳ありませんな、このようなご老体に大事な茶葉を分けていただいて。………どれどれ」
「じーちゃん。買収されたわけね」
「ふっ。同じ趣向を持つもの同士の意気投合じゃわい。…………んむっ。……おおっ! これは美味いっ! 流石はラインズベルトですなあ!」
「うふふふっ!」
名前よりも家名を出されたことに一層の喜びをセシリアが浮かべたとき、家の外から叫びに近い呼び声が聞こえてきた。
「老師ーっ! カノーンッ!」
声に目を見開いたのはカノンとセシリア。老師と呼ばれた祖父は視線を送り、カノンに外へ出るよう促した。
「どうしたんですか」
「ああ、大変なんだ! あっ、そこにいるのは都の嬢ちゃんか! よかった!」
「なにかあったんですの?」
呼ばれたセシリアも駆け寄り、村の男に説明を求める。
「夜明け前、夜明け前だ。レンの奴が、山の奥、今は獣が凶暴化してる禁断の森に行っちまいやがった!」
「なっ」
開いた口がふさがらないように固まったカノンをみて、セシリアが「禁断の森とはなんですの?」と問い詰めると、村の男は被せるように言葉を続けた。
「しかも学者連中がカルマが出たって騒いでる。いまじゃもうここからでも『赤い霧』が見えるくらいだ……!」
「なっ……んですって!?」
今度はセシリアが驚愕の表情を浮かべ、カノンが冷静さを取り戻しつつ「赤い霧ってのはなんなの?」と質問を被せたが、
「カノン」
という声に後ろを振り返る。
見ると、祖父が弓と矢の入った空穂を持ってきていた。
「いくんじゃろ?」
「……うん。レンも心配だし、昨日から様子がおかしかった」
「ああ、そうだ! レンのことなんだが、母親から聞いた話じゃ親の病気を治すための力が巫女の木にあるとか言って出て行ったらしい! 学者たちに取られる前に自分がとってきてあげるとかいってたらしいんだよ!」
「……は?」
そんな話があるのか、という視線をセシリアにぶつける。
資源を奪いに来たのか、と。
その動作にセシリアは必要以上に強く首をふり、全力で否定した。
「ない。ないですわっ! そのご病気にアルマが効果を持つ可能性は否定できませんが、巫女の木を先に奪うなど、ありえませんわっ!!!」
「……あー。ごめん。『ボク』が悪かった」
疑われたことに傷ついたのか、否定するその眼にはうっすらと涙が見えた。
問題はそこじゃない。今は一刻も早くに、レンを探さないといけない。
あの森はいま、普通じゃない。なにせ獣の凶暴化に加えて、なんだかよく知らない赤い霧なんてものまで出てるんだ。死ぬ可能性だって、低くはない。
「とにかく、『ボク』はレンを探しにいってくる」
「わたくしも行きますわよ」
見ると、元の力強い意思が見えそうな瞳に戻っている。
「森はあぶないよ」
「あまりわたくしを舐めない方がいいですわ。……なにより、『赤い霧』も『カルマ』も知らない貴方をひとりで行かせられるものですか!」
「……わかった。じゃあ行こう」
「ええ!」
「待ちなさいカノン」
いまにも走り出しそうな身体を制するように、祖父の声が響いた。
「森での約束は忘れとらんな? 危なくなったら――――」
「――――祠に避難。でしょ。大丈夫、落ち着いた。こっちは任せたよ、じーちゃん」
無言で頷く祖父の顔を見て、カノンとセシリアは山の方角へと走り出した。